第6章 都市増強 シレンティウム籠城戦(その9)
シレンティウム南西、湿地帯入口、狼煙直後
蚊や蛭といった毒虫や、水生の魔獣がうようよするシレンティウム南西の湿地帯は、長年人の手が入らない魔境であったが、ここ数ヶ月で大きくその様相を変えられようとしている。
湿地の水を逃がさなかった強固な地盤の丘は、帝国の技術によって溝を穿たれた。
現在は水を制する堰が作られ、湿地の膨大な量の水をせき止めている。
本来であれば、水路が整備された後に行われる堰作りであるが、これは急遽この戦いに間に合わせるべく作られた物。
しかし堰は今意図的に草木で覆われ全容を隠されており、傍目には堰の所在は分からない。
たまにこの辺りへ巡回してくるフリード戦士はいるものの、注意自体はシレンティウムへ向いているせいか、堰の存在に気付いた者はいないようだ。
水路は未だ未完成。
本来南側を大きく迂回してから北へと向かうはずの水路は途中からシレンティウムの南城門付近へ向かい途中で切れてしまっていた。
水路自体もきっちりとした溝を掘り込んだ物では無く、なだらかな窪みといった風情で、一見して水路とは分からないように調整されている。
その草木で偽装された堰へ、テオネルらオラン人の農民戦士と帝国兵元ボレウス隊の副官である、クイントゥス率いる帝国兵の混成部隊が静かににじり寄った。
テオネルとクイントゥス達は籠城戦前、密かにシレンティウムの外へ出て、南側の湿地に程近い灌木の茂みに身を潜めていたのである。
数刻前にシレンティウムから狼煙で合図があった。
速やかに堰を切らなければならない。
しかし堰はただ土を盛ったオランやクリフォナムの物と異なり、丸太や木材、石材を組み合わせた帝国風の複雑な作りで、テオネルには仕組みがさっぱり理解できない。
「・・・何処を叩けば良いんだ?」
堰へ到着したテオネルは、木槌を持ったまま途方に暮れ、傍らに従うクイントゥスに尋ねた。
「・・・その目釘と、向こう側の目釘の2本を同時に折れば良い。そうすれば水の重みを支えきれなくなって堰は自壊するから。」
同じような木槌を手にしているクイントゥスは、杭のような木製の目釘を示しながら緊張感をにじみ出させた小さな声で答えた。
「よし、分かった。」
「静かにやってくれよ?敵は近くにいるんだからな。」
「分かってるっ」
クイントゥスの忠告を小うるさく感じたテオネルは、そう言うと手前の目釘に向かう。
クイントゥス率いる帝国兵達は、対岸の方へと回るようだ。
「良いか、同時に壊すぞ!それっ!」
クイントゥスの号令で、オラン人農民戦士と帝国兵が息を合わせて木槌を振りかぶった。
堰解放後、シレンティウム東城門
『ハルよ、傷は大丈夫か?』
「ええ、左手で無理はしばらく出来ませんが・・・剣を振うには右手があれば十分です。」
血のにじむ包帯の上から更にガッチリと固い布で傷口を覆いながら、ハルはアルトリウスの問い掛けに答えた。
アルフォードとの一騎打ちの後も戦闘を止めないダンフォードとシレンティウムの間では未だに激しい弓矢の応酬が続いている。
一度は退けたが再びフリード戦士達は大木を用意し始めており、予断は許さない状態であったが、今までとは異なりハルは東の城門から打って出る準備をしていた。
ここでダンフォードに打撃を与え、フリードの戦士にアルフォードの真実の後継者が誰であるかを知らしめておかなければならないと考えたのである。
「いけません、治癒的な観点からもハルはしばらく安静にして下さい。」
太陽神殿に運ばれるアルフォードの遺体を見送ったエルレイシアが、涙でぬらした頬を拭いながら気丈にもそう言いながら近寄ってきた。
しかし、その心からの忠告にもハルは首を左右に振らざるを得ない。
「最後の仕上げが間もなくです。ここでじっとしている訳にはいきません。」
「・・・」
無言でハルを睨むエルレイシア。
気まずそうに、しかしそれでも視線をそらさず、ハルはエルレイシアを見つめ返す。
「・・・仕方ありません、か。」
「はい、こればかりは。」
ハルにそう言われ、根負けしたエルレイシアがため息と共に、言葉を吐き出す。
「でも、指揮を執るだけにして下さい。いくら利手で無いといっても、その腕で直接戦いに身を投じるのは危険です。」
「・・・それは・・・分かりました。」
無理だと言いかかったハルだったが、エルレイシアの涙目に再び睨み据えられて断念する。
幸いにもアルキアンドやレイシンク、ベリウスにルキウスが担当していた城壁の戦士や兵士達を率いて集合してきた。
この面々がいれば、前線の指揮は任せる事が出来るだろう。
「水かさが増えてきました!間もなく堀の盛り土を越えます!」
南東の城壁に置いていた見張りの兵から報告が入った。
「・・・出撃準備!」
ハルの号令に、集結した戦士や兵士達が東の城門に向かって整列し始めた。
シレンティウム北の台地
「・・・何だ?」
異変に気付いたベルガンがつぶやく。
水面が堀端に近づいているのだろうか、堀の水面が揺らめいている。
「・・・ベルガンどの、水が・・・溢れだしています!」
戦士長が示す方向を見ると、南側の堀の一部と北側の堀の一部から水が溢れだしていた。
「これは、策か?一体どのようにして・・・」
驚愕に目を見張るベルガンの前で、水はどんどん流れ出していった。
異変に気付くより少し前、降伏すべく軍使を立てようと、ベルガンは配下の戦士達を率いて自陣を引き払い、ダンフォードの本陣から北へ離れた。
ベルガンに従う戦士長達も、それぞれ戦士達を纏めて戦場を離れ始め、その数は実に3000に達した。
シレンティウムを包囲している為、まだ事の次第を知らない者もいるだろうが、残りの戦士長達はダンフォードに従ったようである。
東の城門付近では相変らず激しい弓矢の打ち合いが続いていた。
戦場から離脱した者達の内で、主立った戦士長を集め合議した結果、軍使にはベルガンが起つ事となったのであるが、その出発直前に戦場の異変が起こった。
シレンティウムの堀から溢れだした水は、低い土地を流れ始める。
次第に水かさが多くなり、まるで2本の幅の広い川が出現したようになった。
「本陣が分離されてしまったな・・・」
北と南から溢れた水はゆっくり全体的に低くなっている東の方角へと流れ始めており、フリードの軍の本陣が置かれている付近だけが水に囲まれて孤立している。
水深はそれ程でも無いが、幅が広く、移動に手こずる事は間違いない。
「・・・」
ベルガンが無言で見守る前で、シレンティウムの東の城門がゆっくりと開かれた。
溢水後、シレンティウム東城門
『一部の戦士達が北へ移動したようだな、恐らく離反したのだろう。』
アルトリウスの声にハルは頷いた。
これで東の城門正面に陣取るフリード戦士達は随分と少なくなった。
シレンティウムの南北と西を包囲をしている戦士達は、溢水で足止めをしてあるから、異変に気付いて応援に駆けつけたとしても時間が掛かるだろう。
その隙に本陣を打ち破ってしまえば良い。
「用意は良いか?」
ハルの問い掛けに、左翼のアルキアンドとレイシンク、右翼のベリウスが手を上げて応じ、正面のルキウスが振り向きつつ頷いて答えた。
ハルは右手の王冠をしばらく眺めていたが、何かを決心したように一つ頷くと、徐に自分の頭へと載せた。
大きく豪奢な王冠は、ハルが装備している帝国製の兜の上にぴたりと嵌まる。
「・・・ハル」
感慨深げに声を漏らし、王冠を装備したハルを見るエルレイシアに続いて、クリフォナムの戦士達もじっと注目する。
『よく似合っているではないか。』
アルトリウスの言葉に、ハルは少し照れを含んだ苦笑いを浮かべて応えた。
「この戦いは、謂わばアルフォード王の敵討ちですから。相手がその息子というのがやるせないですが・・・」
『それは左程気にする事ではあるまい・・・ふふん、しかし過去の英雄と英雄王2人分の敵討ちとは、豪勢なものだ。』
アルトリウスの言葉で帝国兵が一様に頷き、オランとクリフォナムの戦士達は何かを期待するような目でハルを見つめる。
ハルはダンフォードの構える東の城門に向き直り、決意に満ちた眼差しで口を開いた。
「今語る言葉はない!行動で示すのみ!城門を開け!」
城門に取り付いていた義勇兵が閂を外し、城門を力いっぱい引いた。
僅かにきしみ音を立てながら、城門が開かれ、その正面に驚くフリード戦士達の姿が見える。
「突撃!!!」
ハルの号令で、シレンティウムの戦士と兵士は、わっと城門から一気に正面に陣取るフリード軍の本陣へと突き進んだ。
最初に飛び出した帝国兵がフリードの弓戦士達が慌てて撃ってくる弓矢に怯まず、一気に距離を詰めると盾を並べた。
その後方に付いた弩を装備した帝国の弓兵が、盾の間から一斉に矢を放った。
強力な弩に撃たれて戦列を乱し、狼狽えるフリードの弓戦士に、更に後方からレイシンクとベリウスに率いられたアルマールやシオネウスの戦士達が剣を燦めかせて突っ込み、たちまち弓戦士の応援に駆けつけたフリードの剣士との間に乱戦が始まる。
戦況を眺めていたハルがふと自分に寄り添う人影に気付いて左を見た。
「って!?エルレイシア!」
「私も一途で律儀なフリードの族の女です。戦場で夫の後を守るのが妻の勤め、私は勤めを果たします。」
ハルが進む少し後から神官杖を抱え、いつの間に準備したのか、帝国式の鎧兜を長衣の上に身に着けたエルレイシアの姿があった。
「・・・フリード族ですか?」
「そうです、私の父はフリード族ですので。」
にっこりと微笑みながらハルの問いに答えるエルレイシア。
既に城門から出てしまったハルの周りは戦士や兵士で満ちており、フリード軍から矢も飛んでくる状態では、引き返す方が危険である。
ハルは仕方なしに刀を収め、背負っていた大楯を右手にエルレイシアの前へと移動する。
「分かりました・・・あまり前に出ないようにして下さい!」
「はいっ」
嬉しそうなエルレイシアの返事に頷くと、ハルは周囲を確認しつつ前進を命じた。
「抜剣!・・・前進っ!!」
しばらくして互いに疲れの見え始めた剣士達。
そこへ大楯を構えた帝国兵がハルの指揮で前進してきた。
力一杯戦っていたアルマールの剣士達は素早く退いたが、フリードの剣士達はそうは行かず、疲労の極致にありながら再び戦いに引きずり込まれてしまう。
粘り強く防御の固い帝国兵の攻撃と前進に次々と討ち取られてゆくフリードの剣士達。
既にアルマールの剣士達と激しく戦った後だけに体力が続かないのだ。
おまけに、この本陣だけを見れば、シレンティウム側の方が戦士や兵士が多く感じられる。
堀から溢れた水に驚いている周囲の味方戦士達は救援に来るどころでは無いのだろう。
「・・・くそ、このままでは・・・」
ダンフォードも劣勢に陥った自軍を見て、不利を悟った。
今更であるが、策はどうやら失敗してしまったようで、シレンティウムへ潜入させた間諜からは何の連絡も無い。
しかも、太陽神官の言づては完全に嘘報である事が分かった。
突出してきた軍の指揮を執る辺境護民官の後に付き従うその姿を見れば否が応も無い。
おまけに辺境護民官の頭には、アルフォードの王冠が輝いており、それに気付いた戦士や戦士長達は激しく動揺している。
王自らの意思で無ければ外れない王冠が辺境護民官の頭にあると言う事は、王が王冠を譲った事に他ならないのだ。
「・・・退却だ!貴様、敵を防ぎ止めろ!俺たちはこのままフレーディアへ戻る。」
戦士長の1人を指名し、ダンフォードはそう言い置き、アルフォードが残した黒い箱を大事そうに持って本陣を後にした。
指名された戦士長は、仕方なしに周囲の戦士達を指揮し、本陣に戦列を組ませたが、ダンフォードの言に戦意を失い、勢いに乗るシレンティウム軍と戦う気は最初から無かった。
「適当に防いだら降伏するか逃げるかするぞ。」
戦士長の投げ遣りな指示に、戦士達は投げ遣りに頷いた。
フリードの本陣を散々に打ち破ったハルは、付いてきてしまったエルレイシアを気遣いつつ、シレンティウムへと引き上げる。
既にダンフォードが逃げ去り、残っていたフリード戦士達も敗走している事は分かっていたが、北には離反したベルガン率いるフリード戦士達が居座っており、まだ油断は出来ない状況であった。
しかし、シレンティウムの包囲は解かれ、アルフォードを討たれたフリード軍本軍が敗走したのは事実。
辺境護民官ハル・アキルシウス率いるシレンティウム市は、アルフォード英雄王率いる北方最強の軍を破ったのだ。