ジャイアントパンダの赤ちゃんここに眠る
地球は太陽の周りをぐるぐる回ってついでに地球自身もぐるぐる回って、すでに四十六億年が経つという。人間はたかが一億数えるだけでも一生の生活時間の大半を捧げなくてはならないけれど、いまのところ地球のほうからは飽きたとかイヤだとかダリィなんてぼやきは聞こえてこない。
いっぽうぼくはいま、仕事の開始からわずか五分で飽きている。一時間の十二分の一、秒でいえば三百未満。豊田先輩は「対馬くん、地球を見習うんだ」と無茶なことをいうけれど、見習う対象がかなりまちがっていると思う。なにより意味がわからない。
べつに隠すようなことでもないのでさっさと明かすが、ぼくの仕事はぐるぐる回る地球の周りをぐるぐる回りながら、その半周ごとにスイッチを押すことである。
これだけだと「なにをいっているんだおまえは」となりそうなので、ぼくの知るかぎりを細かく話そう。
ここは衛星軌道で、ぼくの乗っている宇宙船だか宇宙ステーションだかは秒速何キロメートルの高速で、青くてきれいなまん丸を中心にぐるぐるしている。楕円軌道のはずだから正確には中心ではない、とか、その手の話は数学の得意なやつにしてやって欲しい。ぼくはべつに宇宙飛行士ではない。博士号を持った研究員でもない。ぼくはただの大学生で、理系ですらなくて、なぜ宇宙くんだりでこんなことをしているかといえば、こいつにさらわれてここに来たからだ。いまぼくの背後で欠伸をしている宇宙人、豊田先輩に。
ぼくはただの大学生なのだからもちろんただの大学に通っている。べつにあってもなくてもいいような地方私大、といえば想像がつくだろうか。
スマホをいじっていれば終わるような講義のテスト対策なんぞはスマホで情報を集めてやればじゅうぶんで、その「スマホで集められる情報」には、アドレス帳も含まれる。学内における人間関係の織り目のなかに自分がきっちり組み込まれていれば、単位取得の道は全自動、とまでは行かないけれど、歩くエスカレーターくらいにはなる。ノートやレポートのコピー、代返、過去問の収集、そもそも教授陣との付き合いさえあれば、不可が並んだ成績表をぶら下げてスポンサーたる両親の機嫌を損ねることもない。
ケータイやネットのない時代の大学生がみな品行方正、まじめに勉学に励む者ばかりであったとも思えないので、要するに彼らも同じようなことをやっていたんだろう。人力で。頭の下がる話だけれど、その姿はぼくにはいまいち想像できない。お侍さんが刀を振り回している世界と同じくらいには、ぼくからは遠い。
学内における人間関係の織り目のふちはもちろん学外につながっていて、女の子を紹介してもらうだとか、バイトの斡旋だとか、各種イベントであるとか、就職情報であるとか、もちろんこちらの裾野のほうも広いにこしたことない。四年間を有意義に過ごすうえで、なにかと便利だ。
豊田先輩はそのふちの一点に立っていた。
そしてぼくはいま、スマホのつながらない宇宙空間で、深夜バイトのシフトが一致しただけの、たいして親しくもない豊田先輩の、事実上の家来となっている。この宇宙人は刀こそ振り回さないが、殿様のような絶大な権力を持っている。
権力。他人の意を無視できる力。
たとえば、ぼくを家に帰さないとか。
「意外とストレスに感じてないようだな」
豊田先輩が声をかけてくる。
「じゅうぶんストレスですよ」
ぼくは振り向きもせずに応える。仕事中は目を離すなとのお達しだ。
「以前、この仕事はひきこもりのほうが向いてるだろうと思い、筋金入りのヒッキーを連れてきたことがあるんだが、意外や意外、ヒッキーは泣いて喚いて家に帰せときたもんだ。住み込み三食おやつ付き、仕事が終わればゲームし放題。このくらいひきこもりに向いた環境もないだろうに」
「仕事ってのがイヤなんでしょ。しかもここに先輩がいてとやかくいうじゃないですか。誰とも関わりたくないんですよ、ひきこもりは」
「なるほど。対馬くんは物知りだな」
先輩はゾンビとミイラの悪魔合体みたいな貧相な顔のくせして、豪傑のようにからからと笑う。振り向かなくてもわかる。
スイッチに手をそえるぼくの眼前にあるのは巨大な窓で、窓にはまっているのはガラスじゃないならなにか宇宙的な透明素材で、とにかくそいつを通してずっと地球だけが視界に入る。地球が回ってぼくらも回って、とにかくずっとぐるぐるしている。
先輩の第一印象は悪くはなかった。
「豊田です。よろしく」の顔は晴れやかにこやか、とても人さらいをするような人物には見えなかった。ガリガリといっていい細身の身体でつむじがぼくの目の高さ。世の誘拐犯の平均は、もうすこしガチムチムキムキマッチョだろう。先輩は仕事についても口うるさくないどころか、実にゆるく、極めて適当だった。コンビニのバイトはクレーマーに代表される接客の気遣い以上に、職場の人間関係がストレスになる。ぼくはラッキーだと思った。
ただし先輩は、時おりわけのわからんことはいっていた。
「なるほど不況のさなかに生まれたきみらは、ゴキゲンさが足りないような気がするな」だの、「生命、宇宙、万物についての究極の疑問とはなんだろう」だの、「こんなちいさな商店のコンビニエンス度を高めるための労働なんかじゃなく、男子たるもの、ワールドワイドでユニバーサルな視野のおおきい仕事に取り組んでみたいと思わないか」だの。
先輩はいくつなのかと思ったが、訊かないことがマナーであろう。
「男子たるものって、そういうの古くないですか」
「いいやむしろおれは最先端だと思うね」
優しげな見た目に反した、妙な口調がひっかった。
そして出会ってわずか三日目。バイト帰りのことである。先輩の「対馬くんちょっといいかな」の呼び声に、ぼくが「なんですか」の「な」を発したとき、ぼくはすでにここにいた。ここ。コンビニとは似ても似つかない、薄暗いがらんどうの空間。深夜のコンビニをはるかに上回る静けさ。二脚だけ置いてある回転椅子。白い壁面を四角く切り取る巨大な窓。窓の向こうに見えるぼくらの惑星。
混乱するぼくに豊田先輩はいった。
「大学生の夏休みは長いだろう。きわめてヒマだ。ならばなにを成すべきか? 答えは簡単。ひとつ、でっか仕事をやり遂げようじゃないか。見てのとおり、ワールドワイドもユニバーサルもここにある」
豊田先輩は嘘はいっていなかった。たしかに(字義どおりに)ワールドワイドで、(物理的に)ユニヴァーサルで、視野にはおおきく、青くきれいな地球がましましている。でもちょっと待ってほしい。なにかがおかしい。
「ところでおれは宇宙人だ」
ぼくの混乱に先輩は追い討ちをかけた。宇宙人。宇宙の人。バイト先の先輩がエイリアン。
このぱっとしない風貌の人物が遠い遠い星の人であるという証拠は特に見当たらないけれど、こんなところに連れ去られて信じないというのも、それはそれでかなり頑固だと思う。すくなくともぼくはあっさり信じた。信じたところでなぜか心は落ち着いた。アメリカ人がハンバーガー片手にアメフトを応援するように、フランス人がシャンゼリゼ通りでボンジュールするように、ゴリラが胸を叩いてうんこを投げるように、宇宙人ならそりゃ地球にやってきて人さらいくらいはするだろう。
もちろんそんなことは、いざわが身にふりかかってみれば大迷惑以外の何者でもなく、ぼくの人権はとてつもなく侵害されて、尊厳は踏みにじられているのははっきりわかる。ただし空気を読む能力を身につけたひとりの地球人としては「ここはいうことを聞くべきだろう」との直感も働く。ストックホルム症候群とかいうやつだろうか。よくわからない。
なんにせよ、ここでこうして、いわれた仕事をこなしているのがいまのぼくだ。
そう、仕事。
仕事であるからには賃金が発生する。ぼくが手を添えている、赤い、五百円玉よりちょっとおおきいくらいの、まん丸なスイッチ。窓に向かって回転椅子に腰掛け、地球を眺めながらスイッチを押す。先輩がいうには、これが一回押されるたび、ぼくに千円が入ることになっている。地球を半周ぐるり、日本上空スイッチぽん、はい千円。次はブラジル上空、スイッチぽん、はい千円。
週休二日、一日九時間、うち休憩一時間の実働八時間、一周あたり百二十分、時給千円、欠かさずスイッチを押せばインセンティヴが発生してプラス二千円、日当にして計一万円。住み込みまかない三食におやつも付いて、豊田先輩からテレビ、パソコン、ゲーム機、ゲームソフトも貸与されている。条件だけを考えるとそう悪くはない。家に帰れないことを除けば。
給料は銀行にちゃんと振り込まれていると豊田先輩は言い張るけれど、ここにはATMがないので確認のしようがない。もちろん窓口もないし窓口のお姉さんもいない。ぼくと豊田先輩たったふたりで、毎日地球をぐるぐるしている。
この宇宙船だか宇宙ステーションだかの内部はそれなりに広くて、いまいる仕事部屋だけでも軽く体育館くらいはあるし、居住スペースには個室がずらりと並んでいる。各ブロックをつなぐ通路は無重力のところがあって、ああ本当にここは宇宙なんだなと思う。重力のあるところとないところがある理由はよくわからない。豊田先輩の星のテクノロジー的な理由だろうか。遠心力を重力代わりにできることくらいは知っているけど、宇宙船の構造は何度行き来してもうまく把握できない。この宇宙船も地球をぐるぐるするだけでなく、自分でもぐるぐる回っているんだろうか。
居住区と仕事場をつなぐ通路の標識を見ると、機関部や倉庫なんかも存在するらしい。ただし豊田先輩からはよその区画には入らないほうがよいと止められている。豊田権力に無駄に逆らう気も、そもそもたいした好奇心もないぼくとしては、まあそういう部屋もあるのだろうくらいに思って、個室と仕事場を行き来するだけにとどめている。
ここに来てすでに一週間。ぼくがこの仕事を開始五分で飽きている理由がおわかりいただけただろう。
退屈なのだ。とても。
なにもかもが退屈だ。眼に映る地球には憎しみすら感じるようになっている。
子どものころは人並みに宇宙飛行士に憧れもした。宇宙空間にふよふよ浮かびながら、色んなものを目にしたいと思っていた。全天どころか足元までもを覆う星空。異星の情景。暗黒の深淵。銀河の向こうのこっち側。宇宙の果ての果て、因果の彼方。そんな想像と比べると、これはちょっとどころかかなりちがう。先輩とふたりきりで引きこもる生活。映画『ゼログラビティ』みたいに危険なこともないかわり、あまりにもなにもなさすぎる。
豊田先輩は仕事に集中しろというけれど、たかがスイッチを押すのに集中もクソもない気がする。かといって目を離すと怒られる。
「地球を見習うんだ」先輩は毎度同じことをいう。
地球をねえ。もしぐるぐる回る地球の集中力が途切れたら、地球はぐるぐる回るのをやめたりするんだろうか。彼も彼なりに色々考えて、それでいていまのところはまあ回っといてやるかと思っているのだろうか。「彼」? 母なる地球というから「彼女」だろうか。ああまた気が散っている。地球のみんな、ぼくに集中力をわけてくれ。
そもそも、このスイッチを押すことの意味がわからないのが問題なのだ。豊田先輩は押せとしか説明しなかった。押せばお金になるんだからと。しかしながら人間は無為に耐えられない。せめてこのスイッチの意味がわかれば仕事に対する張り切りを取り戻せるだろうに。
いや、ぼくは人さらいに遭って強制労働を強いられているわけで、これといって張り切る必要はない気もするけど、それでもやはり日給一万円である。続けられるものなら続けたい。張り切れるものなら張り切りたい。一万円は一万円だ。深夜のコンビニで眠い目をこすってるよか得したね、ラッキー、と思いたい。そのうえちゃんと家に帰してくれれば文句をいうつもりもない。ATMで残高を確認したとき、ぼくは豊田先輩に感謝すらするかも知れない。
豊田先輩の言動がデタラメでも、ある程度は「宇宙人だから」で飲み込める。それも給料のうちだといわれれば、ぼくはすんなり納得できる。
のだから。
「先輩、いいかげんこのスイッチの意味を教えてくださいよ」あるいはとっとと家に帰してください。ぼくは背後の気配に向かって、この一週間で何度目かの懇願をする。目は地球から離さぬまま。
「対馬くんに説明してわかるかなあ。それよりちゃんと集中して欲しいね。地球人は地球とちがってまったく根気がないな。おれはおれの星に似て実に勤勉なんだがなあ」
こうである。
「いまがダメなら、仕事ハケたら教えてくださいよ」一応食い下がってはみる。
「えーめんどくさい、ゲームしたい」
「ちょっと教えるくらいできるでしょう」
「くらい? 簡単にいうね。教えるくらいというけれど、人様がプライベートに仕事を持ち込まない主義であるにも関わらず時間取らせようだなんて、そんな権利が対馬くんにあるのかっつってんだよ。あァ?」
「人様をさらっておいて自分は権利を主張しますかね」
「犯罪者に人権はないとでも? 大学でなにを勉強してんだ対馬くんは」
「犯罪者だと認めましたね」
「いいや。これは人さらいではない。あくまで合意のうえでの労使関係だ」
「合意した覚えはありません」
「それはおれが記憶を消したからだ」
「マジすか」
「嘘だバカ」
豊田先輩とは深夜バイトで三日、ここに来てから一週間、都合十日間の短い付き合いだけれど、性格の悪さだけははっきりしている。
休憩中は、まあ、飯を食う。
休憩時間は昼に四十五分、午後に十五分の合計一時間。昼にはもちろん昼飯があり、午後はおやつの時間となる。
正午になると豊田先輩が「休憩だ」と言い置き自室に退去する。ぼくも仕事場を出て「食堂」と銘打たれただだっ広い部屋に入る。原色むき出しなプラスチックの安物の椅子(にしか見えない宇宙的ななにかかも知れない)に着く。席はどれも同じなのでどこでもよい。長テーブルが整然と並べられている様は学食のような按配だけれど、学食のおばちゃんはいない。厨房はないし食券もない。代わりに、長テーブルの中央にはそれぞれ同じかたちの機械が配置されている。
この機械は……あれだ。ファミレスや飲み屋で見かけるものに似ている。ご存知だろうか、胴回りに黄道十二星座が描かれた、店員を呼ぶチャイムでありながら百円を入れると運勢の書かれた紙が出る、おみくじ占いマシーン的なあれだ。テーブルに置かれた機械は、あれのでっかいの、といったところだ。
百円を入れる口はないけれど占いマシーンのチャイムとほぼ同じ箇所にスイッチがあり、指でぐいと押し込めば上部がぱかんと空いて皿に置かれた食料が出る。仕組みはよくわからない。電源すら見当たらない。「宇宙だから」と納得しておく。が、納得できないところもある。この食料がおそろしく不味いということだ。
まず本日の一品目。黄色いぐねぐねしたなにか。おそらく主食。ほとんど味はしないが食感がただただ気持ち悪い。ぐねん、ぶよん、それでいてぱっさぱさ。名のある修行僧でも、精進料理に毎日これを出されたらすぐに還俗してしまうと思う。ぼくは食べ物を残すことにはかなり抵抗があるタイプなので、こいつとはナイフとフォークと忍耐力を総動員して戦うことになる。最後は水を飲んで無理やり流し込む。絶妙に不快な苦味と酸味、微かな痺れが舌先に残る。流し込まれた水を流し込むためさらに水を飲む。
食堂にはお茶っぽい色合いのドリンクを満載したポットも配備されているけれど、これまた不味い。あんなものを飲めるのは気骨あるリアクション芸人くらいだろう。ぼくはひと口で懲りて、ここでは水しか飲まないことにしている。水、ウォーター、H2O。宇宙でもかわらぬおいしさ。ここは宇宙船だから水分もなるべく循環させているはずで、つまりこの水の由来は、まあ、なんだ、その、あまり追求したくない。
本日の二品目、つけ合わせ。細長い緑の粘土みたいな物体。見た目も味も一品目以上に厄介で、なんだろう、石油を食べたらこんな感じなんじゃないだろうか。石油食べたことないけど。舌だと押し返されるものの歯だと簡単に通る固さで、噛んでいるうちに細切れてぬるぬるしゃりしゃりした繊維に分解し、コシのある繊維は歯茎や舌にぴったりと絡まる。どんだけ咀嚼しようと、のどの奥のほうが、こいつを通さないことがわが職務であると激しく主張するので、勢いつけて飲み下すしかない。逆流させないためには口をすぼめたまま身体を硬直させる必要がある。すぐさま胃袋から盛大なクレームが入る。小康状態になるのを待って、またしても大量の水で流し込む。この緑の悪夢は皿にぜんぶで五切れもある。涙目。
なにより問題なのはメニューが3パターンしかなく、そのなかでもこいつらがもっともマトモでまだ食べられるほうだということだ。マトモとはなんだ(哲学)。
「カロリーも必須アミノ酸もビタミンもそろってるはずだよ……たぶん」
豊田先輩はいうけれど、あの貧相な面構えの原因は食生活にあるのではと強く思う。ぼくもたぶんすでにだいぶ痩せてきている。先輩の星の人は味に無頓着なんだろうか。料理番組とかないんじゃないの。平野レミをひとりを送り込むだけで政変を起こせる気がする。
三食がまずすぎるせいで、おやつのほうは相対的になかなかよろしい。
おやつも機械をスイッチぽんで出てくる。白いまん丸。ほとんど「砂糖と小麦粉っぽいナニカ」としかいいようのないかたまりだけれど、甘みがあるだけで繊維質の石油よりは百倍マシだ。すくなくとも糖分ならエネルギーにはなるはずだし。
さて、仕事に戻ろう。
回転椅子にだらしなく腰掛け、仕事に取り組むぼくの後ろ姿を監視しているだけの豊田先輩は、退屈なのではないのかというとやはりとても暇なようで、人に集中しろというわりには頻繁にどうでもいい話をしてくる。
「対馬くん、万有引力を発見した地球人は誰だか知っているか」
こんなふうに。
「そう、アイザック・ニュートンだ。彼はある日、木からリンゴが落ちるのを見て脳裏になにかがよぎるのを感じた。長年の気がかりがほどけそうな、ふわっとした感触。それはまだぼんやりとして形を成さない。なんだろう。おれはいま一体なにを思いついたんだ。それを確かめるべく落ちたリンゴに手を伸ばす。すると、リンゴは坂道をころころ転がっていってしまうではないか。
追うニュートン。転がるリンゴ。
ちょっと待て、いまなにかすごいことがひらめきそうだったんだ、リンゴ、すぐさま止まれ。止まるんだ。おれのすばらしいひらめきがなんだったのか、教えてくれ。坂道が次第にゆるやかになり、距離が縮まる。すでに全力疾走していたニュートンはここで、息を切らし最後の力を振り絞っておおきく深く踏み込んだ。
あぶないニュートン! そっちは崖だ!
あわれニュートンは崖下へと落ちて死んだ。死体はぐしゃぐしゃだったが、その手に握られたリンゴは形をとどめていたという。同日同刻、アイザック・ニュートンと同姓同名のとある男が……大学が休校になってひたすら暇していたひとりの男が、すばらしいひらめきを得た。なぜかリンゴが落下するイメージとともに。彼は万有引力の発見者として広く世に知られることになる。テレパシーの存在はまだ知られていない」
先輩が余韻をこめたため息をつく。話は終わったようだが、意味がわからない。
「それはテレパシーは実在するって話ですか」
「なにをいっているんだ対馬くん。あるわけないだろ、しっかりしてくれ」
ますます意味がわからない。
「まあニュートンは錬金術にハマって水銀中毒で三度も頭がおかしくなるくらいのオカルト野郎だったというからな。テレパシーとかも好きそうだ」
「それはどっちのニュートンですか」ぼくは訊く。
「どっちのって」
「落ちて死んだほうと万有引力を発見したほう」
「対馬くんはあれか、現実と作り話の区別がつかねータイプ? やべーな、グランドセフトオート返してくんない? 対馬くんがもし人を刺したりしたらゲームの悪影響とか報道されちゃうじゃん」
いまぼくが刺したいのは豊田先輩ですけどね。ぶっちぎりで。
終業時刻になれば先輩はそそくさと退出する。やはり今日も仕事の意味は教えてもらえないらしい。
ぼくは宇宙的夕食との死闘を演じ、割り当てられた自室にこもる。来てすぐのころは無重力体験で時間をつぶしていたけれど、あれは宇宙酔いがハンパないのでやめた。ぼくは乗り物酔いはしないほうだと思っていたけれど、乗り物酔いとは酔いのメカニズムがちがうんだろうか。さすが宇宙。
居住部屋は、まあ、広さ的には六畳一間の自室と変わらない。家具がないぶん殺風景だけれど。
部屋に戻ったらまず着ているものを隅にあるダストシュート状の入り口に放り込む。二秒でクリーニングが終わり、きちんと畳まれたものが同じ口から出てくる。メシの不出来とくらべれば、未来感あふれるナイスなテクノロジーだ。おかげで着るものには困らないが、毎日同じ格好をするはめになっている。たとえ先輩としか顔を合わさずとも、もうちょっと服装には変化をつけたい。先輩が無駄にファッショナブルだから。
部屋には扉が一枚だけあって、その奥にあるのはユニットバスがある。便器は非常に馴染みのあるフォルムをしており、使用感もまったく同じだ。ウォシュレットまで付いている。こいつは快便を促すことによって、どんだけ不味いものを食べても身体から出る物は同じであるという理不尽を、存分に味わわせてくれる。
ユニットバスのバスのほうはこれまた宇宙テクノロジーで体の汚れを二秒で洗い流してくれるので、いい湯だなという暇もなく、情緒のかけらもない。風呂嫌いのイヌネコなら大歓迎だろう。
不思議なことにコンセントは電圧きっちり百ボルトの日本式。特に問題なくテレビもゲーム機もパソコンも動く。ケータイは不通だしネットもつながっていないから、パソコンはほとんど単なるゲーム機となっていて、ゲームはもっぱらひとり遊びできるソフトを選ぶはめになる。
ゲームといえばソシャゲのログインが一週間も滞っているのが気がかりだ。ログインボーナスを取りこぼしている。魔法石がもったいない。とはいえ、家に帰りたい理由がそんな情けないものだとは先輩にはいいにくい。サークルの飲み会があるんです、とかなら先輩にいえるだろうか。微妙。本当はないし。お盆前だから実家住まいの遊び友達以外は地元に帰っているだろうし。
先輩に家に帰せと強くいえない原因のひとつがこれだ。この夏、ぼくにはたいした用事がないのだ。
家族が心配してるのでは、というのもない。以前、ふと思い立って東京まで遊びに行きそのまま二ヶ月帰らなかったときも、親兄弟からは電話のひとつもなかった。フェイスブックへの書き込みがないことを訝しむ友人はいるだろうか。たぶんいない。いいね!をつけてないことに怒るやつはいるかも知れない。イヌの写真。食べ物の写真。空の写真。宇宙から見た地球の写真。いいねいいねいいね!
彼女とはついこないだ別れたばかりだし、キープしてる女子たちは薄情者から順に離れてゆく気がするけど、これもやはり先輩にはいいづらい。なんか怒られそうだ。
そういえば休みに入る前に友人たちと「海行っか」といっていた気がする。海。いいな行きたい。そもそもバイトなどというものは遊ぶ金欲しさにやるものなわけで、遊びに行けないのなら本末転倒はなはだしい。
おお、帰りたい強固な理由があった。
ここはやはり、男らしく自分の熱い想いをダイレクトに伝えるべきだろうかか。家に帰せとガツンというべきか。いうべきだろう。
と、ぼくはここに来て何度目かの決意をする。その決意もTシャツが洗われる間しか持続しない。二秒でくじける。
人間関係の織り目がほぐされ宇宙につまみ出されたぼくにとって、権力者というのはプライムミニスターでもプレジデントでもなく、貧相なくせにきれいなおべべをまとった先輩で、先輩が相手なら喧嘩しても勝てるだろうけど、勝っても帰れるわけじゃない。権力とはそういうものだ。被支配民のぼくが見習うべき相手は青いまん丸、ジ・アース地球、ということになっている。実際、ぼくの思考だけは地球と同じくらいぐるぐるしている。ぐるぐるしながら両手はゲームを進め、毎晩いつの間にか疲れて眠る。
二時間に一度朝日が拝めるせいか、どうも時間感覚が曖昧になっている気がする。
それでも今日も寝て、起きて、悲惨な食事との格闘をはさんで、ぼくはスイッチを押す。開始五分で飽きる。飽きても押す。押して、飽きて、飽きて、押す。地球は今日も青くて白い。
先輩はまたどうでもいい話をしている。
「ヨーゼフ2世の墓碑銘はかっこいいよね。『志はあったけど特になにもしなかったやつここに眠る』みたいな。対馬くんの墓碑銘、『ジャイアントパンダの赤ちゃんここに眠る』と『ここに眠りたくなかった男ここに眠る』どっちがいい?」
「ぼくを亡き者にする気ですか。宇宙船外に放り出してお星さまにするんですか」
「誰が殺すっつったよ」
「日本では戒名というシステムのほうが主流なので、墓碑銘は考えたことないです」
「じゃあ戒名はなにがいい?」
「近いうちに死ぬ予定もないです」
「でもいずれは死ぬだろうが、地球人。たとえそれが今日じゃなくても。生きてるうちに墓碑名でも辞世の句でも考えとけ。あと誰がジャイアントパンダやねんてツッコめよ。なぜか関西弁で」
先輩が手をひらひらさせながら肩をすくめているのが、背後の気配だけでわかる。自分でいったことに自分ひとりでウケているんだろう。なにがおもしろいんだか。先輩はつづけていう。
「や、もちろん、今日という日がどんなにつまらなくても長生きだけはすべきだよ対馬くん。知ってるかい、長生きすれば寿命が延びる。寿命が長けりゃ長生きなんだ。生きていれば必ず良いことがある。明日いきなり庭から石油が出るかも知れない。大金持ちだ。いえーい。そこに颯爽と現れる宇宙人曰く『えーいまどき化石燃料とかねーわーぷぷぷ』」
いい話ふうにあたりまえなこといいやがって。
「先輩の星の人は死なないんですか」
「そりゃ死ぬよ。超死ぬ。誰だって死ぬ。みんな死ぬ。宇宙ってとこはどこに行ってもエントロピーがガンガン増大してっからね。おれの兄貴も弟も行方不明なんだけど、まあたぶん宇宙のどっかで死んでるね」
「兄弟」
「そ。おれは真ん中。真ん中ってたいへんなのよ? 心休まるホームにあって、幼いころから中間管理職」
「ご兄弟のかたはなんのお仕事を」
「おれとおんなじようなお仕事」
宇宙大迷惑ファミリーか。
「人さらいどもを捕まえる警察組織がないんですかね宇宙には」
「兄貴も弟も人さらいはやってないんじゃないかな。向いてないから。あいつらコミュ障だし」
「でもどうせ人に迷惑かけてるんでしょう」
「人様の家族を悪くいうもんじゃないよ対馬くん。まあたぶんその通りだけど」やはり警察が必要だ。「警察組織はあるけど警察力が及んでない、とは考えないかなー。北極でクマに襲われても警察は動かんでしょ? ここら宇宙のど田舎よ? 地球人が目撃してるUFOの大半は嘘か見間違いよ? よっぽどの暇人以外誰も来てないよ?」
「先輩は犯罪が絶対にバレないくらいのど田舎なんてどうやって来たんですか。交通手段もろくにないでしょう」
「超光速航法。ひらたくいうとワープだね。やりかたは教えない。警察にチクりたきゃ自力でみつけてどうぞ」
「テレパシーはないけどワープはあるんですか」
「現におれがここにいるじゃん。宇宙って超広いんだよ? ワープなかったらどこにも行けんよ? アルファケンタウリを見ながら『遠いね』『うん、遠いね』とかいってるレベルじゃあ、あと五世紀くらいは無理だろうね」
「ワープなんかできるなら、警察の行動範囲も広がりそうなもんですけどね」
「距離の問題が片付いても、ほら、人的リソースとか管轄とか色々あるじゃん。『ギャラクシーブリッジ封鎖できません!』みたいな」
ギャラクシー……なに?
「つまり、だ」先輩がかしこまった口調でいう。「ワープは発見されたのに、テレパシーは発見されていない。永久機関はないからリソースの問題が出る。あの世も見つかっていない。ほかの宇宙の存在は理論上予見されているけど、行きかたも連絡方法もわからない。あったらいいなと思うものに限ってほとんど見つかっていないわけだ、この宇宙では。理想の恋人みたいなもんだな。たぶんそもそも存在しないんだろう。多くの人がそう結論付けた。それでも諦めきれない連中が、こうして宇宙をブラブラしているわけだ」
「先輩とか」
「そう。おれとかおれの兄弟とか」
「先輩はそのうちのなにかを探しに地球に来たってことですか」
「そうだ」
「なんなんですか。探してるのは」
「理想の恋人」
嘘つけ。
「だいじょうぶ対馬くんのことではないから」
ぼくは無視して、「スイッチ押すこともそれに関係あるんですか」
「そうなるね」
またしても、背後の気配だけでにやにやしているのがわかる。
「こんなものどんだけ押してもなにも見つかるとは思えないんですけど」
「そこは対馬くん次第なんだがなあ」
でもやはり、スイッチの意味は教えてくれない。
太陽が出て、沈む。
昇る。
地球をぐるり、日本の真上に到達。スイッチぽん。
また沈む。
半周に六十分。二時間で一日が経ってしまったように錯覚したりすることはべつにない。べつにないけれど、でもあえて錯覚してみよう。退屈をまぎらわすため、ぼくは時をかける青年になる。
二時間で一日が経過するのなら、ぼくの一日が地球の十二日間だ。ここにひと月いれば地球では一年が経つことになる。ここでの一年が地球では十二年。十二年が百四十四年。生きているうちに五世紀後にたどり着けそうだ。五世紀後の地球でワープが発見されるなら、地球に帰ったぼくはすぐさま先輩を訴えられる。宇宙マッポにお縄になる豊田先輩。ざまあみろ。ただし二十六世紀の社会にあって、ぼくは人間関係の織り目をすべて失う。どこにも織り込まれていないぼくは、どこにも繋がらないケータイ片手に浦島太郎。玉手箱は、ない。
でもぼくはぼくを騙せない。ぼくと地球はお互い無関係にぐるぐるしていて、地球の時間のほうが圧倒的に正しく、ぼくはその正しい時間から逃れられない。地球の時間から逃れられないくせに、ぼくはいま地球にいない。そのことを不安に思うべきだ。
それでも念のため訊いておく。
「ねえ先輩」
「なんだい」
「家に帰ったらぼくだけ若くてみんな年を取ってるとかないですよね」
「あ、やっぱりそれ訊く?」
やっぱり、ってなんだ。
「安心しなさい対馬くん。この速度ならずれてもせいぜい何十億分の一秒程度だ。」
こいつにいわれて安心するのもシャクだけど、安心するために訊いたので安心した。
「ずれることはずれるんですか」
「地球人も相対性理論は発見してんじゃん。相対性理論によれば……ロックバンドのほうじゃないぞ、マッハなんぼでもウラシマ効果でごくわずかずれるんだよ」
頭の中に『インターステラー』で泣きじゃくっていたおっさんの顔と、Mステに出ていた歌手の顔が浮かぶ。
「どっちも知ってますけど、あれってロックバンドなんですか。J-POPじゃなくて」
「ニューウェーヴ系だからパンクの流れを汲むれっきとしたロックンロールバンドだ。そもそもJ-POPなんてものは定義が不明だ」
先輩は無駄なことに無駄に詳しい。
億分の一の浦島太郎。玉手箱を開けてとる歳よりも、開けることのほうに時間がかかる。
「集中しろ、対馬くん」先輩がいう。「地球を見習うんだ」
ぼくはスイッチを押す。
「相対性理論を発見した地球人はアルベルト・アインシュタインといったっけ? リンゴを追っかけて崖から落ちたとかいう」
「もうそのホラ話はいいです」
ここに来てすでに二週間が経過している。
ぼくはスイッチを押す。
「先輩、あれなんですかね。ときどき光ってるの」
「オーロラならこないだも見たろ」
「ちがいますよ、ほら、オーロラじゃなくてあの、ぽつぽつなってるやつ」
「戦争じゃないの」
戦争。
「そういやいまごろ、日本じゃ終戦記念日なんだっけ? 負け戦の記念ってのもおもしろいね」
「宇宙でも戦争ってあるんですか」
「あるよ。超ある。宇宙くんだりまで出かけてわざわざ戦争とか、どう思う?」
「どうって。バカだなあと」
「バカは対馬くんだ」
「はあ?」
「自分のことをおりこうだと思っているだけの野蛮な動物が、野蛮で動物なまま宇宙に出たって、起きることはそれまでとだいたい同じに決まってるだろ」
「じゃあ動物であることか、野蛮であることをやめましょうよ」
「そういう考えの連中もいるね。すでに動物であることをやめたりしている」
「どうやって」
「ありふれた方法だよ。ネットの中の情報生命体として生きる! みたいな」
「自分をコピーして」
「そうそ、コピーして。ネットの中に行くんじゃなく、機械の身体で現世をうろうろしてるやつもいるけど」
「それって本体はどうなるんです」
「いずれふつうに死ぬよね。オリジナルの身体は用済みだ! って律儀に自決するやつもいるけど」
「本体がふつうに生きてふつうに死ぬなら、なにも解決してない気がするんですが」
「それでもいいって人は多いよ。コピーだけは生きつづけるからって」
「野蛮な動物のコピーは野蛮じゃないんですか」
「対馬くんにしてはいいとこに気づいたね。その通り。野蛮だ。肉体がないぶん手加減がなかったりする」
「結局ネットの中で戦争するんですか」
「やってる。すんげー迷惑。あいつらだけオフラインにしてほしい」
オフライン。人間関係の織り目。
「まあみんな、あの世が見つかったらバカバカしくなって戦争なんかやめるんじゃね。あるいは死んでも安心だからって、もっと派手になるのかも知れんけど」
「ないんでしょう、あの世なんて」
「ないねえ。いまんとこ」
日本上空。スイッチぽん。
千円。
「日本の終戦記念日ってのはお盆で、お盆ってのはあの世から死人が帰って来るフェスティバル・オブ・ザ・デスなんだろ。これまたおもしろいね。いくら殺しあっても会いに帰れるなら差し支えない。ちなみにあの光は戦争じゃなくて雷だな。たぶんあのあたりは嵐だ。その程度のことふつうすぐ気づくよなあ、ふつうは」
おーう。おうおう。「人さらいは今日もホラ話が絶好調っすねえ」
「皮肉が下手だな対馬くん。騙されるほうがバカなんだ」
「騙されるほうが悪いなんて、詐欺師のテンプレご苦労さまっす」
「待て待て。おれは『悪い』なんていってない。騙されるほうが『バカ』だといったんだよ。バカだから悪いなんてことはない。バカを裁いていたらきりがないからな。バカはこういうことをすぐ混同するから困る」
バカはおまえだ。
「それにあれは雷だとしても、戦争なんてものはいつもどこかで起きてるもんなんだよ、バーカ」
スイッチぽん。
「先輩はどうやって日本語覚えたんですか。日本語は宇宙人に習得しやすい言語だったとか、それとも目に見えない翻訳機があるとかですか」
「どうやったと思うね」
「さあ」わかんないから聞いてんじゃん。
「ドラクエやって覚えた」
「うそぉー」
「いやマジマジこれはマジ」
「絶対嘘ですね。先輩、ことば遣い汚いし」
「はぁ? マジだっつってんだろぶっ殺すぞ糞ガキ!」
「堀井はそんなこといわない」
「マジだって! だからファミコン時代はひらがなしか読めなかったもん!」
「あんたいくつだよ」
スイッチぽん。
「対馬くんよろこべ」
「ぼくがよろこぶのは先輩の不幸か、ぼくが家に帰れたときだけです」
「なんだ、じゃあ無しな」
「なにが無しなんです」
「対馬くんがよろこぶこと」
「教えてください」
「やだもう知らない。よろこばないっていうから教えない」
「無しでいいから内容だけでも」
「ふふん。給料アップだ。きみはなかなかよくやっている。今日からスイッチ一回千五十円に増額してやろう……と思ったんだが……」先輩はふうやれやれ、のゼスチャーをしている。見えないけど確実に。
スイッチ一回千五十円か。時給でいうと二千百円。
「ありがたくいただきます。もうどうせなにをいっても無駄でしょうけど」
「いやちゃんとあげるよ」
「本当に」
「本当だ」
「ありがとうございます」
「ところで対馬くん、地球には恵まれない子どもたちがおおぜいいて、宇宙的優しさに満ち溢れたおれはこの事実に対しささやかな施しを決意した。そこで従業員の給料から五パーセントを天引きし、しかるべき団体へ寄付しようと思っているんだが。異論はないね?」
千円の五パーセントは五十円なんだから、それだとなにも変わらないんじゃ……いやちょっと待て。
「それもしかして減りません?」
「減るね」
千五十円の五パーセントは五十二.五円。差し引き九百九十七.五円。
「やっぱよろこぶような話じゃなかったですね」
「世の中にとってはよろこばしいことだろ」
先輩はぼくの背後で、シリアの難民を特集した動画を再生しだした。BSっぽいナレーションの合間に、わざとらしく洟をすすりあげているのが聞こえる。
スイッチを押す。
「対馬くん対馬くん、頭がよくなる方法を発見したぞ」
「そうですかよかったですね」
「なんだその薄いリアクションは。すごい発見だと思わないか」
「いちおう聞いておきます」
「まず壁に頭を打ち付ける。これによって脳の接触がよくなって、賢くなる可能性がある。あとは試行回数だ。じゅうぶんな回数試行すれば、いずれ賢くなって、こんなことをやっても賢くならないことに気づく」
「……つっこみ要ります?」
「いる」
「確率が低すぎますし、なによりぼくはすでにある程度賢いので、最初からそんなことしません」
「ようし、よく聞け対馬くん。当たる確率は低くとも、人は宝くじを買うだろう。馬の着順を予想するだろう。卓を囲み牌を並べるだろう。じゃらじゃら飛び交う玉を眺めるだろう。これらは大数の法則という支配からの卒業を目論む、崇高な行為なのだ。宇宙の規律に対する反逆だ。それこそが生きるということなのだ。生きるということ自体が、それ即ちエントロピーに対する反逆なのだから。わかったかな。まずはそのスイッチを頭で押してみようか。ガーンと行こうガーンと。男らしく」
「その種の男らしさは、人生のもうちょっと大事な場面のためにとっておきます」
「それがいまだと思わんかね」
「ぜんぜん。まったく」
「いまでしょ!」
「ちがいます。あとそれもう流行ってないです」
スイッチが押される。
「ガリレオ・ガリレイは『それでも地球は回っている』といった。イエスかノーか」先輩がテンション高くわめく。
「イエス」
「ブッブー」
「えー。伝記漫画に書いてありましたけど」
「残念。出版社に文句いってくれ。じゃあ次、ユリウス・カエサルは『ブルータス、お前もか』といった」
「イエス」
「ブッブー」
「またですか」
「つか検索しても答えがよくわからん。いったかも知れないしいってないかも知れない」
「なんですかそれ。クイズになってないでしょう」
「まあいいや、次。アラン・チューリングは……」
「誰すかそれ」
「知らんの?」
「知りません」
「うわマジ? さすが低学歴底辺Fラン無知無能無教養ウェイ系大学生」
「人さらい人でなしの話が通じない宇宙人オブザイヤーがなにをいうんです」
「……対馬くんもけっこういうな」
「なに傷ついてるんですか」
「しかしやたら作り話が多いな地球人は。偉人の八割は嘘・大袈裟・紛らわしいでできているじゃないか」
「昔の人のことなんて、すくない史料から想像するしかないですからね」
「作り話のカエサルと本物のカエサルを同一人物だと思っている対馬くんみたいなやつが、新たな作り話を広めているともいえる。いっぽうが永遠に失われているのをいいことに、ねえ」
「先輩も法螺話多いですけどね」
「高い知性がある証拠だ」
「なら地球人の作り話の多さも知性の証拠でしょう」
「ほう。地球人には知性があると」
「ないとでも」
「では地球人にも宇宙的見地から判断して立派な知性があるとしよう」
「あるとします」
「知性あふれる地球人である対馬くんから見て法螺話の多いおれは、地球人より高度な知的生命体であるといえる。イエスかノーか」
「ノー。絶対ノー」
「これで対馬くんが論理的にものを考えられないことが証明されたわけだ。さすが低学歴底辺Fラン無知無能無教養ウェイ系大学生。無駄に一票持ってる民主主義の害悪。限りあるエネルギーを消費するだけの宇宙的生ゴミ」
「いいすぎですよ」
「ごめんおれもちょっとそう思った」
「……」
「マジごめん」
スイッチを押す。
「夏なのだから、ここはひとつ怪談をしようじゃないか」
「エアコン完備の宇宙船で納涼ですか。べつに暑くもなんともないですよ」
「温度なんか関係あるか。人類だってこれからちょぼちょぼ宇宙に出て行くわけだろう。宇宙に季節がなくとも、地球生まれなら地球の文化くらいは持っていくべきだ。酸素といっしょに。水といっしょに」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
「怪談ったって、宇宙人がおばけ怖がるなんてことはないですよね」
「いんや。怖いものは怖い」
「たとえば」
「それを考えるのが主旨だろう」
「ぼくが?」
「そう。対馬くんが」
「じゃあ」
ぼくは、子どものころバラエティー番組で見たうろおぼえの怖い話を、自分なりにアレンジしてみることにした。
どこか外国のとある夫婦に起きた事件だ。妻が朝目覚めると、隣のベッドで夫が死んでいた。妻はひととおりパニクったのち警察を呼んだ。寝室は血にまみれており、夫の死体は刺し傷と無数の歯型がついた無残なもので、遺体の一部は食いちぎられていた。妻は警察が来るまでのあいだ、泣きわめき嘆き悲しみ、激しく嘔吐した。凄惨な現場を見た捜査員の大半も妻と同じ所作をひととおりこなした。
しかしその日のうちに逮捕されたのは妻だった。確かにアリバイはないが自分は絶対にやっていない。夫と同じ寝室で眠り、起きたらあのありさまだった。妻はそういい張った。いい張るあいだにも妻は嘆き悲しみ怒り狂いそして嘔吐した。警察は、死体の歯型と、凶器とみられる包丁から、犯人を妻と断定していた。それでもいくら問い詰めても、妻からの証言だけが得られない。
物的証拠が揃っていたことから、妻の弁護士は妻の精神鑑定を要求した。たびたび恐慌に陥る容疑者ならば、心神喪失による減刑くらいは勝ち取れるだろうとの目算だった。しかし鑑定で明らかになったのはそれ以上のものだった。妻の中にはもうひとつの人格が眠っていたのだ。
眠っていた人格は、妻が右を向けば左を向き、前を向けば後ろを向き、起きれば眠り、眠れば起き、妻が真実をいえば嘘をつき、嘘をいえば真実を口にした。そしてその人格は、妻が夫を愛すれば愛するほど、彼に対する憎悪を募らせていた。惨劇はその帰結だった。
裁判は鑑定結果の正否をめぐって、あるいは解釈をめぐって紛糾した。判決が出る直前、妻は拘置所で、職員が目を離した隙に自ら命を絶った。自死を選んだのがどちらの人格だったのか、そもそもそんな人格は存在しないのか、真実を確かめる方法は失われ、事件は幕を下ろす。
お話としてはサイコスリラーということになるんだろうか。
われながら展開にちょっと無理があると思う。テレビで見た流れだと、警察は証拠を集める過程で妻が二重人格であると気づいたはずだった。つまり妻は当初は容疑者から外れていたように覚えているのに、それがなぜだったのか、肝心の部分が記憶にない。細部が失われ、リアリティもなく、ぼくの話はいまいちインパクトに欠ける。
食いちぎられた死体の隣で眠るなんてのはたしかに恐ろしいし、その死体を用意したのが自分だと気づかないのも怖いけれど、それは妻の立場で考えた場合であって、第三者の視点からはいっぷう変わった殺人、くらいにしか見えない。ぼくがテレビで見たときはめちゃ怖かったのに、語りかたひとつで粗悪なコピーになってしまった。
当然、先輩の反応もいまひとつだった。
「ぜんぜん怖くない」
ですよねー。
「二重人格というのがよろしくない」
そこですか。
「ドッペルゲンガーのほうが怖いね」
「ドッペルゲンガーって、自分そっくりの人間が現れるとかいうやつでしたっけ」
「そうだ」
「比べるのは変じゃないですか。どっちも怖いですよ」
「よくきけ対馬くん。人格が二個あっても三個あっても、それ自体はべつに怖くはない」
「なんでですか。いやですよ。だってべつな人格が、自分が望んでもいないわけのわからないことやるわけでしょう」
「人格の数と関係なく、人間は望んでもないわけのわからないことをやるだろう」
「やりませんよ」
「やるんだよ! おまえらってのはそういう生き物なんだよ! だいいち人格は一個二個と数えられるような確かな形を持ってないだろ。海が一個とか空がひとつとはいわねーし。空気がどのくらい集まれば空と呼べる? 一立方メートルではないだろう。じゃあ百か? 千か? 万か億か兆か? 答えられるかコラ!」
なんで興奮してんだこの人。
「人格も同じだよ。ひとりの人間による外界との受け答えがある程度集まればなんとなく人格があると看做されるだけだ」
「それだと二重人格の前提から崩れるような」
「人格がふたつあるように見える状態が怖いとしたら、それはそもそも他人が怖い、裏の顔が怖いという話でしかない。問題なのは、多重人格には人格同士が互いの記憶を共有していないケースがあって、つまり怖いのは記憶が途切れることのほうだ。望んでもないわけのわからないことをやったうえ、その記憶がないとなれば、本人にとっても他人にとっても確かに怖い。でも記憶さえ途切れなければべつにどうってことはない。記憶なんて酒飲んだだけでも簡単に消えるんだから」宇宙人も酔っ払うのか。「記憶は毎日確実にすこしずつ消えていずれ失われるわけだが、恐怖を感じるのはいっぺんに消えたときだけだ」
「じゃあ眠るのも怖いんですか」
「ただ眠るだけじゃ認識は途切れても記憶まで消えたりはしないだろう。その意味では夢遊病は怖い。なんだかわからないことをやってても認識できないし、記憶にも残らないらしいからな」
「なるほど」
「いっぽう、ドッペルゲンガーはなんなんだ。自分のコピーにそこらをうろつかれると社会的に困る。そいつが万引きでもしたら誰が捕まる? 税金だの年金だのはふたりぶん支払うべきなのか? そうすればふたりぶんの行政サービスを受けられるのか? そもそも年金は破綻するんじゃないのか?
自分自身がいざ他人として目の前に現れるとなると、そいつがなにを考えているのかさっぱりわからないのも困る。しかもなぜか向こうは事情を知ってるふうに振る舞うらしいからとてもムカつく。おまけに目撃したら近いうちに死ぬという。なんだそりゃ。迷惑の塊だ。なにもいいことがない。ついでにこれまた記憶が問題になる。そいつはどこまで記憶を共有していて、どこからおれとちがう記憶を持ってるんだ? 考えれば考えるほど怖がって然るべきだ」
「先輩の星ではドッペルゲンガーも見つかってるんですか」
「いやぜんぜん。つうか、そんなもん地球に来て初めて聞いた。まったくアホなこと考えるもんだな地球人は」
「……」
「なにかいいたいことでも」
「いえ。ところで次は先輩の番ですけど」
「なにが」
「怖い話」
「もういいやめんどくせ」
納涼終了。ちょうど一時間が経過して、ぼくはスイッチを押す。
ここに来て三度目の土曜日が訪れる。
絶対権力を持ちながらも週休二日を是とするホワイト豊田王朝により、土日はしっかり休みとなる。
人類の歴史には退屈が怖かったといってギロチンにかけられた人もいるという(これも作り話くさいけど)。休みはありがたいものの、仕事どころか休日までも退屈しているのがいまのぼくだ。
会える人がいない。行くべきところがない。やりたいこともない。食べるべきものは不味い。ふだんどんな土日をすごしていたのかまったく思い出せない。
ゲーム三昧というのも、プレイしているうちに、画面にエンディングを表示させる仕事のように思えてくる。やたら重厚で大袈裟なBGMにスタッフロールが流れ、辿り着くTHE ENDの文字列。時給ゼロ円。これまたタイミングよくスイッチを押すような作業だし。
先輩とはたまにゲームの話もするけれど、ぼくはゲームは一度クリアするとすぐ売ってしまう派なのでやりこみ派の先輩に怒られる。「なんでひとつのゲームを極めようとは思わないんだこのゆとりピープルは!」ゆとり関係ないし、遊びで怒られるというのも理不尽だし、その遊びも先輩にさらわれたからやっているだけだし、ゲームの話は基本的にストレス直行コースだ。
でも他にやることがないのだ。しかしこの日先輩の部屋に次のゲームを借りに行くと留守である。珍しい。ノックに反応がない。先輩はスイッチの意味を教えてくれというとき以外は来訪を拒まないんだけれどな。いや寝てんのか? 居室のドアの脇には宇宙的装飾をほどこされたチャイムがついていて、ぼくはここでもスイッチを押す。ピンポーン。地球式呼び出し音。やはり無反応。
手持ち無沙汰なぼくは久々に船内をぶらつくことにした。先輩もそこらをウォーキングしているかも知れない。
前に説明したとおり船内は重力のあるところとないところがあるので、宇宙酔いを避けるべく重力のあるコースを選ぶ。先輩に入らないほうがいいといわれている部屋を避けるようにすると、行けるところはそれほど多くなく、簡単に行き止まる。たぶん先輩もすぐ見つかる。
はずだった。
思いのほか道がつづく。けっこう遠くまで行けたんだな。楽しくなってきた。吹き抜けの回廊があるし、石造りのような部屋もある。王様が座りそうな椅子があって、バロック建築ふうバルコニーに見えるけど外とか庭は存在しない謎の部屋もある。次の部屋は、なんだこれ牛舎か? 牛舎だ。牛舎が建っている。牛はいないけど水路があって水車もあって、しっかりと水が流れている。この水はどっから出てんだ? 草も花も生えている。天井は宇宙船の無骨で金属質な地肌そのままに、床は起伏のある草原になっている。次の部屋では畑に麦が実っている。穂先が風にいっせいに揺れる。その次はジャガイモ畑。その向こうは、黒く霞むほど遠くまで木々が繁った巨大な部屋。いや、部屋なのか? 反対側の壁が見えない。どんだけ広いんだ。どこかでカラスが鳴いている。リスがかけてゆく。先輩以外の動物を久々に見た。照明の届かない森の奥からは遠吠え。うおんうおんうおおおおおん。なんだここ。船内田園?
いやそもそも。
部屋が増えている。こんな通路もなかった。
ちょっと待て。なんだ。おかしい。
いやな汗が出る。来た道を駆け戻る。来た道は道とは呼べないような草原なので、あっさり迷う。迷子だ。迷子になったらその場を動くなと幼稚園で教わったのを思い出して、すぐそばの沼地のほとりに腰掛ける。その判断が過ちであるといわんばかりに、遠吠えがまた聞こえる。うおおおおん、おおん、おんおん。さっきより近い。ぼくは薄暗い森の中にふたつの光る眼を見た気がして、木陰に身を隠すか沼に潜るか咄嗟に判断。その選択肢はどちらも無意味なんじゃないかと思うころには鼻をつまんで沼に飛び込んでいる。どばっしゃん。ごぼごぼ。
息がつづかなくてすぐ水面に顔を出す。危険な動物はいないだろうかと見回せば、あたりは静まりかえっている。ただし沼には元気なヒルがいたようで、ぼくの血液を力いっぱい吸うそいつらを慌てて払い落とす。泣きそうになる。身体についたぬるぬるを洗い落とすことも、ずぶ濡れの服を乾かす手段もないことに気づいたあたりで泣く。
涙が出るのは花粉のせいかも知れない。ずっと鼻がむずむずしている。つまりここに生えている植物は本物だということだ。ここはなんなんだろう。どれも地球の生き物に見える。自然環境や生態系のサンプルか?
先輩が入るなといっていた部屋はここなんだろうか。避けたつもりだったけれど。入るなというのは危険だから? あるいはぼくにこれを見せたくなかった。なぜだ。もしやこの宇宙船はノアの方舟ってやつなのか。そうかも知れない。だとすると地球はこれから滅ぶのか。洪水で。噴火で。巨大隕石の衝突とかで。あるいは先輩の星の人が地球を滅ぼそうとしている。ありうる。
だとすると、この船に連れて来られたぼくは地球人類のサンプルということになる。よりによってぼくか。他の誰かにしてほしい。いまから代わってもらえないだろうか。前にここに来たというひきこもりとかと。ここが方舟だとしてあのスイッチはなんなのか。まったくわからない。邪悪な目論見が露見した宇宙人は、ぼくをどうするだろう。大事なサンプルだから殺しはしない、とはいいきれない。
このまま逃げてしまおうか。襲い来る先輩の魔の手を逃れ、間一髪で脱出艇にたどり着き、ついでのように方舟を爆破、地球に無事帰還して、世界のえらい人にことの真相を伝えなくてはならない。……無理だ。ぼくにはとてもできない。絶対に向いてない。やはり誰かに代わってほしい。
濡れたシャツを絞りがら、ぼくはいつものごとく注意力散漫で、方舟脱出のインポッシブルなミッションについて思いを廻らし水滴をぼたぼたたらしながら、気づけば目が遭ってしまっている。なにと。オオカミと。
オオカミがいる。旭山動物園で実物を見たことがあるからわかる。たぶんかなりオオカミでまちがいない。凶悪な面構えのイヌじゃなきゃオオカミだろう。四肢を踏ん張りこちらを睨んでいる。さっきの遠吠えは聞き間違いじゃなかったわけで、いまさら木陰に隠れても、沼に潜っても走り出しても無駄だろう。距離が近すぎる。パニックになるのはもっと無駄だ。でもパニックになるのは生理現象みたいなもので、あぎええああぎぎあと、ぼくはすでに奇声を上げてすっ転んでいる。オオカミはちいさくダッシュしてからこちらにぴよんと跳ねる。こいつが先輩よりも話の通じない相手であるのは間違いない。
鋭い爪がぼくの皮膚に触れる。切り裂かれる。ぼくの奇声はクライマックスに到達。無論オオカミはものともしない。牙が突き立てられる。獣の吐息がかかる。ぼくの両腕ははかない抵抗をつづけていたけれど、その手もいつの間にか齧られている。オオカミは一匹だけじゃなかった。動脈が千切れる。生暖かい液体がふき出て、一気に意識が遠のく。もうなにも見えない。聞こえない。
ぼくは死ぬ。
死んだ。
「かなり出鱈目な感じになってるな」
ぼくは死にながら先輩の声を聞く。ぼくの目が開く。オオカミはおらず先輩がそこに立っている。
「おれが創ったわけじゃないよ、これ」
先輩がぼくの顔を覗き込む。
「おいおい、動けるだろ。立ち上がれよ対馬くん。男だろ」
先輩の顔を見て話を聞くのは久しぶりな気がする。相変わらず貧相な顔だ。
ぼくは気を失う。ぼくは気を失いながら先輩の話を聞いている。先輩はぼくを担ぎ上げ、どこかに運ぶ。意外と力あるんですね。小柄なのに。
「入ったらまずい領域が増えちゃったな。向こうのやつが好き勝手始めたのか」
向こうのやつ。好き勝手。
「そろそろ潮時だな」
潮時。
「対馬くんもいい加減、聞きたい?」
なにを。
「仕事の意味を」
聞きたい。
「スイッチの理由を」
知りたい。
「あーでも、対馬くんに説明しても、わかるかなあ」
なんだよそれ。
「ちょっと待ってな。もうすぐ部屋だから」
部屋。それは宇宙船の? それとも……。
「じゃあまたね」
じゃあ、また。
目覚めるとぼくは部屋にいる。パソコンとテレビとゲーム機があって、ユニットバスにつづくドアしか目に入らない殺風景な間取り。いつもの宇宙船の、いつもの居室だ。
先輩は見当たらない。ぼくの身体に怪我はなく、食いちぎられたはずの首に手を当てると、どぅんどぅんどぅんどぅん、しっかり脳に血を送っているのがわかる。生きている。
ぼくはまた目を閉じる。眠る。意識が途切れる。何度か目が覚めて、時計を見た。目覚めるたびに短針がすこしずつ動いていた。午前か午後かわからない。また眠る。何度も眠る。繰り返すうちに週末が終わる。たぶん。朝が来る。たぶん。いまは月曜の朝だと思う。ぼくは起き上がる。服に広がる汚れは血液なのか泥なのか。ひどいかっこうで眠ってたんだな。洗濯。二秒。シャワー。二秒。仕事場を目指す。
いや先に食堂だ。
土曜の朝からなにも食べていない。おかげで生ゴミ以下の朝食も美味く感じる……ということもなく、相変わらずゲロ不味い。でも胃が活動を開始すると生きている実感が強くなる。おう、生きてる。超生きている。やべえ。キテるっしょこれ。すげくね? 死んだと思ったのにまだ動ける。走れる。食べれる眠れるしゃべれる働ける。働ける? 働かなくちゃならんか? 森で迷ってヒルに食われてオオカミに齧られて、働く? 働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手を見る。手のひらには生命線と運命線と感情線がM字を書いていて、その奥に静脈がある。超生きている。
仕事場に先輩の姿はなかった。定時になっても現れない。ぼくはいつもの席について地球を眺める。
ぐるぐるしている。地球は勤勉というより呑気に見える。泰然自若。天衣無縫。迷惑千万。見習うようなところはなにもないし、この岩のかたまりは星で惑星で、そもそも人じゃない。先輩も人じゃない。姿形が人間で会話も通じるから錯覚しているけれど、先輩は宇宙人で、二重の意味で人でなしだ。
日本列島が視界に入り、ほぼ真下に来る。ぼくはスイッチをスルーする。ポリネシア、メラネシア、なんとかネシアが流れてゆくのを眺める。一時間後、アメリカ大陸が見える。太平洋側から大西洋に至るでかい陸地。スルー。さらに一時間後、日本ふたたび。スルー。太平洋。先輩は来ない。一向に姿を現さない。アメリカ大陸発見。コロンブスに遅れること五世紀。スルー。
昼休み。食堂へ行きゴミをたいらげてから先輩の部屋を訪れる。ピンポンピンポンピンポーン。またしても呼び出しに応じない。ドアを蹴り上げる。無反応。二度。三度。六度目くらいで頭に来て本気で蹴り込むと、洋画でドアをぶち破るシーンのように部屋に侵入できた。
トヨタ、ユーオーケイ? とでもいいたいが部屋は無人で、ただしめちゃくちゃに荒らされている。ゲーム機は砕かれ配線は絡まりながら千切れ、先輩のきれいな洋服は引き裂かれて色とりどりの布地となって散乱している。ユニットバスを覗く。こちらには大量の血痕。
いまさら密室殺人事件が起こっても困るじゃないか、今度は名探偵ごっこをやらされるはめになるのかよとぼくは腹を立てたが、立てるポイントがかなりまちがっている。地球を見習うくらいまちがっている。なにより推理なんて面倒な手続きを踏まずとも、犯人はすぐに見つかった。
ロボだ。からのバスタブの底に、大破したロボットがごろんと転がっている。ロボはおおきめのバケツのような形状で、真鍮色にテカっており、無数のレンズのようなパーツがついたほうが頭だとすると頭頂部が溶断されている。ロボの一部だったであろう、破損した金属片が無秩序に散らばっている。死んでいるのか。この不穏な機械がいきなり動き出す気配はない。ロボに脚は見当たらないけれど、胴回りに触手状の腕を何本も生やしていて、バスタブの外にその先端をはみ出させている。先端にはそれぞれナタやドリルや刀がついている。そのうちの一本、刀だけが明らかに他と色がちがう。乾ききった血液の色。
そしてロボのすぐ横、便座の陰になるような位置に、被害者の遺体があった。先輩は全裸で、手には銃のようなものが握られている。これでロボの頭部を撃ったんだろうか。肩口からばっさり袈裟懸けに切り裂かれてている先輩。ぼくは目をそらす。
いまの状況を考える。ぼくはなぜか宇宙船にいて、なぜかオオカミに殺されて、でもなぜか生きている。いっぽう先輩はなんだか知らんうちにロボットに殺されている。いや相打ちか。事情を説明してほしい。ぜんぶ説明してくれるんじゃなかったのか、先輩。宇宙では雇用者が死んだ場合でもちゃんと給料を支払ってくれるだろうか。地球ではどうだったっけか。地球つか日本? 商法かなんかのテストでやったような。いやそんなことはどうでもいい。いまは命の問題だ。危機だ。ここにいてはいけない。この船には殺人ロボがいる。そうだ、脱出艇だ。脱出艇を探そう。いやそんなものなくてもこの宇宙船ごと地球に帰れたりするのか? ガンダムなんかを見る限り、船にはブリッジと呼ばれる場所があるはずで、ブリッジからは船の色々ななにかをコントロールできるような気がする。そこはどこなのか。いつもの仕事場だろうか。地球が見える窓と椅子とスイッチひとつでは、あまりブリッジな感じはしない。じゃあどこだ。船の中を探してうろつけば、またオオカミに齧られてジ・エンドになる。というかオオカミのいるフロアは隔壁みたいなもので閉鎖したりしているのだろうか。こっちの区画は殺人ロボ。あっちの区画は野生のオオカミ。オオカミよりやばい動物もいるかも知れない。どっちがより危険なのか。
ぼくはとりあえず、身を守るため、ロボから武器をいただくことにする。触手はぐねぐねしてるわりに硬く、武器はいくら引っ張っても取れない。このロボットが金属なのか粘土なのか、それすらわからないけれど、なにか工具でもありゃ外せるだろ、先輩の部屋にあるかな、とユニットバスに背を向けたあたりで、モーター音が聞こえる。振り返ればロボが動いている。触手を使ってバスタブから身を乗り上げ、デジカメのレンズのような眼がふたつみっつ、こちらを睨め上げる。冷たい眼。刀とドリルとナタがいっせいに構えられる。
あっ、無理にこいつの武器をもぎ取るより先輩の銃を借りればよかったんじゃないか、失敗した、でも死体なんか触りたくないよな、と無益な考えばかりが高速で脳味噌のシナプス結合を駆け抜け、ぼくはあわてふためき奇声を発することしかできず、ああああああああぁぁあああぁああぁああ、何段階かに色分けされた「あ」をたくさんひり出す。全身全霊。のどを絞って。
刀が振り下ろされる。ぼくに死が訪れる。二日ぶり二度目の死。なにもかもわけがわからないけど、なにひとつわかる必要はない。死ぬんだから。いま。いま!
死ななかった。
ぼくはユニットバスからの脱出に成功したものの速攻でつまづいて床に這いつくばって腰が抜けて人生の終わりを覚悟してあぁああぁいいつづけて、でも一向に死は訪れず、モーター音は止んでいて、再度振り向けば邪悪なロボは刀を振り上げた殺人姿勢で沈黙している。
「あーもしもし」誰かの声が聞こえる。「聞こえますか。聞こえますか。無事ですか。ユーオーケイ?」
「先輩!」ぼくは涙目で叫ぶ。
「ああやっとつながった」誰かが応える。
「豊田先輩ですか」
「豊田だよ。ロボは止まったよね」
先輩らしい。安堵のため息を漏らす。でも姿が見えない。どこだ? ユニットバスに戻り恐る恐る覗き込むと、キラーマシーンは確かにしっかり停止している。もう動くなよ。たのむから。その脇にある先輩の死体はちゃんと死体のままだ。ならいまぼくとしゃべっているのは誰だ。
「止まってますけど、先輩も死んでます。あなた誰ですか」
「だから豊田だよ。死体を前にしてずいぶん肝が据わってるね」
「ずっと震えてますよ」
「ああそうなの。いまこっちからは見えてないんだよ」
天井にあるスピーカーの存在に気づく。船内放送?
「なんなんですかこれは。なんでこんなところで死んでいるんですか。なんで死んでるくせにぼくと話してるんですか。なんでぼくも死んだのに生きているんですか。なんで死んだのに先輩と話しているんですか。なんなんですか。ぼくはオオカミに齧られましたよ。食い殺されたんですよ。オオカミですよ。ここは方舟なんでしょう。方舟。方舟でぼくをどこに連れてくんですか。ぼくじゃないと駄目なんですか。誰かと替えてくれませんかか。なんなんですか。スイッチを押すとなんなんですか。ロボットを使って自殺したんですか」
「きみが混乱しているのは理解した。わかる。超わかる。こっちも事情が飲み込めてないところがあって、説明すると長くなる。とりあえずその部屋はまずい。早いとこ移動してくれないかい」
「移動って」
「きみがふだんスイッチを押していた部屋があるだろう」
「仕事場ですか」
「『仕事場』か。そうだな仕事場に来てくれ。そこならモニターできる」
「モニターって」
「そこらへんも説明するから」
「なにいってるかぜんぜんわかりませんっ。動けませんっ。動くとひどい目に遭うんですっ」
「がんばれ。気合だ。動かないほうがロボなりなんなりと鉢合わせる可能性が高い」
「じゃっ、じゃあ、ぶっ、武器は持ってったほうがいいですか」
「あーそうかも。でも時間はかけられない。とにかくそこをさっさと出てほしい。さっきもいったけどおれはその船の状況を上手く把握できてないんだ。大丈夫、きみの位置はわかるから、やばいものがきみの前に現れたら、さっきみたいに排除なり停止なりはしてやれる」
「本当ですかマジですか絶対おねがいしますよ絶対ですよ頼みますよ」
「排除に時間かかったらごめんね」
「絶対絶対ぜったい絶対頼みますよ全速力で最善の善処をしてくださいよ」
ぼくも死体やキラーマシーンとおしゃべりする趣味はないので安全な場所に避難するのは大歓迎だ。先輩の部屋を駆け出て、通路をさらに駆ける。危険は? ない。不審な物音は? 聞こえない。誰かいる? いない。よしGOだGO。何度も往復したいつもの通路だ。余裕だ。すぐ着く。OK。
丁字路を曲がると、ジャングルがあった。
へたり込むぼくに先輩が「大丈夫、大丈夫」といい加減なエールを送ってくる。見えてねえくせに。「なにがあるの」
「ジャングルです。密林です。植物が密生しています。熱帯の植物です。色んな生き物がいます。絶対やばいです。ここはやっぱり方舟なんですか。方舟でぼくをさらうんですか。地球は滅ぶんですか」
「さっきからその方舟ってなに。方舟ってあれでしょ大洪水がどうのとかいう」
「だからこうして船に地球の生き物を詰め込んでるんでしょう。ジャングルだけじゃなく森も石造りの建物も田園も見ましたよ。ゲームもパソコンもウォッシュレットもあるし、文化とか文明の記録も詰め込んでるんでしょう。地球は滅ぶんでしょう。ぼくは人類のサンプルなんでしょう」
「人類代表? きみが?」
先輩が豪傑のような笑いをからからとスピーカー越しに響かせる。それと同時に爆発音。先輩の部屋の方角だ。船体がびびびと震える。
「ほらなんかわからないけどやばいもんが迫ってるっぽいぞ。とっとと目的地に行ってくれ。早く」
「だってジャングルですよ目の前にあるんですよジャングル。ぼくは昨日……いや一昨日か、三日前かも知れないですけれど、森の中でオオカミに齧られたんですよ。食い千切られたんですよ。毒グモ毒アリ毒ヘビいますよ絶対いますよこれ」
「だからきみの危機はこちらでなんとかするからさ。オオカミでも毒ポイズンでもなんでも、根性で突っ切ってくれ。見かけは多少ちがっても船自体のおおきさは変化してないから、樹木が邪魔になっても直線距離は変わらん。すぐ着くよ」
「ついさっきまでこんなのなかったんですよ。普通の廊下だったんですよ」
どかん。
また爆発音だ。さっきより近い。それだけじゃない。きしゅうししししし、モーター音も聞こえる。それも複数。
「ほらほら、やばいの来てるぞ。またさっきのロボじゃねこれ」
前門の密林、後門の自動機械。ぼくは観念して駆け出す。ジャングルを突っ切る。全力疾走ならクモやアリとは関わらずに済むだろう。ヘビはどうか。済んでください。大型肉食獣? 考えたくもない。
「ロボットにオオカミねえ。ほんと地球人の想像力は貧しいな」先輩がいつもの、ふうやれやれのゼスチャーをしているのがわかる。「方舟には笑ったけど。方舟って。方舟で運ぶね、って? ぷぷぷ」
あっという間にジャングルが途切れる。距離的に短いというのは本当だった。あとは仕事場までは一直線。というところでどしんどしんと不審な音が響く。また爆発か? ちがう。背後でたくさんのロボが元気に森林伐採を始めている。
「あいつら止めてくださいよ。ほらあいつら。追いついてきてるじゃないですか」
「数が多いから手間がかかるなあ」はあ? 早くしろよこのクソ宇宙人! なんなんだお前さっきから他人事だと思って。「消すよりいい方法がある」
通路が封鎖される。隔壁はあったようだ。
船内の様変わりとくらべると、この無駄に広いだけの仕事部屋にはなんの変化も見当たらなかった。薄暗くて窓からは地球が見えて、椅子とスイッチしかない。ロボたちが隔壁に体当たりなのかドリルなのかとにかく無闇にアタックしている音が聞こえるけれど、ぼくはいつもの椅子にどさりと腰を下ろしてようやく人心地つく。
「あー、あー、聞こえますか」間抜けな声。
「着きましたよ先輩」
「さっきもおれのこと先輩って呼んでたね。おれはきみの先輩なのか。そう呼ばれるのも悪くないな」
「なにをいってるんです」
「まあいいや、では状況を説明しよう」
「包み隠さずおねがいします。オオカミに齧られたあと、なにもかも教えてくれるっていいましたからね」
「そうなのか。すでに教える気だったのか。こっちはけっこう悩んだのにな」
「そうですよ。なんですかさっきから」
「いやすまんね。話が噛み合わないと思ってるならそれも現在の困った状況の一部で、それにも説明が要る。わかるかい」
「わかりません」
「やっぱきみが相手だと難しそうだな。きみに話して理解できるかなあって、いつかおれはいったんじゃないか。たぶんいったと思うんだよ、なにしろおれのやることだから」
覚えていない。
「端的にいうと、だ」先輩が珍しくかしこまる。「そっちで死んでたおれはおれじゃない。きみの相手をする用のおれなんだ」
意味がわからない。
「きみは、ええと、ここ三週間ほどそっちのおれと仲良くやってたと思うんだけど、おれはそこで死んでいた豊田じゃないから、その、なんだ、きみがどういう人間で、おれとどういうやり取りをしていたのかは、おれにはよくわからない。もちろんきみのことは知っているよ、プロフィール的な意味で。でもきみとの付き合いかたはまだぜんぜん知らないし、そもそもこうして会話する予定ですらなかった」
「なにをいっているかわかりません」
「きみが豊田と呼んでいた人物は失われたんだよ。そいつはおれのコピーだった。順を追って話すからよく聞いてくれ」
コピー? 豊田のコピーが先輩?
薄暗い仕事部屋に響く豊田の声は、たしかに先輩の声なのに、急に別人のものとして聞こえ出す。地球を眺めながら話を聞くのはいつものことなのに、なぜかいつもより空調の稼動音をおおきく感じる。
「まずおれの目的からだ。おれは宇宙人で、あの世を探して旅している。霊界、死後の世界、極楽浄土、天国地獄大地獄、呼び名はなんでもいいんだが、とにかくそういうものを探している。生あるものが滅したあとの死者の国。そんなものを宇宙人が求めているだなんて、驚いたかい」
「前に聞きましたよ」
「え、マジ? ずいぶん仲良くなってたんだなきみら」
そうだろうか。
「まあいいや」と豊田。「さっきもいったが、おれたちは生命や意識をコピーできるような技術を持っている。コピーが可能という時点で当然、生命という現象について、ひとつの結論が出る。
『魂なんてものは存在しない』。
意識は単なる機械的な構造で、認識と記憶の海に浮かぶ泥舟でしかない。これ自体はべつに驚くようなことじゃない。ほとんどの地球人にだって理解できるごく簡単な理屈だ。
問題は、永久不滅の魂なんてものは存在しないうえ、いくら生命をコピーできても、延ばせる寿命には限りがあるということだ。たとえば、老いて死ぬ寸前のおれを若くて元気な肉体にコピーしたとしよう。べつに肉である必要はない。石に彫っても紙に墨で記しても、光磁気ディスクやHDDや中性子同位体に書き込んでも、意味としては同じだ。さて、ではそれは永遠の生命と呼べるか? 呼べない。いずれ宇宙自体が死んでしまうんだから。宇宙が死ぬのは知ってるかい。熱的な死と呼ばれるものだ。いずれ必ず訪れる。
つまりこの宇宙のものをこの宇宙の中にコピーしてみても、宇宙の情報の総量は変わらない。いくら自分のノートをコピーしたって、コピーを見るのが自分だけだったら意味ないだろう? ましてやそのコピーを元のノートに貼り付けてたらバックアップとしての機能を果たさない。パソコン内に同じ情報をいくら並べたってパソコンがクラッシュしたらおしまいだ。おれたちにできる生命のコピーは、その程度のことでしかないんだ。いわば生物の寿命を宇宙の寿命になるべく近づける行為。それで十分というやつもいれば、不十分というやつもいる。おれは不十分だと思った。あの世が発見されないことに納得がいかなかった。
そこで、だ。あったほうがよいものがないっていうのなら、自分で創ろう、というのは正気の考えではないかな」
あの世を創る?
「別段、宝石を散りばめた豪華絢爛な宮殿やら、七十二人の処女を都合する必要はない。なにが要るかわかるかい」
「わかりません」
「もうちょっと考えろよ。コピーが取れたならペーストするだろう。それをこの宇宙の中に貼り付けてちゃ駄目ってんなら、外に向かうに決まってるだろ。つまりあの世を探すって行為は、この宇宙じゃないところにペースト先を確保することだ。ノートのコピーを貼り付けるべき場所はこの宇宙の外だ。
宇宙の外に行けないものか、おれはずっと探してきた。故郷の星では、ワープ技術が開発されてからというもの、ずいぶん期待が高まった。時空を捻じ曲げ、宇宙の外に行けるのではないかという予想はすくなからずあったから。
でも行けないんだ。いまだ誰も。ワープ技術の開発以前にも、ブラックホールに飛び込むような勇敢でごきげんな連中がたくさんいたが、誰ひとり帰ってきていない。まず確実に死んだだろう。あの世を探して死ぬなんてのは出来の悪い冗談だ。もし宇宙の外に行けたとしても、こちらの情報を向こうにペーストして、そして帰ってこれなければ意味がない。それじゃあおれが欲するあの世としての意味を成さない。
そこでおれは考えた。おれたちが宇宙の外側に行けないのは、おれたちがこの宇宙を正しく認識できないせいではないかと」
「あの、先輩」ぼくはなんだかわからないところに行った話を遮る。
「なんだい。いいところなのに」
「宇宙の話はいいから、スイッチの意味を教えてくださいよ。先輩がふたりいる理由も」
「あァ?」もう何度も先輩から聞いた不機嫌な声を、この豊田もいう。「対馬くんという人はせっかちなんだな。あーやだやだ、ものごとには順序ってものがあるのに。おれ、人が話してるときに割り込んでくるやつ超嫌いなんだよね」
「あとここがやばい場所なのはよくわかったので、早く家に帰してください」ぼくは無視していう。
「それにも手順がある。この説明もその手続きのひとつだよ。ぐだぐだいうどうなっても知らんぞ」
死んだ先輩もこの豊田も、確かに同一人物であるようだ。性格の悪さは一致している。
「まあいいや。はいはいスイッチ。スイッチね。いま目の前にあるんだろ」豊田がいう。
「はい」ぼくは見下ろす。五百円玉よりすこしおおきいくらいのまん丸を。もうなんべんも押してきた仕事を。
「スイッチを押すことによってマッピングしているんだ」
「マッピング?」
「きみの脳は常にモニターされている」
「脳をモニター」わけがわからないなりに、不穏な響きだ。「なんか変なものでも埋め込みやがったんですか、このクソ宇宙人」
「きみ自身にはなにも埋め込んでいない。宇宙人だからって人体にすぐなにかを埋め込むわけじゃない。偏見はよくないぞ。そういうやつもいるけど。おれは人になにも埋め込まないタイプの善良な宇宙人だ。脳をモニタリングするにも、非侵入性のスキャン法くらいいくらでもある」
「変な専門用語を出されても」わかんねえよ。
「きみくん『に』なにかを埋め込んだりはしていない。きみ『を』埋め込んだとはいえるかな。その宇宙に」こんどは先輩が無視してつづける。「きみは他人が見ている世界を見て、聞いて、感じてみたいと思ったことはないかい。人間の見ている世界はそれぞれちがう。千差万別。そもそもひとりひとり脳の構造がちがうんだからあたりまえだ。地球ではクオリアとかいったかな、赤い色を赤く見せるとかいうやつ。クオリアを持ち出さなくても説明できるけどね。
他人の見ている宇宙を見る。きみがいましているのはまさにそれだ。そこは他人が見ている宇宙なんだよ」
ロボたちは体当たりをやめてドリル一本にしぼったようだ。甲高い音が聞こえてぼくは椅子にいて、歯医者を連想する。
「意味がわかりません」
「さっきからすぐそれいうね。だから順を追って話すといったろう。最後までちゃんと聞けよ」
「じゃあ聞きますよ」
「ふてくされるならいわない」
「教えてくださいおねがいします」死ね。
「仕方ねえな。よく聞け。
きみが地球を見てスイッチを押す。その脳をこちらでモニターする。実はスイッチそのものにはなんの仕掛けもないんだよ。電源にさえつながっていない。回路ですらない無意味な飾りだ。意味があるとしたら、押されることによってきみの中に世界のイメージを形作ってもらうこと。まあ、単なるキュー、きっかけだな。きみに集中してもらうための。集中しているきみの脳をモニタリングすることによって、きみが地球を、世界を、宇宙というものを、どういうふうに見ているのかがわかる。おれはそこからきみにとっての宇宙をコピーする。生命をコピーするように。そうやってマッピングされたきみの宇宙がエミュレートされている」
え、え? 「ぼくの宇宙?」ちょっと待て。「さっきは、ぼくが他人の宇宙に埋め込まれているっていってませんでしたか」
「だからさー、頭悪ィなめんどくせえなー。きみがいまいるのは他人の宇宙で、他人の宇宙に住むきみをモニターして再現されたきみの宇宙にも、さらにべつな他人が放り込まれてる、っつってんだよ。ついでにいうと、もちろん放り込まれた人物をまたモニタリングして、次の宇宙を作ってもらっている。その中にもまたちがう人物が入る。そいつも宇宙を作る。おれはその繰り返しをしている、ってこと」
混乱してきた。
「ぼくがいま見ているのは、いったい誰の宇宙なんですか」
「誰だと思う」
なんでこう「いくつ?」「いくつだと思う?」みたいなやりとりをしなくちゃならんのだ。
「ここはもしかして先輩の宇宙ですか。だから先輩がふたりいるとか」
「ブブー残念。いや惜しいかな。そこは、えーと、ひきこもりの宇宙だ。おおすごいぞ、無職童貞ひきこもり歴四半世紀、絶賛記録更新中という傑物だ。いまは総勢四十二名の脳をモニターしているけど、その中でも異彩を放つプロフィールだな」
「四十二人!?」さらわれた人数。
「本当はもっと多いほうがよかったんだけど、おれの船の容量的にこれが限界なもんでね」
「他人の宇宙……ひきこもりの」あらためて周囲を見回すが特に新鮮なこともなく、まるで実感がわかない。「帰ることはできるんですよね?」
「きみがその船から出て物理的に帰ることはできる。ただしその地球というのはひきこもりにとっての地球であって、きみがひきこもりの地球に行くとなると、多少の問題が出てくる」
「どんな」
「きみにとってはものすごく異質な地球だろうから。きみはそこに三週間いて、もう何度も食事をしたろう。それはひきこもりにとっての『食事』という概念だ。おいしかったかい? きみはそこにいて、寝具で眠ったろう。それはひきこもりにとっての『ベッド』だ。よく眠れただろうか。きみは入浴はしたか。それはひきこもりが『風呂』から受ける印象だ。ひきこもりにとっての宇宙船は快適かい? おれが乗ってきたオリジナルの宇宙船はいちおう実在するけど、きみらは宇宙船というものに馴染みがないからな。四十二人分のイメージはことごとく元の姿からかけ離れている。どうせテレビとか映画のイメージなんだろうけど。いちおう全員が『同一の』宇宙船に住んでいる関係上、フィードバックもあるからあまり派手なバラつきはないけれど、それでもそれぞれいい加減で出鱈目だ。宇宙船ほどじゃないにせよ、きみがそこから地球に帰ったとして、他人の『地球』はどうだろうな。そこに住む人間も、きみにとってはおよそ人間の形を成していないと思う。そもそも彼はひきこもりだから、部屋より外の世界はほとんど存在すらしないかも。だからそういう意味ではきみを帰すことはできない」
隔壁を破砕するドリル音がいっそう甲高くなる。
帰れない? まともな地球ではない? 他人の宇宙? 自分の宇宙から引き離された四十二人の迷子。ぜんぶこいつがやったこと。こいつが。豊田が。
「ふざけんな!」ぼくは見えない敵に叫んでいる。「人をこんなわけのわからないとこにさらっておいて、いままでいってきたことぜんぶ嘘かよ! ちゃんと帰せよ!」
「嘘じゃない。きみは給料目当てにここに来たんだっけ? カネならちゃんと振り込んでるし。口座確認してこよっか?」
「そういうこといってんじゃねえよ!」
「無論、これはきみのいる宇宙だけの問題じゃない。きみが作ったほうの宇宙の中にも人が住んでいるといったろ。そいつもきみの想像する宇宙船で暮らすうえで、おそらくえらい難儀しているんじゃないかな。きみ自信ある? まともな宇宙船を想像できてる? 地球だってちゃんとしているかどうかあやしいぞ。きみの地球は正常か? 正気の地球か? きみにとって正常で正気だったとしても、他人にとってそう見えると思うか?
きみの宇宙にいるのは誰だったかな。おっ、JCだぞJC。女子中学生。きみがロリコンならよろこべ。きみの中にJCだ。『お兄ちゃんのナカ、あったかりナリィ……』って」
「未成年者略取で捕まれよクソエイリアン」
「地球の官憲は怖いからやだなあ」
知るか。「死ね」死ね死ね。
「すでに死んでるよ。そっちの豊田はね」と宇宙人。「そっちの豊田も死んだし、きみもひどい目に遭った。どうも、ヒッキーのそばについている豊田がうっかりなにか口をすべらしたようなんだ。ヒッキーは自分の宇宙では無力でも、きみのいる宇宙船に対しては神様のような力を発揮できる。さっきもいったけれど、『異星人の宇宙船』に対するイメージはかなり自由でいいかげんだからね。とはいえおれもここまで出鱈目なことができるとは思っていなかった。ヒッキーは事情をある程度把握したうえで、きみとそっちの豊田に、ひいてはすべての豊田に迷惑をかけることで、うさを晴らそうとしたんだろうな。ついさっきヒッキーの側についている豊田から連絡があったんだが、これがいまいち要領を得ない。やたらいいわけがましいというか、具体性に乏しいというか。まあおれのやることだから仕方ない。とはいえ自分自身の性格がいやんなるね」
あの田園風景はともかく、オオカミや殺人ロボはひきこもりの悪意の産物か。思い返せばゲームっぽい貧しいイメージだ。そんなやつの見る地球はどんなだ? でもそいつの気持ちはわかる。とても。おれだってこんなふざけた宇宙船も宇宙人もぶっ壊してやりたい。
そういえば。「ひきこもり青年は、家に帰せって泣いて喚いたって聞いたぞ」
「泣き喚かれたからって素直に帰したわけじゃない。というか彼だって他人の宇宙にいるんだ。簡単に帰すこともできない」
「鬼かテメー」
「宇宙人だってば」宇宙人はけろりという。「それに泣き喚かれた豊田はこのおれじゃないってのはもうわかるだろ。こっちのおれにいわれても困るんだよ。ひきこもりについている豊田……きみにとっては第三の豊田だな、文句があるならそいつに伝えておくよ」
「おまえもそいつも他のすべての豊田も死ねよ」
泣いても喚いても帰れないうえ、死ねといってこいつが死ぬはずもないけれど、ぼくはまた泣きそうになって、そのあとすぐにぐしゃぐしゃに泣く。
「話をつづけていいかな」宇宙人がいう。
勝手にしろ。
「人間の顔の平均を取ると、美男美女になるって知ってるか」
知らねえよ。
「おれたちには宇宙の形を完璧には把握できない。おれたちというか、生物には宇宙の形を正確に認識できないし、自然言語やプログラミング言語はもちろん、数学ですら記述不能なんだ。完全言語……神の言語で記された宇宙には、われわれには知ることも触れることもできない影があるんだろう。もしかすると、他の宇宙への出入り口をわれわれが見つけられないのは、出入り口がそこにあるからなのかも知れない。影の部分に。大事なものが子どもの手の届かないところに置かれるように。
そこで、だ。たとえばものが立体的に見えるのは両目が視差を生むからだ。片目だけでは平面にしか見えないのにね。ならば視差ならぬ種族差を使って宇宙の影を認識できないものだろうか。おれたちと地球人との認識の差から浮かび上がるものを探せば、せめて影がどこかに確実に『ある』ということくらいは掴めるかも知れない。そこできみらの認識するきみらの宇宙をおれは欲した。
きみらにとっても宇宙は広いだろうが、人類にとっての世界はまだ地球のおおきさとほぼ重なる。いわばおおきめの密室だ。まだひとかたまりとして捉えられる世界観を持っていて、ある程度の文明を持っている知的生命体。これは好都合だった。地球をまるごと視野に収める視点さえ用意できれば、きみらの脳が見る宇宙を簡単にモニターできるからな。きみの暮らす日本の上空からと、あとそのちょうど裏側に行くタイミングでスイッチを押してもらっていたのはそのためだ。
そうしておれは、地球の誰かの見た宇宙、その宇宙に住む人物にとっての宇宙、に住む人物にとっての宇宙、に住む人物にとっての以下同文掛けることの四十二を得て、それをずっとぐるぐる巡回してきた。ずっと。ずーっと。ずいぶん苦労させられた。けれどその結果判明してきた地球人にとっての宇宙は、おれたちが見るのとたいして変わりない宇宙だった。
種族差を重ね合わせ比較検討して得られたのは、きわめて平均的な宇宙だ。美男美女な宇宙。美しくはあるよ。宇宙だもの。そりゃ美しい。でも特になにもない。おれたちにとっての認識の影、地球人にとっての影も、既知宇宙すべての生物にとっての影のままだった。これが知的(笑)生命体の限界なのか。サンプルがすくなすぎるせいか。あるいはそんな影なんてものはそもそも存在しないのだろうか。どれだと思う」
「知るか」声に出していう。もう聞く気もない。
「あー、わかったわかった。もうこれ以上意地悪しないでちゃんといおう。これできみは帰れるんだ。ちゃんと現実の世界に。本当だ」
はあ? なにをいまさら。誰が信じるか。
「なにを現実とするかは措くとして」
これだもんな。
「この実験ももう終わりなんだ。終わるしかない。残念ながらご承知のとおり、すでにかなりやばい状況だからな。きみに危険がおよばないよう、すでにひきこもり側からの影響は遮断しているんだが、いまもロボたちが隔壁を取り壊しにかかっている。もうすぐ穴が開きそうだ。とてもやばい。
これからきみたち四十二人を帰す。そのためにまず、きみたち四十二個の宇宙の同期を、すべて解除する必要がある。四十二人の見る宇宙はばらばらに、無関係になる。四十二人分でひとつの環を、閉鎖系を成していた宇宙が、現実宇宙の中に解き放たれる。
そこまでは予定どおりの手順だ。四十二人中四十一人はそれで帰れる。問題は、残ったひとり、きみの処遇だ。いまきみのいる宇宙はヒッキーの脳から切断されてかなり不安定なうえ、きみを観測していた豊田が死んだおかげで、同期を解除するとそのままきみ自身も消えかねない。
そこでこうしてこのおれが、直接きみと関わらなくてはならなくなった。オリジナルのおれが観測者となり、きみのほうがからもおれを見てもらうために、こうしてすべての真相を明かすという形でね」
がこん。
ぼくがいままでずっと見ていた、窓の外の青いまん丸が、ブラックアウトした。つまりこの三週間えんえん眺めさせられた、集中すべき見習うべき、ぐるぐるしている地球が、消えた。同時に船内の照明も落ちる。ただでさえ薄暗かった仕事場は真っ暗になる。ドリル音も止む。
いや切れたのは照明だけじゃない。なんだこの感じ。変だ。なにか変だぞ。ぼくは虚空になげ出されている。暗黒の世界に。ぽつんとぼくひとりだけがいる。急に広所恐怖に襲われる。
「ちゃんと存在しているね」豊田がいう。「同期を切ったよ。この船は存在をやめた。ここには対馬くん以外なにもない」
なら船のスピーカーも消えたはずなのでは。なんで豊田の声が聞こえるんだろう。
「ここは……いまぼくがいるのはどこなんですか」
「どこだと思うね」
「現実に帰れたんですか」
「わかってねーなー」
「じゃあ、ここはぼくの宇宙ですか」
「それもちがう」
「わかんないです。どこですか」
「考えるんだ対馬くん」
わかんねーっつってんだろ。
「さっききみが自分でいってたじゃないか」と先輩。「おれの宇宙だよ。超光速航法を既知のものとする、おれのよく知るおれの宇宙だ。真相を知るきみにはこっちのルートで帰ってもらう。オリジナルのおれと接点を持った対馬くんは、おれの宇宙と無関係ではなくなったということだ」
周囲の真っ暗闇、延々とつづく虚無の一点に、光り輝く矩形がある。それはぼくには扉に見える。
「さあ。それを抜けて、まっすぐ行きな」
ぼくは虚空に歩を進めて扉に至る。輝く矩形は明度を落とし、それでも光り輝いている。海だ。扉の向こうに星の海が広がっている。これは星の光か。おそるおそる足を踏み出す。
宇宙空間を歩くというのはなんだか色々とおかしいが、おかしなことならもう慣れている。二歩、三歩、足はしっかり地面を踏みしめている。いや地面なんかないし本当は感触もないかも知れない。宇宙空間だ。そもそもぼくの足が見当たらない。手もない。身体もない。ぼくにはぼくが発見できない。いくら見下ろしても見上げても、星、星、星。星星星星星星星星。青いの赤いの黄色いの、もやっとしたのにまばゆいの、ぐるぐると渦を巻いているの、ジェットを噴いたり爆散してるの。地球は見当たらない。とある宇宙。誰かにとっての宇宙。先輩の認識する宇宙。遠い遠い星で生まれた、赤の他人にとっての宇宙を、ぼくはぼくの存在しない足でハイキングしている。
うはは、もうなんだかいっそ楽しい。
先輩がなにかいっているのが聞こえる。ごく近くから、くぐもった声音で。ああそうか、これは先輩が聞く先輩自身の声なのか。と、なぜかぼくは理解する。
おれの星に伝わっている話を教えてやろう、対馬くん。
まず創造主がいた。よくあることだ。
創造主は万物を創った。神の言語によって。あるいは神の言語は創造主自身だったともいう。
ただし創造主は創造することしかできないバカ野郎だったので、被造物の手違いを直すことができなかった。ある意味『手違いが創造された』ともいえる。手違いが創造されたことが手違いなのかどうかは意見が分かれる。
手違い?
もう何度もいったろう。あの世がないこととか。そのくせワープがあることとか。
おれの宇宙も対馬くんの宇宙も、誰の宇宙にしたって、どれもこれも粗悪なコピーなんだよ。現実宇宙の。おれたちには認識不能で理解不能な、創造主の言語で記された宇宙。おれらにとっての現実宇宙なんていうのは、神の言語の粗悪なコピーだ。あるいは翻訳ミス。つまりおれがやってきたことは、無数の翻訳ミスを照らし合わせて原文を推測する作業、ということになる。原文を復元して、手違いを詳らかにする。そしていつか手違いを正す。
よく考えれば、これは誰だってやっていることなんだ。昨日の自分と今日の自分を照らし合わせている。自分と他人の認識を照らし合わせている。そうやってつながることによって、認識の溝を埋めている。
つながる。織り目。
おれはいま、おれの宇宙を見る対馬くんの宇宙で、これを話している。
対馬くんとこうして話している。
話す。
話した。
話された。
話している。
話すところだ。
話すべきだった。
話すかも知れない。
話すことだけあった。
話すことになるだろう。
ほらどうとだっていえる。
話すことで記された宇宙だ。
おれの宇宙はそうなっている。
距離がない。意味がつかめない。
おれの世界と対馬くんの世界とが混ざっていて、もうじき誰がなにをいっているのか、わからななくなる。おれにもわからない。誰にもわからない。おれはかつて一度でも存在したか? 対馬くんはどうだ? 宇宙から眺めてどこに誰がいるかわかるか? 地球の限りなく正確な地図は地球と同じおおきさだろう。宇宙を記すには宇宙が要る。誰がそんなもの持っている?
対馬くんがこれから辿り着くのは、誰がどう見た宇宙なんだろうね。
ぼくは存在しない宇宙船から、知らない宇宙を地球までのこのこ歩いて帰る。と話す。こんなのはバカげている。ありえない。手違いだ。翻訳ミスだ。粗悪なコピーだ。ただしこの粗悪さはぼくの認識力のせいだ。ぼくにはそうとしか見えないというだけだ。これは先輩の宇宙だ。先輩の宇宙をいくら眺めても、北斗星もオリオンもどこにあるのかわからない。星は無数にあるけれど、みんな好き勝手脈絡なく輝いていて、架空の線で結んでも、見知った星座を成してはくれない。関係が結べない。織り目が失われている。
ああまた織り目だ。先輩の世界において唯一結ばれた架空の線は、ぼくと先輩のあいだにあるものだけで、たったふたつの点を結ぶそれはいったい何座だ。この夏にだけ見える架空の星座。ひきこもりと第三の豊田の関係はどうだったんだろう。重要な情報を漏らして人に迷惑をかけるような間柄。スパイ映画みたいだ。
対馬くん、集中しろ。
してますよ。いつも以上に。
そして振り向くな。振り向けば帰れなくなるぞ。
なんだか聞いたことあるような話だ。
愛しい人を死者の国に助けに行くのなら、決して振り向いてはいけない。地上に住まう人間が、一日千人殺されるはめになるというぞ。
その物語はいったいなんのコピーだろう。
おれの番の怪談がまだだったなと思ってね。
怪談。そんなこともあったな。
どう? 怖い?
それ怪談じゃなく神話じゃありませんでしたっけ。いや怖い話ですけど。
ならよかった。
あれ。ぼくは気づく。ちょっと待ってくれ。と、ぼくは思わず振り向いてしまう。
同時に、存在しないはずの足を派手に踏み外す。宇宙の暗黒に落下する。虚無に飲まれる。なんだこれ。おかしいぞ。
ぼくは「先輩!」と叫ぶ。
先輩は「なんだい」という。
存在しないはずのぼくの手には、むやみやたらと真っ赤なリンゴ。
いずれこの宇宙は死ぬ。宇宙は召されてあの世へと旅立つ。あの世には、先に死んだほかのたくさんの宇宙がいる。すこし似ている宇宙。まったくかけはなれた宇宙。あるいはほぼ同一の宇宙。宇宙と呼ぶのもためらわれる宇宙。
「おまえは生前、よい宇宙だった。天国行きにしてやろう」創造主は特に懲りた様子もなくそういう。
ぼくは天国の先輩宇宙たちに迎え入れられる。新顔のぼくは囲まれ、揉みくちゃに歓迎される。揉まれて揉まれて、揉みしだかれて、ぼくはおくればせながらと咳払いにつづけて、自己紹介する。
はじめまして。お会いできてうれしいです。ぼくは生前、生物が住む宇宙でした。よろしくおねがいします。
えっマジ、超レアじゃね? ウケんだけど。物理定数がたまたまいい具合に作用したんだろうね。ハハッ生物なんてたいしたことないぜ低次元ども、おれなんてω次元だし。うるせえいつも同じこと自慢してんじゃねえ。あいつよく地獄行かなかったな。いやここが地獄という説もある。それな。
先輩がたは好き勝手いいながら、あの世の雑事をそつなくこなす。新生活が始まる。ぼくは先輩がたの見よう見まねで、まあなんとなく上手くやっていく。別段立派でなくていいから、ふつうよりすこし上くらいの宇宙を目指して。わんぱくでもいい。たくましく。
無数の宇宙の織り目の中に無事納まったころ、ぼくはバイトの空き時間に、ふと、生前のことを思い出す。
先輩宇宙のひとりが声をかけてくる。
どうしたの? なんだかひたっちゃって。あれもしかして泣いてる?
いえ。
なにさー、いってみなよ。
ぼくの中には色んな生き物がいたなあと思って。みんな、みんな生きていたんだなあと。
へえ、おもしろかった?
どうだろう、わからない。みんな死んでしまったから。ぼくも死んでしまったから。
先輩宇宙がぼくの肩をぽんとたたく。
でも、こうして、なにも失われてはいないじゃない。
先輩はいつものように貧相な顔でにやにや笑っているのだろうけれど、ぼくは後ろを振り向かない。
もう秋だね。
そうですね。
想像力が貧しいなあ。地球を見習うんだ、対馬くん。
ああいつもの先輩だ。
実験は失敗だったけど、収穫がなかったわけじゃないんだ。これで地球人が滅んでもデータは残るからね。対馬くんが気に病むことはない。
そうなんですか。
先輩の声が遠ざかる。
そうだ。
もうだいぶ遠い。
おれは対馬くんの宇宙を持って帰る。おれの宇宙を見た対馬くんの宇宙を。あの世があったら貼り付けとくよ。
声が消える。
ぼくは青いまん丸に降り立つ。見慣れた自分の部屋で目が覚める。宇宙船のではなく、自宅の、自室の、ベッドの上で。
窓の外はぐるぐるしておらず、抜けるような青空ということばの意味が実感できる青さをしていて、雲ひとつない。セミはまだジーチカジーチカ鳴いているけれど、外気はすでに夏のそれではない。
ぼくは記憶を辿る。過ぎた夏を思い返す。
木々のざわめきであるとか、蒸した空気をかき混ぜる扇風機だとか、友達がバイトしているビアガーデンだとか、女の子といっしょに観た映画だとか、足の指のあいだに入り込む砂の感触だとか、かき氷だとかスイカだとか、背の高いひまわりだとか。いまは遠い夏の歓声。また来年会う日まで。たしかにこうして、なにも失われてはいない。さっき昼食を摂ってからだらしなくベッドに倒れこんだことも、はっきり覚えている。すべていずれ忘れることだとしても。
ぼくはこの夏、宇宙船にいて先輩と過ごした。いっぽうでぼくはこの夏まちがいなく地球にいて、バカな大学生らしくウェイウェイな日々をすごしていた。つまり夏のあいだぼくはふたり存在していた。いまはひとりだ。ひとりになっている。
二重人格が怖いのは人格が二重になっているからではなく記憶が途切れるからで、ドッペルゲンガーが怖いのは出会ったら死ぬといわれているから、と先輩はいっていたけれど、ぼくはいつの間にかドッペルゲンガーに出会っていて、でもぼくは殺されることなく、いまではたったひとりのぼくになっている。
(「それはおれが記憶を消したからだ」「マジすか」「嘘だバカ」)
先輩とはそんなやり取りがあったけれど、記憶はむしろ増えている。ふたりぶんの記憶がここにある。ぼくとぼくの、二重の夏の記憶が。
あるいはふたりのぼくのうち、ひとりは宇宙船からリンゴを追いかけて落ちて死んだのかも知れない。死んだぼくの記憶だけがテレパシーで飛ばされて、いまのぼくがあるのだろうか。でもテレパシーは実在しない。
宇宙船での労働はしっかり給料となって口座に現れ、自宅には送り主不明の給与明細まで届いた。ただしなんだかわからない名目で色々さっ引かれている。恵まれない子どもたちへの寄付は宣言どおりだからいいとして、住み込みの家賃と食費光熱費水道代、貸与されたゲーム機およびゲームソフトのレンタル料についての説明は、先輩からは一切なかったはずだ。かなりおおきく引かれている。ムカつく。それもかろうじて常識の範囲として百歩ゆずるにしても、酸素代という名目でカネが取られているのはかなり納得がいかない。人をさらっておいて「おまえいまウチの空気吸ったろう、カネ払えや」とはどう考えてもヤクザのやり口だ。これが最近よく聞くブラックバイトというやつか。と憤ってみても、ただでさえ腰の重い労基は宇宙ヤクザなんぞ相手にしないだろう。泣き寝入りだ。
そうだバイトの時間だ。ブラックではないほうの。コンビニに行なくてはならない。うちの店ではもうレジにおでんが並ぶころだ。今日の相方は新人で、ぼくはこいつがすぐに辞めるタイプか長くつづくタイプかを気にしている。
立ち読み客が消えた合間に新人がいう。
「対馬サンこれ誰すか。先月のシフト表にスゲー名前の人いるんすけど。なにものっすか」
「ああ、辞めた先輩だよ。三日しかいっしょにならなかったけど、音信普通でクビになったってさ」
「豊田任天堂って。ヤベーDQNネームっすね。親がゲームマニアとか?」
「本人もゲーム好きではあったね」
「へえ、じゃあオタ系?」
「見た目はいちおう美人系かな。でもちょっと細すぎて好みが分かれる感じ」
「あっ女子すか。おれ細いほうが好きっす。巨乳だとなおよし」
「自分のことを『おれ』っていう女だけどな」
「うわ。じゃあやっぱゲーオタだけあってイタイ系すね。ジブン、好みじゃないっす」
ぼくは好みだったけれど。こいつはすくなくともコミュ障ではなさそうだ。つづくタイプだといいんだが。
地球で暮らしていたほうのぼくはちゃんとコンビニのバイトを継続していたようで、それもしっかり覚えている。ただし記憶はあってもいまいち働いた実感が薄い。ふたりがひとりになっても、メインのぼくはやはり宇宙にいたほうなのかも知れない。おかげでひと月ぶんのバイト代を丸儲けした気分だ。ふつうに考えるなら、宇宙船にいたほうのぼくがぼくのコピーのはずなのに。
先輩とはもう会うことはないのだろうか。
確率は薄いと思っていたけれど、数日がかりで検索に検索を重ねた結果、ぼくはとある女子中学生のブログを発見した。宇宙人、宇宙船、スイッチ、バイト、記憶、地球、そして豊田。覚えのある単語が並び、ややスピリチュアルな味付けで語られている。ぼくの見る宇宙にいたこの子が語る、この子の宇宙。
ぼくは先輩に真相を明かされたあのとき、同期が切られ船が消滅する前に、こっそり一度だけスイッチを押していた。名前も顔も知らない中学生が真相を知り、地球に帰り着くことを願って。中世の田園やオオカミや殺人ロボやジャングルのような迷惑千万なものではなく、船内にアジビラがばら撒かれるというアナクロな手法をイメージして、スイッチを押し込んだのだ。上手くいったかどうかはわからなかった。あたりまえだ。ぼくには自分自身の脳味噌なんて見えないんだから。万全を期すならJCの側にいる豊田を亡き者にして、完全にぼくと同じ境遇にすべきだったけれど、さすがにそれはためらわれた。でも上手くいったようだ。この夏の出来事がぼくひとりの妄想ではないことが確認できた。
このブログもまた、宇宙の粗悪なコピーのひとつといえるかも知れない。読み進めると、「寒々とした宇宙船」「せまくるしい部屋」「トイレが汚い」といった箇所に頭を下げたくなる。ぼくの想像力が貧しいせいだ。申し訳ない。食事に対する言及は特になかったのが救いだ。この子はぼくよりはいいものを食べていたのだと信じたい。
豊田任天堂なる人物はスマートな男性として描写されていた。ぼくと顔を合わせていた豊田任天堂は細身の女性だったが、おそらく他にも何人もの、さらわれた地球人と同じかそれにプラスアルファした数の豊田任天堂がいたんだろう。ぼくたちの嗜好に合わせた、微妙にプロフィールのちがう、性別すら異なる、オリジナルの豊田自身の自己イメージに含まれる、たくさんの豊田任天堂。いまではその全員の記憶を持つひとりの豊田任天堂として、誰かの見る宇宙にいて、ゲームをしたり人に迷惑かけたりしているのだろう。なぜなら同期が切られたあとに話した豊田先輩は、ぼくのことを対馬くんと呼び、ぼくとの怪談のことも知っていた。ならばぼくのよく知る、ロボットに殺害された豊田任天堂も、ある意味まだ生きている。オオカミに齧られたり宇宙から転落したぼくが、きっちりふたりぶんの記憶を持って生きているのと同じような理屈で。それがどんな理屈なのかは見当もつかないけれど。
ブログのコメント欄には、オカルト同志からの熱い『解釈』や、中学生のいかがわしいバイトを非難する書き込みがふたつみっつ記されていた。ぼくは「いいね!」ボタンをクリックして、その後は閲覧していない。
大学が始まる。ぼくはぼくの織り目に戻る。ぼくの宇宙の、ぼくの星座。先輩を含まない織り目の中に。
いつかこの認識も記憶も途切れる。ここに眠りたくなかった男もいずれここに眠る。それはできるだけ遠い未来であってほしい。あの世はいまのところ見つかっていない。
読んでいただきありがとうございます。
「非侵入性のスキャン」「脳マップ」のくだりはグレッグ・イーガン『ゼンデギ』を参考にしました。
以前書いた、豊田兄弟の末っ子が出てくるお話がなろうにありますので、もし拙作がお気に召しましたらこちらも是非。http://ncode.syosetu.com/n4959cq/