第32石 開いた鉄扉
ガリガリ……
扉が開くその音、たったそれだけでフェルギフと男が動きを止める。両者の視線は、奥の通路の更に奥、扉に釘付けになっていた。
異様だった。その扉が開いた途端、この建物に着いてから鼻腔を刺激していた悪臭が増し、空気がいやに冷たくなった気がした。ひんやりと冷たいのに、妙な湿気を帯びた空気に不快感を禁じ得ない。
「深冬……! どうしたんだ?」
年齢は7、8歳だろうか。男に深冬と呼ばれた少女は足を引きずるようにして通路をこちらに向かって進んでくる。くたびれたワンピースだけを着ていて、膝まで伸びた長い赤髪はボサボサに乱れている。如月も、雲川も、俺も、フェルギフでさえその少女から一瞬たりとも目を離すことができないでいた。
今まで散々な目にはよっぽど遭ってきたつもりだし、死にかけたこともある。古文書とかいう訳の分からない力も目の当たりにしたし、人が死ぬのも見た。
そんな常識はずれな経験からすら何か一線を画するモノを少女が持っている気がした。所詮は第六感に過ぎないその予想は、少女の姿を目で捉えただけで理解不能の確信を得る。
「俺が呼ぶまで出てきちゃダメって言ったろ……ほら、今お客さん来てるから……」
「治らないの」
本来はもっと澄んだ声だったのであろう少女──深冬の声は、ひどく掠れてくぐもっていた。にも関わらず言葉は明瞭に耳に届き、脳に警鐘を鳴らさせる。
「あの、奥だ……」
警鐘を口に出したのは、戦線からは一歩退いていた雲川だった。雲川の声は尋常でなく震えており、振り返らずとも怯えているのが分かる。
実際、俺は振り返ることはしなかった。いや、振り返れなかった。今は雲川の身を案じる場面だし、俺だってこんな状態の雲川を放っておくほど薄情ではない。
だが今は、今はダメだ。あの深冬という少女から、目を離してはいけない。
あいつは決定的に『違う』。
「昂にぃがくれた『薬』にね、何度もお願いしたよ。ママを治してって。なのになんで? どうしてママを治してくれないの?」
「ごめんな……俺がもっとしっかり……」
「違うよ! 昂にぃは悪くない! だってママのケガのためにずっと頑張ってくれてるから……だから……」
一見すると、母想いの兄妹の美しい家族愛にしか見えないそれは、何故か途方もない違和感を俺の中に植え付けていく。その違和感は、度々曇る兄の表情のせいなのか、瞳に光を宿さない妹のせいなのか。その両方のせいであろうか。
「…………め……い………………」
「奥から……?」
まだ如月や雲川は気がついていないだろうか。深冬が出てきた通路の奥、その先から、微かだが声が聞こえる。
「ごめ…………い…………ごめん、なさい……」
「──っ! タイヨウ!!」
極限まで研ぎ澄まされた聴覚でしか捉えることができない程弱々しい声だったが、確かにタイヨウだ。
生きていた。声を出せる状況にある。それだけで不安は幾らか払拭されたものの、まだ安心はできない。
居ても立ってもいられず、奥の部屋に向かって駆け出す。臭気は強まり、空気の湿り気は満ちていく。だがその疾駆は、無感情な声に止められる。
「まだダメよ? お兄さん」
忙しく動いている両足の大腿に、運動とは別の蠢きを感じる。まるで最初からそこにいた何かが、深冬の言葉をきっかけに呪縛から解かれたような。
パンッ
情けない音が鉄の部屋に響く。風船と言うには少々勢いが無いものの、何かが破裂した音に違いはない。
音と同時に俺の体は宙に浮いたような感覚に陥り、胴体が地面に打ち付けられる。受け身もとれずに叩きつけられたはずだが、不思議と痛みは無かった。
それよりもっと不可解だったのは、倒れた自分が、いつまで経っても起き上がれないことだった。
何やってんだ、早く立てよ。タイヨウが奥にいるんだ。
脳は繰り返し繰り返し命令を身体に送るが、レスポンスは面白いくらいに無い。
その内、自分の体が血に浸っているのが分かった。ズボンと上着、体を支える腕が血にまみれたところで、ようやく下半身の違和感に気がつく。
違和感の正体を知りたいと、目が己の脚を、見た。
「立花ぁ!!」
今まで聞こえていなかった如月の声が聞こえたのと、内側から弾けて胴体から解放された脚2本が見えたのは、ほとんど同時だったと思う。
脚だ。大腿部から爪先まで、すっかり残った脚が2本、石ころみたいに転がっている。
ふと、自分の脚を見ようと思った。何の気なしに、自分の脚を。ただ、そこにあるはずの脚は無くて。
冗談みたいな量の血を吐き出すだけの幹があった。
「おぁ、あ、ああああああああああああああ!!!」
「落ち着け立花! お前には"夜の石"が……! くそっ! くそっ!!」
夜の石を使えば、もしかすれば脚の1本や2本生えてくるかもしれない。そんなこと、俺が1番よく分かってる。だが、無意識の内に俺は首を横に振り、駆け寄る如月の提案を否定していた。
あの苦痛を味わうくらいならば、両足が消し飛んだ今の方がマシだ。
痛みで理性的な判断力が飛び、生死の境をさまよう現状で、打開策を捩じ伏せてしまう程の強烈な苦痛の記憶。
分かってる、本当に分かってはいるんだ。このままだと俺は失血によるショックで、そう待たずに死ぬ。タイヨウを、助けられなくなる。それは嫌だ。絶対に避けたい事態だ。
その自覚を嘲笑うように、肉体は行動を始めない。"夜"の力を借りようという浅ましい考えを許さない。
俺の否定の意味を理解した如月の懸命の止血は続く。上着を脱ぎ、傷口付近を圧迫している。顔色が一段と悪くなった雲川まで駆け寄って止血を始めている。
バカだな、お前、具合悪いんだったら無理しないで寝てればいいんだよ。如月も、何必死になってんだ。恩返しはもういいって。俺達赤の他人だろ? どうしてそこまで頑張るかな。
とうとう自分の置かれている状況も不鮮明になり、世界がモノクロになろうとしていたその時、少女の声がした。
「助けて……秋人…………!」
「力ぁ貸せ……! "夜"!!!」
「全く、この上ない愚か者だよ。お前は」




