For you... 番外編「空」
スプーンですくって、一口。
瞬間、びっくりしたように目を見開いて、瞬きもしない瞳と目が合うと震えるように、おいしい~!と、絶賛してくれるのは素直に嬉しい。が、少し恥ずかしくもあり、隠すように困ったように、笑った顔を作る。
「すごいわ、同じ材料を使ってるのに、どうしてこんなに美味しく作れるのかしら」
「実は、配分を少し工夫したんですよ。ほら、今日みたいに天気の悪い日は湿気も多いし」
「え!それって関係あるの」
「意外と。でもまだ俺も研究段階で、まだまだですよ。それに、プリンはよく作るから」
空の言葉を聞いているのかいないのか、もう一口ほおばってはまた、おいしい~!と繰り返している女の子たち。今度は少し、引きつったように口の端を持ち上げて、はぁ、と一息。
放課後特有の、のんびりとした時間。運動部の掛け声を聞きながら、調理実習室で頬寄せ合ってはしゃいでいる週に一度の、製菓部の女の子たち。空はエプロンを片付けながら用意されたコーヒーのドリップを自分専用のマグカップに入れると、教室の端の席に腰掛け、口をつけるとようやく、心からの一息で落ち着いた気がする。
「何、ひとりで隠居決め込んでるのよ。あなたの分、無くなっちゃうわよ」
「先パイ・・・いいですよ。また作ればいいんだし、皆が喜んでくれるなら」
「はぁ、全く。あなたがそうだから、製菓同好会は晴れて今年から、部に昇格したわけだから、空さまさまなんだけど」
今度は苦笑い。空が落ち着いていたところに同行するように、自分もコーヒーを飲みに来たのは通称カスタードの鉄人こと製菓部部長、アンナその人で、いまや三十人を越える部を取り仕切っている。
「未だに忘れられないわ、あなたが入部して一週間、あなた目当てで入部してくる女の子の波!急遽、試験と称して大分振り落としたつもりだけど。こんな大世帯になるなんて、前代未聞だわ」
「耳が痛いな」
「あら、これでも私、感謝してるんだから。それよりあなたの方はどう?もう馴れた?これだけ人数がいても男子はあなた一人だし、窮屈じゃない」
「いえ、みんな親切にしてくれるし」
親切を通り越して気を引こうと、躍起になっている子もいるけど。窮屈じゃないと言えば嘘になるけど。それでも、ある程度の覚悟を決めて入部したのだから、妥協すれば文句なんて一つも無い。
それならいいけど、とアンナは頬笑んで向き直り、席を立つ。
「はいはい皆、空くんのプリンにばっかりたかってないで、片付け片付け!」
アンナの一声で一所に集まっていた女の子たちは散り散りに、不満そうな顔はしていても五分と経たずとおしゃべりは再開して、けれど言いつけどおりに、片づけは初めている。誰もがアンナには一目置いているのだ、頼もしい先パイだ。アンナだけは空を特別視しないでいてくれるし、空もその分、気が休まると言うか。
「ほら、空くんも片付け!ひとりでサボってるんじゃないの」
はぁい、とカップに残っていたコーヒーを喉に流し込んで、空も一応、不服そうな顔で喧騒の中へ。
・・・改めて、一息。
今度こそはすべての片づけを済ませて、全員がテーブルを囲んでそれぞれ自作のプリンをほおばっている時。
「来週の課題なんだけど、何かリクエストがなけれ今度はチーズケーキなんか、どうかしら」
「え!何か難しそう」
「あら、そんな事無いわよ。それに、大物だからグループに分かれて作る事になるだろうし、一人じゃないなら安心でしょう」
「あ、それなら私、空くんと同じグループが・・・」
「ずるい!私だって一緒に作りたい」
「はいはいそこ!部の規則では?」
「くじ引きで平等に」
「よろしい。それとも空くん、誰か一緒に作りたい人がいるかしら」
一斉に、無数の視線が空に突き刺さる、その一番前には言い出しぺのアンナのからかうような薄笑み。ときどき、こういうイタズラさえしなければいい人なんだけど。と思いながらもうなだれて、気苦労が耐えない。
「誰も何も、来週は用事があるので欠席します」
「あら、そうだったかしら」
「いま、初めて言いました。連絡が遅れてゴメンナサイ」
「それはいいけど、残念だわ・・・」
それから後の話題は正直、耳に入っていなかった。それどころか、自分が何をしていたのか、作ったプリンを食べて、片付けていた筈なのにまるでうつろで。
チーズケーキ。その単語を聞くだけでどんよりと、黒い何かがのしかかる気がする。
雪の降る寒いあの日に別れを決めた彼女、思い出さないように、そのために封印したチーズケーキ。予定なんてあろうとも無かろうとも、今はまだ立ち直れていないから・・・
それだけは、作れない。
彼女、みね子との出会いは中学に入って通い始めた進学塾での事。
二つ上の純は中学受験の段階で難なく、本命の若宮学園に合格して、幼かった空は当然のように、自分も同じように若宮学園を受験するものだと思っていた。
空はもともと器用な性格で、高学年になったからと言って教科書の内容をひたすら詰め込む事をせずとも太鼓判を押されていたのだが、難関進学校と知ってからは、人一倍気の小さい性分は他のライバルたちと同じにしなければ不安で仕方なかった。日を追うごとにそれは肥大して、自身の不安に押しつぶされた結果、試験当日に体調を崩して失敗。その結果が、疎遠になったクラスメイトたちと同じ公立中学への進学だった。
当然、それまで見向きもしなかったクラスメイトたちの輪に今さら入れるはずも無く、やる事といえば勉強くらい。そんな事だから学校など楽しい筈も無く、地元の塾へ行っても親しい友達も居らず、逃げるように、最後の望みを賭けて町の有名な進学塾へ通い始めた頃だった。
空の目にはみね子は浮いて見えた。
何処の輪にも入らず、誰ともおしゃべりを楽しむ事も無く、空と同じにただ、勉強をしに来ている様に見えた。後から聞いた話は何の事は無い、みね子は転校してきたばかりで親しい友だちもまだ作れずにいただけで、逃げてきた空とは全然違っていたのだが。それでも空は彼女となら、と思ってしまったのだ。
決して美人ではない、けれど落ち着いた、雰囲気のある女の子。その印象は間もなくしてひっくり返される事になったのだが。その頃にはもう、空はすっかり夢中で、みね子と過ごす時間が楽しくて、嬉しくて。
その彼女が若宮学園を受けると言ったから。
それまでは公立の、それなりの進学校に進学するつもりでいたし、一度失敗した学校にもう一度リベンジなんて、かつての空では考えられなかったが。そのときの空にとってみね子は唯一つの心の拠り所で、そうまでして同じ学校に、同じ時間を過ごしたいと思った初めての女の子だった。
幸い、恋に浮かれていながらも成績だけは落とさずに頑張っていたお陰で、担任にも再び太鼓判を押されて、エスカレーターで上がった純が同じ高校にいる事は少し嫌だったけど願書を出して、雪の降る寒いあの日、・・・再び失敗した。
そのお陰で、もともと希望していた公立の進学校に進学した今に後悔はしていないけれど、時々思い出す、時々首をもたげる。
もしも・・・何度、その言葉を繰り返したろう。もしも、同じ学校に受かっていたら。もしも、今も友達のままでいられたら。もしも、空が何も言わないでいたら。もしも、あの雪の降る寒い日を無かった事に出来るのなら。
もしも、は過去になってしまった未来。過ぎてしまった事はどんなに後悔しても変えられない。それでも・・・
それでも忘れられない、大切な思い出。思い出しても傷付くだけなのに、それでも思い出す、何度でも、繰り返す。
あの、雪の降る寒い日。重さもなく降りてくる雪を、飽きもせず二人で眺めていた。身を切るような、年の瀬の押し迫った頃のこと。
入試を間近に控えた受験生にはキリストの誕生を祝う余裕すらなく、勉学に励むしか許されていなかった。だからいつもと変わらず夜遅くに進学塾から解放された生徒たちは、課題をこなす為に急いで帰らなくてはいけないのだが。
「渡したい物があるんだ」
そう言うと、帰り支度を急いでいるみね子は一瞬手を止めて、不思議そうに首を傾げて空を覗き込む。
「いいけど、どうかしたの顔まっ赤よ」
さらに、心配そうな顔で手を、空の頬に近づけようとするものだから空は思わずその手を掴み、ますます体が熱くなるのを感じて、隠すようにうつむいて、みね子の顔も見れない。
うつむいて、みね子の手を引っ張る。はじめはためらうように、わずかに抵抗した感じだったが、あきらめてくれたのか今は何も聞かずに付いて来てくれる。あたたかい、みね子の手。反対の手には徹夜で作ったケーキを下げて遠くへ、誰にも邪魔されない、静かな所へ。
塾は駅の目の前にあって、駅を挟んで反対側には広い公園があることは知っていた。そこに目星をつけて、こんなクリスマスイブの夜だ、誰も居ないだろうと思っていたのに。空の予想に反して公園のベンチは、大人の恋人たちで埋まっていて、かといって他に思い付く場所もなくて。結局、子どもの空たちはあいている、植え込みの淵にでも座るしかなかった。
公園の中は橙色の薄ぼんやりとした明かりが所々にあるだけで見通しはお世辞にもいいとは言えないが、みね子の顔を確認するのには十分な明るさ。押し黙ったまま、何も言えないまま。隣に座っている気配だけが、ずっとつないだままの手から伝わってくる熱だけが世界の全てだった。
どのくらい経っただろう、その世界にふわり、と重さの無い物が空の鼻先に触れて、溶けた。見上げると、重たそうな鉛色の雲からふわふわと、真っ白い雪が降りてくる所だった。
その日はいつにも増して冷たい風が身を切り、本当は凍えそうなくらい寒い筈だったのに。飽きもせず二人で、降りてくる雪を眺めていると不思議と、寒さは苦にならなかった。
「みねちゃん、これ・・・チーズケーキなんだけど、受け取って欲しい」
ようやく外気に触れた空の言葉にみね子はわずかに、ほんのわずかに眉根を寄せた。
それだけだった、それだけで十分で、それ以上は・・・どうか言わないで。
空はみね子に喜んで欲しくて、ケーキを作ってきた。その前からも時々、作ってはいたけれど、一度も渡した事は無くて、初めて贈るケーキはこの時と決めていた。みね子も時々、空に催促して、期待してもいいと思いあがっていた・・・
ちらと、目をやるとみね子が、どうしたらいいのか困っている。困らせるつもりなんか全然なかったのに、喜ばせたかっただけなのに。
「ごめん、変な事言って。・・・でもさ、せっかく作ったんだし、人助けと思って受け取るだけ。もう、困らせるような事はしないから・・・」
うつむいたまま、みね子の顔も見れない。それでも気配で伝わって来る、困っている、悩んでいる。だからせめて、無理にも明るく見せようと上げた顔は頬の辺りが引きつって、本当は今にも泣き出しそう。
手を離すと、途端に冷気が空を一人にさせる。何と言ったらいいか、なおも思いあぐねているみね子に、半ば強引に箱を押し付けてもう一度、ごめん、と叫ぶように。何処をどう走ったのか、気が付いたら自宅の玄関に立ち尽くして、純が気が付かなければずっとそこにいたかもしれない。空は純にすがってただ、泣いていた。
「あの時、純に抱きついてワンワン泣いたことだけは失敗だったな」
「え、なに?」
びっくりして、目を向けるとアンナが、いつからそこに居たのか嬉しそうに、空を見上げている。
「もう!空くんったら全然口聞いてくれないんだから」
「ご、ゴメンナサイ先パイ!でも、いつから?」
「信じられない!今日は特製プリンを空くん家で食べさせてくれるって約束したじゃない、それなのにボーっとしてさ、勝手に帰っちゃうし。追っかけるの大変だったんだよ」
思い出した。
そう言えば、そんな約束をしていたのだ。一度、カスタードの鉄人に意見を聞こうと思って、自分から誘っておいて、もう自宅は目前。長い道のりも、いろいろ聞きたい秘伝の技もあったのに・・・アンナを見ると頬をリスのように膨らませて、そっぽを向いてしまっている。
「ご、ごめんなさい!本っ当に・・・何て言ったらいいか。ちょっと、考え事をしていて、それで」
「うふふ、いいよ、ゆるしてあげまぁす。でも、嬉しいな、空くんが私を誘ってくれて」
え、と顔を見ると照れたように頬を染めて、腕を絡めてくる。
「あの先パイ、困ります、こういうの」
「二人きりの時は名前で呼んでもいいのよ。あ、降って来たかな」
アンナが見上げたのに倣って空も見上げると、ぱた、としずくが鼻先にぶつかる。
「ね、空くんの家までまだ遠い?」
「いえ、もうこの角を曲がった所・・・」
足が止まる。
家の玄関にはちょとした門があって、路地には行き交う人の姿も無いがそこに、彼女はいた。門扉をにらむように見上げて、うつむいて、考えている。
彼女だ!
ためらったのは一瞬だけ、もう空は小さく震える子どもではないのだから。足は再びアスファルトを蹴り、はやる鼓動が追い立てるように早足に、けれどもう目前と言うところでやっぱり、ためらう。
懐かしい後姿、髪が随分伸びた。身長も、こんなに小さかっただろうか?
過去になってしまった未来、過ぎてしまった事はどんなに後悔しても変えられない。そう思っていた。それでも・・・
それでも、もう一度やり直せる事はあるだろうか。ほら、今まさに
君は振り向こうとしている・・・
了