第13章 北方平定 フレーディア篇
フレーディア市
フレーディアは既に冬が過ぎ、街路に整然と植えられた木々からは若葉が芽吹き始めていた。
タルペイウスの計画は順調に進み、第22軍団とアダマンティウスの協力もあって予定より早く都市整備が進んでいる。
かつて汚泥に満ちていた街路は大理石の路面にセメントで固められた側溝、汚水は目にこそ入らないが、道路の下に穿たれた下水道によってすっかり排水されており、子供達は頑丈な革の靴やサンダルに足を包んで平坦な石の街路を駆け回っていた。
イネオン川上流から水車動力のポンプで汲み上げられた水は、水道橋を伝ってフレーディアの市街へと導入されている。
まだ少し冬の匂いを残している清水が軽やかな音を立てて石造りの水道を流れ下り、フレーディアの各家庭を潤していた。
今やフレーディアの水は煮沸することなく、自由に幾らでも呑むことが出来るのだ。
水汲みの必要がなくなり女子供は重労働から解放され、汚染された井戸水を使わなくなったことで衛生状態も随分と改善されていた。
洗濯や調理、洗髪に洗顔などを毎日自由に行えるようになり、日常生活も随分と文明的になっている。
導入された水は、フレーディア市の北にタルペイウスの肝いりで建設された公衆浴場へも導入されており、豊富に採掘され始めた石炭を処理して造られたコークスを使用して沸かされた湯はフレーディア市民の心を蕩かした。
石炭鉱山にはペトラの紹介で石炭鉱山専門の精霊付き採鉱師が入り、石炭の処理を行っているので、そのまま燃やせば有害な煙を発生させてしまう石炭を処理し、使用し易く火力の強いコークスへと転換させることが可能となったのだ。
タルペイウスは下水にも工夫を凝らし、エレール川へ直接排水するのでは無く、フレーディア郊外に汚水貯水槽を建設し、汚物の沈殿と布や砕石、砂を使用した濾過を繰り返し行い、ある程度汚水を浄化してから排水する設備を整えた。
沈殿した汚物の回収や濾過に使用した物品の手入れと交換、定期的な清掃が必要とされたが、それでも処理しない下水が下流域に与える悪影響を考えれば、効果的で効率的な処分方法であろう。
またそうして処理が為された水は農地へと導入され、最終処分されるのである。
シレンティウムと同様に採鉱師の精霊を利用して汚物処理をする方法も検討されたが、採鉱師達の拒絶にあい、またタルペイウスが都市技術の粋を試したいと主張してこの汚水処理方式が採用されたのであった。
加えて、タルペイウスはスイリウスやコロニア・フェッルム市長のペトラと協力して軌道馬車を考案し、鉱物等の重量物資の陸上輸送に利用しようとしていた。
固い岩石で造った街道脇の別道路へ車輪の幅員に合わせた溝を切って軌道を造り、その上を多頭曳きの連結馬車を走らせるのである。
当初はスイリウスにより水車動力による牽引方式や拗り発条による動力式が考案されたが、水車動力による牽引や拗り発条では力が弱く、また綱等の材質の強度や長さに無理があり断念した。
代わって既存の動力源と言うことで馬に落ち着いたのである。
いずれは人を運ぶことも考慮はされているが、今のところ安全性を鑑み、少々乱暴な取り扱いをしても差し支えない鉱物や穀物などの物資輸送に限って使用することが決まっていた。
フレーディア市、テルマエ・フレディエ
公衆浴場であるテルマエ・フレディエは今日も満員であるが、万事大きめに造られた浴場は広大でまだまだ余裕がある。
帝国やシレンティウムの総大理石造りとは、また趣が異なるテルマエ・フレディエ。
フレーディア周辺で採れる少し青みがかった石が透明な湯に映え、温かい湯に浸かっているにも関わらず、川や海の水に浸かっているような不思議な感覚をもたらすのだ。
しかし、アダマンティウスやベルガンと一緒にやって来たハルはその趣ある光景とは相反する浴場内の様子に目を丸くした。
「う~ん、無秩序……?」
「……どうも我々は水場を見ると遊び心に火が付くようでして…どうしてもこうなってしまうのです」
「うむ、これはゆっくり疲れを癒やすと言うよりも、どちらかと言えば遊びに来ておるのだな」
ベルガンが少し申し訳なさそうに言い、アダマンティウスが少し困ったような顔で言葉を発した。
ハル達がテルマエ・フレディエで目にした光景は、およそ帝国やシレンティウムの公衆浴場では考えられないものであったのだ。
大声で騒ぎ、駆け回るクリフォナムの子供達。
浴槽でよりによって競泳に興じている者達。
洗い場で木桶を太鼓代わりにして歌を歌い、大騒ぎしている様子。
浴槽の縁を使って服を洗濯している者。
身体を洗わず、浴槽へ飛び込んでいる者。
服や装飾品を身に付けたまま浴槽に浸かっている者。
浴場において、あってはならないありとあらゆる悪徳がそこでは行われていたのだ。
「……改善する必要がありますね」
第22軍団の兵士達だろうか、申し訳なさそうに浴場の隅で静かに湯へ浸かっている帝国兵達を見て、いたたまれないような顔で言うハル。
行儀良く浴槽に浸かり、洗い場で身体を洗っている者達も居るが、見ればいずれも帝国兵であったり北方軍団兵であったりするばかりで、ついにハル達は“行儀良く”公衆浴場を使用している市民を見つけることが出来なかったのである。
「公衆浴場の使用方法について周知していたはずなのですが…申し訳ありません」
「ううむ、これは酷い、何とかせねば…」
再びベルガンの謝罪とアダマンティウスのうなり声が耳へと入ったハルは、ふと嫌な気配を感じて後ろを振り返った。
そこでは史上最悪の事態が進行中であった。
「……っ!こらああああああっ!!!」
突然の怒声に驚いて振り返ったアダマンティウスとベルガンを置いて、ハルは素っ裸のままその史上最悪の悪事を働いている数名がいる場所へと駆けつける。
そして額に青筋を浮かべ、手にした木桶をクリフォナム人のでかい尻へと次々に叩き付けた。
すぱぱぱああん
「うー!?」
うめき声と同時に止まる水音。
いきなり尻を思い切り叩かれ、側溝へ立ち小便をかましていたクリフォナムの若者達が目を白黒させている。
年齢は15歳から18歳くらいといったところだろうか。
それでも背丈はハルを優に越している。
若者達は驚き振り返るが、そこに木桶を構えて立っているハルを見て直ぐにその表情が侮りと怒りへと変わった。
「な、何すんだこのちびっ!」
「止まっちまっただろ!」
4人の若者達は、あんまりない凄みを目一杯利かせてハルを囲むが、ハルは動じることなく若者達へ説教を始める。
「公衆浴場は便所じゃあないんだぞ!」
「うるせえ!」
「どこでしようがかってだろ!」
「したくなったんだからしょうがないじゃないかっ」
「うせろちび!」
ハルの注意に耳を貸すことなく即座に言い返す若者達。
周囲のクリフォナム人達も騒ぎを聞付け、興味津々とばかりに覗き見ている。
やっぱり他人の喧嘩は面白い。
それまでの喧噪はどこへやら、たちまち浴場内の目がハルと4人の若者達へと向かった。
一方アダマンティウスは腕組みをしてニヤニヤと笑みを浮かべ、事の成り行きを見守る姿勢であり、ベルガンは額に手を当ててため息をついてはいるが、仲裁へ入る様子はない。
「浴場ではまず身体を洗い、その後静かに湯へ漬かって疲れを癒やすんだ!ここは遊技場でもなければ遊泳場でもない、ましてや便所では……だ・ん・じ・てっ・ないっ!」
青筋を浮かべたハルの言葉にクリフォナムの族民達は呆気に取られ、口をぽかんと開いた。
なぜ、この帝国人は怒り狂っているのだろうか?
公衆浴場での立ち居振る舞いに問題があると文句を言っていることは分かった。
確かに使用において守るべき事柄を教示されたが、しかし湯で遊ぼうが何をしようが、それこそ我々の勝手だろう。
まあ……小便はやり過ぎかもしれないが……
お互い顔を見合わせ、怪訝そうな表情を浮かべるクリフォナムの族民達に対し、浴槽で静かに湯へ漬かっていた帝国兵や北方軍団兵達だけが、ハルの怒声にうんうんと頷きながら拳を小さく握りしめている。
「2度同じ事は言わない、行儀よく利用しろ!」
「う、うるせえっ」
ハルにずいっと迫られ、思いがけない威圧感に後ずさりながらも虚勢を張る若者達は、それだけを何とか言い返す。
周囲の目もあり、退くに退けなくなった事もあるだろう。
「……行儀良くするか?」
更に迫るハル。
側溝を越えた壁際まで追い詰められた若者達。
遂にその中の1人が緊張の限界を超えてしまった。
「う、うわあっ!」
ハルへ思い切り殴りかかるが、こぶしをかわされてひょいと軽く背負われ、大理石の床面へと投げつけられた。
泥を石壁に叩き付けた時のような音と共に背中から床に叩き付けられて息が詰まって動けなくなる若者。
うんうん呻いているとハルに足でごろりと俯せにされ、その上に次いで殴りかかった2人目の若者が同じようにハルに投げられ、重ねられる。
更に躍りかかった3人目も足を掬われて尻餅をつき、涙目で唇をかみしめ、ハルの首を絞めようと掴み掛かった4人目の若者は手首の関節を極められて引き摺り倒された。
そして……
ぱあん うっ
ぱあん あっ
ぱあん はっ
ぱあん ぎっ
高らかに鳴り響く平手打ちの音とくぐもったうめき声。
ハルの素晴らしく手首の利いた平手打ちが若者達の左尻へと炸裂したのだ。
周囲にいたクリフォナムの族民達も、痛そうな顔でその光景を眺めていた。
「…言うことを聞かない悪い子供にはお仕置きだ」
冷たく言い放つハル。
その言葉に風呂で暴れていたクリフォナムの族民達は慌てて浴槽から上がり、服を脱ぎ、洗濯を止め、一生懸命身体を洗うのであった。
真っ赤に残る平手の跡を尻に付けたそのままに、若者達は這々の体で浴場から逃げだそうとしたが、敢え無くハルに捕まってしまう。
「な、なんだよっ、もういいだろっ!?」
「とにかく身体を洗え、それから一緒に来るんだ」
「えっ?」
驚く若者達にハルは笑みを浮かべると自分も身体を洗い始めた。
水滴の垂れる音だけが響くテルマエ・フレディエ。
先程までの無秩序状態が嘘のように静謐な空間がそこには広がっていた。
ハルとアダマンティウス、ベルガンが湯に浸かっている側には、先程の若者達が神妙な様子で湯に浸かっている。
「どうだ?」
目をつぶったハルが問い掛けると、とろけた声が返ってきた。
「はひ…」
「すごい……」
「良い気持ちです」
「はあ~」
尻をさすりつつも、すっかりくつろぐ若者達。
「これからはこういう使い方をするんだぞ」
「「「「~分かりました~」」」」
ハルの言葉にとろけた答えが返ってきた。
フレーディアに風呂が根付くのも時間の問題である。