第42話
顔色が優れないトリスが、小講堂に辿り着く。
その足取りが、どこか重い。
いつもは、きちんと結われているカーキ色の髪が、若干乱れていたのである。
小講堂は、噂話などの宝庫の一つで、いろいろな話が、自然と集まる場所でもあった。
情報を集める一つの手段として、暇な時間に来ては、様々な噂話を盗み聞きし、情報や面白い話を収集していたのだった。
トリスの情報源の一つだ。
一つ長めな息を吐くものの、歩く足を止めなかった。
伏せ気味だった視線を、やや上げる。
ガラガラな小講堂を、軽く見渡す。
(情報の数、今日は少なそうだな)
いつも姿を見せる時間より、少し遅れていた。
日課になっている小講堂に、足を運ぶことを取りやめようかと逡巡する。
だが、結局気分が乗らないまま、足が自然と、小講堂にいってしまったのだ。
手始めに、どこから攻めようかと、盗み聞きをする適した場所を探す。
ふと、ある場所で、視線が止まった。
すやすやと、幸せそうに眠っているリュートの姿を捉えている。
「来ていたのか」
眠っている間に、生徒の数が少なくなっていた。
残っている生徒の数が、疎らで、眠っている姿が目に入ったのだった。
「……」
気持ち良さそうな寝顔に、無性に腹の虫が疼く。
立っている場所から、寝顔がはっきりと垣間見えた。
単なる焼きもちに過ぎない。
自分にできないのに、リュートにはできると言う羨望の眼差しだ。
(俺の前で、よく寝れるな)
「なぜだ……。俺に見えて、リュートに見えない」
自分で、仕掛けたトラップを忘れている。
スタスタと近づき、少し力を込め、後頭部を殴った。
無性に、殴りたい気分だった。
小講堂に、いい音だけが響く。
一瞬だけ、誰がも、トリスたちに目を傾けるが、すぐさまに戻っていたのだった。
少しだけ、スッキリするトリス。
殴られた衝撃で、目が醒め、両手でリュートが頭を押さえる。
殴られた当の本人は、うっすらと涙目を覗かせ、キョロキョロと犯人を捜す。
すぐ脇に立っている存在に、ようやく気がついたのだった。
数秒かかって、噛み付く。
「お前な!」
「ムカついたから、殴った」
逃げも、隠れもせず、ムスッとした顔で立っている。
「ムカつく」
その声音は、咎める、そのものだった。
機嫌の悪い目つきで、痛みを堪えているリュートを見下ろす。
殴ったことを怒るよりも、ムカついている原因が気に掛かる。
「何で?」
「はぁ?」
「何で? ムカつく?」
首を傾げ、パチパチと瞬きを繰り返す。
そんな無防備な姿が、さらに苛立つのだった。
「お前の寝顔見ていたら、無性にムカついた」
「はぁ?」
理不尽な理由に、首を捻るばかりだ。
「ムカついたんだよ、お前の寝顔に」
口調が、徐々に荒くなっていた。
「わかんないやつだ」
率直な言葉を、リュートが吐いた。
苛立ち、そのままに、トリスがそっぽを向く。
殴ったことを悪いと巡らせる気持ちと、殴ったことを悪く思わない気持ちが、点在し、複雑な心境が入り乱れ、それが態度に表れていたのだった。
「今日のトリス、おかしいぞ。と言うか、昨日の夜から」
「……」
ぎくりと、内心抱く。
けれど、表情は不機嫌、そのままだ。
眠っているリュートを起こす際、肩や背中を軽く、叩いて起こしていたのである。
今まで頭を殴って、眠っているのを起こしたことがなかった。
昨日の件で、気持ちが高ぶり、イライラしていた。
そのとばっちりで、気持ちよく寝ていたリュートに、矛先を傾けたのだった。
「何で、こんなところで寝ている」
ぶっきらぼうに、トリスが尋ねた。
相当苛立っていることを、ここに来て始めて把握する。
珍しいこともあるものだと、剥れているトリスを視界に捉えていた。
ここまで苛立ちを見せる姿を、見たことがない。
トラブルメーカーのリュートに対し、怒る態度を示しても、あからさまな苛立ちの感情を、ぶつけたことがなかったのである。
苛立ちの原因に、触れない。
「お前が、いなかったからだろう」
「授業は、どうした? 確かカテリーナ先生じゃなかったか?」
ようやく、不機嫌なままでいるトリスが、どう対応していくか、思案しているリュートと視線を合わせる。
苛立ちを増しても、苛立ちの原因を、突き止めた方がいいか、それとも苛立ちが収まるまで、別な話題に触れ、時をやり過ごした方がいいのか、初めてのことで、慣れないリュートは、どちらで対応をすべきか戸惑っていたのだった。
(んー、どっちにするか)
考えた末、原因に触れず、やり過ごす方に決めた。
「出張で、空きになった」
「……そうか」
「それより、どこにいた?」
自分同様に、授業に出ないトリスが、今の今まで授業に出ていたとは知らず、どこかで授業を、サボっていたと勘違いしているのである。
「授業だ」
そっけなく即答した。
目を丸くし、素直に驚くリュート。
食い入るような視線に、ムッとしている。
「たまに、俺だって、受けているぞ」
「珍しいな」
素直な気持ちを吐き出した。
「お前に、言われたくないが?」
眉がピクッと動き、鋭い視線を投げかける。
これ以上、聞くなと、態度に表されているにもかかわらず続ける。
好奇心に、勝てないリュートだった。
「俺は、一から勉強してる。けど、お前は違うだろうが」
「別にいいだろう。俺が授業に出ようと出まいと」
「確かに、そうだ。けど、珍しいだろうが?」
「しつこいぞ」
「そうか」
きょとんとした眼差しを注いでいた。
その視線から、逃れるように、ステンドガラスの窓に視線を走らせる。
珍しいものを見るような視線が続いていたのだ。
話題を反らせようと、口を開く。
いったん興味の味を知ったら、リュートがしつこいと把握済みだった。
「セナは?」
「休み。具合悪いんだって」
「そうか」
(昨日のあれが、効いているのか……)
「昼飯、食ったか?」
自分のお腹を押さえ、すっかり話題を摺りかえられたことに気づかない。
自ら、別の話題を尋ねたのだった。
話している間に、小さくキューと、腹の虫が鳴り、お腹が空いていることを知らせてきた。
「いや」
ベストタイミングで、授業終了のチャイムが鳴る。
ニンマリと、限界値まで口角を上げた。
「保健室に、行こうぜ」
「なぜ? 保健室なんだ」
眉を潜め、嬉しそうなリュートを窺う。
「お菓子、焼いている気がする」
「……」
「俺の勘、絶対に当たってる」
自信満々な姿に、天然バカだと、頭を抱え込む。
頭の中は、保健室でお菓子を食べると言う色しかない。
他の話は、ことごとく腹ペコな腹に、払拭されたのである。
「その後、夜に備えて、ゆっくり昼寝しようぜ」
(それだけは、忘れていなかったか……)
張り切っている様子に、今日も行くのかと、深い溜息を零さずには入られない。
重い頭が、より一層重くなるのを、感じるトリスだった。
不快な表情を覗かせるトリスに、気合い十分なリュートが拳を握った。
対照的な二人の表情。
「後、もう少しだ。絶対、謎は解ける。お前だって、そう思うだろう?」
疲れ気味なトリスが逡巡し、ひと呼吸置いてから答える。
「俺はもう、興味がない。……試験も近いじゃないか? いいのか、試験勉強は?」
考え込む表情を窺った。
これ以上、かかわりたくない。
だから、さらに気合いが入っている姿を目にし、とにかく諦めさせたかった。
今回の試験に力を入れていることを、把握していたので利用し、試験の話題をすれば、すんなりと、夜の張り込みをやめると、甘く見込んでいたのである。
でも、その反面、中途半端な気持ちのままで、試験勉強に望まないかもしれないと言う憶測も、頭を掠めていたのだった。
刻々と、リュートが出す答えを待つ。
「大丈夫だ。取り戻せる」
予測が、的中してしまった。
がっくりと、首を落とす。
「……そっか。それなら、俺は構わないけど……」
気合いの入っている姿に、落胆の色が隠せないトリス。
二人は、同じ階にある保健室へと向かった。
段々と、保健室に近づいていく。
すると、グリンシュが誰かと話をしている声が、耳に飛び込んだ。
話し相手の声が、二人に届かない。
「先約か?」
僅かに、目を見張っている。
「そのようだな」
「保健室に、生徒か、珍しい」
「珍しくもないだろう。一応保健室なんだから」
「そう言えば、そうか」
「言っておくが、保健室は、お菓子食う場所じゃないぞ」
「なるほど」
(昼寝や、ティールームの場所じゃないと。んー、傷を治す場所、でもな、俺たちには関係ないな。傷薬や飲み薬は、トリスのおばさんから、貰っているし……。やっばり、昼寝場所だよな。後は、おやつ食べる場所か。ま、どっちでもいいか、そんなこと)
結論付けた姿に、いつも以上の疲れを感じるトリスである。
保健室の前で立ち止まり、先頭にいるリュートが、無造作にドアを開けた。
「よっ」
「どうも」
意気揚々に入っていくリュート。
その後に、気鬱そうなトリスが続く。
グリンシュが作るお菓子を好んで、最近足を運ぶようになっていたのだった。
リュートの妹ミントが、入学して以来、保健室に通うようになり、何かと保健室に出入りするようになっている。
それまではケガをしても、トリスの実家から貰う薬草で、治療していたからだ。
保健室に、グリンシュの姿しか見えない。
首を傾げるリュートたち。
唐突な訪問に動じる姿をみせず、いつものように目を細め、淡々とした仕草で、二人を招き迎えた。
グリンシュ以外の人の気配がない。
人が存在していれば、気配や身体から放出される温もりが、僅かに残るものなのに、それがなかったのである。
「どうか、しましたか?」
微笑んでいるグリンシュ一人の姿しか、見当たらない。
ベッドにも、誰も寝ている姿も形跡もなく、空っぽのままだ。
シーツにも、しわ一つなかった。
どこをどう捜しても、保健室に誰の姿もない。
「ここに誰か、いなかったか?」
素朴な疑問を、リュートが投げかけた。
背後に立っていたトリスも、訝しげに周囲を細かく検分し、人の姿をくまなく捜す。
けれど、グリンシュの姿しか見当たらなかったのである。
だるさの続くトリスの脳裏に、昨日の件が鮮明に蘇り、尋ねるよりも先に、身震いを起こしていたのだった。
身震いするトリスに、目を細め、隙なくグリンシュが眺めている。
「どうして、そう思うんですか?」
「声がした。……そうだよな、トリス」
「ああ」
「私は、ずっと一人でしたよ」
表情一つ崩さず、ほくそ笑む。
先ほどまでの鋭さが感じられない。
自分たちの方がおかしいのかと、首を傾げている。
顔に影が掛かっているトリスの脳裏に、昨日の件があるから、変に勘ぐってしまうのかと、別な思考を巡らせていたのだった。
(気のせいだ。今日のところは、余計な詮索はやめよう)
怪訝しているリュートを尻目に、次から次へと、不安要素しか浮かばないので、頭を振り払っていた。
少しでも早く、昨日の件を忘れたかったからだ。
「ところで。どういう、ご用件ですか?」
「お菓子、食べに来た」
瞬く間に、頭は空腹のことだけになった。
単純な思考回路である。
「ちょうど、焼き上がったところです」
「ラッキー。トリス、当たっただろう」
楽しげにリュートが、軽くウインクしてみせる。
「……ああ。そうだな」
いやな思考から、完全に拭え切れていないトリス。
ぎこちない視線を、笑顔を絶やさないグリンシュに移した。
お菓子を確保したら、次に眠るためのベッドを貸してくれと、リュートが交渉している。
夜の張り込みのために、鋭気を養っておこうと考えたのだ。
「ここは、ホテルではありませんよ」
「いいじゃん、別に。減るもんじゃないし、少し仮眠をとらせてくれよ」
いい返事をくれないので、拗ねたように口を尖らせる。
そんな可愛らしい態度に屈せず、ただ微笑みを滲ませているだけだ。
その微笑みが、落ちる見込みがない。
お菓子と、睡眠しかなかった頭を動かす。
「このところさ、試験勉強で寝ていないんだ。だから、頼む」
手を合わせ、必死に拝み倒す作戦に変える。
初日に顔を合わせているのだから、試験勉強が通じるはずないだろうがと、心の中で突っ込むトリスだった。
「お願いだ、グリンシュ」
「ダメです」
涼しい表情で、きっぱりと即答した。
「ケチ」
眉間にしわを寄せ、膨れっ面で微笑みの面を崩さないグリンシュを見上げていた。
可愛いですねと、ニッコリとした顔で呟く。
「少しだ……」
「ダメです」
「寝るためにあるだろう、ここは?」
「少々、具合の悪いトリス君でしたら、構いませんが。元気のいい、リュート君は、無理ですね」
グリンシュの言葉で、顔色の優れないトリスを窺う。
ようやく、良くないと気づいたのだった。
「大丈夫か? いつから具合、悪いんだよ」
(気づくのが、遅い)
呆れ気味のトリスに、グリンシュが問いかける。
「食事、取りましたか?」
「いや。まだ」
「それでは軽いものでも、用意しましょうか」
(何でもあるのか、ここは)
心で、軽く突っ込む。
トリスの思考を、読んだかのように、不敵な笑みを零す。
保健室にあるキッチンへと姿を消した。
「ここで、休んでいろよ」
優しい言葉をかけるリュート。
お疲れモードが増したトリスが、感激を憶えている。
「今日の夜だって、あるんだからさ」
(やっぱり、お前はそういうやつだよ)
少しでも、感激した自分を悔やんだ。
(俺がバカだった。あいつの天然ボケも、好奇心も、直るはずないのに……)
キッチンから、顔だけ出し、二人のやり取りを、一部始終窺っていたのだ。
苦笑を覗かせ、声をかける。
「仲良くしてくださいね」
「おう」
のん気なリュート一人だけが、元気良く即答した。
諦めモード全開で、虚ろげにトリスが、グリンシュを見ていただけだった。
読んでいただき、ありがとうございます。




