第15章 帝国動乱 平和な日常篇
シレンティウム市、西農場
エルレイシアが双子を無事出産してから1週間が経った。
お祭り騒ぎもようやく下火になり、普段の生活を取り戻し始めたシレンティウム市内。
冬小麦の収穫と共に蒔かれた牧草も既に大きく育ち、刈入れ時を迎えている。
この刈入れが終われば直ぐに大麦の種まきだ。
そんな種まき準備に忙しく農民が動き回っているシレンティウムの西農場の広場で、ハルはルルスや農業庁の官吏達と共に1台の機械を目の前にしていた。
「これがオランから手に入れた刈り取り機です」
「へえ…ロバに押させるんですか」
ルルスが得意げにハルへと披露したのは、最近オラン人の地で普及し始めている刈り取り機で、その後ろには動力となるロバが繋がれていた。
刈り取り機は前面に鋭い鉄製の歯が幾つも取り付けられた4輪の荷車であり、その刃の高さが麦の穂の下あたりに調整されている。
そのまま人力や畜力で押すと、刃が麦の茎を刈り、穂が荷車の荷台へ落ちるという仕掛けで、今までのように人が大鎌で麦を刈り、その倒れた穂を拾い集めるより遙かに効率的に収穫が出来るのだ。
オラン人の農民が発明したこの機械は帝国にも伝わったが、大量の人を雇って大規模な農園を営む帝国の富裕農民達には受け入れられず、普及しなかった。
しかしルルスは小規模農家や、複数作物を栽培する農家にとって作業効率の向上になると考え、そういった農家の多いシレンティウムへこの機械を持ち込んだのである。
見本となる機械を数台オランから購入して持ち込んだ後、スイリウスと協力して改良や工夫を重ねてこの機械が完成したのだ。
「はい、大型の物になると牛に押させる型の物もありますが、少し工夫を凝らしまして、一番取り回しやすいロバに押させる物を用意しました。ここの刃と荷台の高さを変えることが出来るように、スイリウスさんにお願いして改造してもらいました。これで生育の度合いや作物の種類に関係なく一台で使い回しが可能です」
「それで、この機械は農民に貸与するんですか?」
「いえ、これは物自体が割合高価な事もありますが、欲しい方に購入して貰います。今まで通りでも刈入れに特段不自由はありませんので…ただ、官営農地を借りて商品作物を作りたい人や、農地を拡大したい人などの、農業に対して意欲のある人達に自主的に購入して貰いたいんです」
シレンティウムに入植した農民達は帝国から導入された最新式の四圃式農法を採用させられており、生産した麦類は一定量をシレンティウムが買い入れる制度になっている。
それ以外にもルルスが導入した商品作物の栽培に使用されている圃場を借りたりするなどして商品作物栽培を行い、金銭を稼ぐことも出来るようになっており、ルルスはそうした意欲ある農民達に、より効率の良い農法を取り入れて貰おうと考えたのである。
「うーん、それだったら、麦栽培を止めさせて商品用の、例えば亜麻などの作物を農民個人に作って貰えば良いのではないですか?」
「…そうですね、農民にとっては作物を自由に選定して栽培出来るのが一番良いとは思います。ただ、それですと栽培作物に偏りが出てしまいます。例えばよく売れる、高く売れる物ばかりが栽培されてしまい、食糧生産が滞るといった事が起こるんです。それに私が持ち込んだ亜麻などは7年程度の休耕が必要な強い連作障害がありますので、広い範囲で農地を回転させなければ効率が良くありません。ですから原則として農民の所有する農地での商品作物栽培は認めず、商品作物栽培用の圃場を行政府が管理しつつ農民達に貸し出すことにして、商品作物の栽培に偏りが出たり商品作物栽培に食糧生産が阻害される事を防ぐための措置を取る事にしたんです」
「…なるほど」
ハルが感心しつつ畑を見ると、あちこちでオラン人の農民達が鋤を馬や牛に曳かせて農場の耕起を行っては肥料を仕込んでいる様子が見えた。
掘り起こされた土と肥料の、湿った匂いがあちこちから届いてくる。
ルルスは目をつぶり、その匂いを胸一杯吸い込んだ後ゆっくり息を吐き出し、口を開く。
「いずれは農民達も色々考えるようになってくると思いますから、このような方策も必要なくなるかもしれません。しかしまだシレンティウムは草創期にあり、考えられる不都合は出来るだけ取り除いて安定した食糧供給をまず第一に考えなければいけませんので、差し当たって数年間はこの方式でやっていきたいと思います」
農業庁の官吏達が試験を行うべく刈り取り機とロバを連れて別の場所へ向かう一方、ハルとルルスは農地の中へと入る。
そこはルルスがシレンティウムから借り受けている試験農場で、様々な植物が栽培されていた。
ルルスがシレンティウムへ持ち込んだ主な作物は、亜麻、甜菜、蕎麦である。
その他に野菜類や薬草類も多々持ち込み、支給されたこの研究用農地で栽培をしていた。
今のところシレンティウムで実用化出来そうな作物は上記の3種であるが、それ以外の実用化可能な薬草は薬事院を司るアルスハレアに全て引き渡し、薬事院が現在は栽培を行っている。
亜麻は繊維を採取して布や糸を作り、実からは油を採取している他、スイリウスの研究成果によって北方紙の原料として今後の需要が見込まれていた。
また、砂糖原料になる甜菜は砂糖を絞ったあとの絞りかすや葉を家畜飼料とすることが出来るので、蕪と一緒に農民達にも栽培を奨励している。
蕎麦は収量において他の作物に劣るものの極めて栽培期間が短いことから、万が一の冷害や不作、飢饉の際の救荒作物としてルルスが一定量を備蓄し栽培を続けていた。
ただ、最近は蕎麦を使った料理が一部で作られて好評を博しており、元々荒れ地でも育つ頑丈な作物である事から、痩せ地の多いコロニア・フェッルムやコロニア・メリディエトなどの山間地で栽培が多くなっている。
「いやあ、しかし亜麻にあれほどの需要が見込めるとは思っていませんでした…連作障害が強いですし、油や布に使える有用な作物ではあるんですけれども…紙になるとは…」
ルルスは感慨深げに言いながら楕円長衣の懐から1輪の花を取り出した。
鮮やかな青色の花が、ルルスの白い楕円長衣を背景に映える。
「…それが亜麻の花ですね?」
ハルがおやっと言う顔をして尋ねる。
亜麻の栽培農地はシレンティウムから少し離れた北の台地の先で、いまいる場所から見ることは出来ない。
恐らく今頃は一面に同じ青色の花が咲き誇っていることだろう。
「そうです、こんな可憐な花を咲かす亜麻ですが…結構我が儘で…同じ場所で栽培し続けるのも一苦労です」
苦笑しつつ、ルルスはハルにその花を差し出した、亜麻の花の花言葉は感謝。
「これは私からと言うよりも…シレンティウムの農民達からの気持ちです」
笑顔で花を差し出すルルスに、ハルは僅かに怯む。
「…それは本当でしょうね?」
「……」
「…どうして黙るんですか?」
花を受け取りつつも、下を見て顔を赤くしているルルスから距離を取るハルであった。
数日後、シレンティウム市大通り
昼下がり、快晴のシレンティウム。
水道橋を流れる清らかな水音、白壁に映える街路樹の緑、瑞々しい草葉の香りと土の匂いをほのかに含む風が、元気な人の声が響く夏の大通りを吹き抜ける。
入植や、家屋の建築、街路の整備も一段落し、シレンティウムは正に繁栄の時を謳歌していた。
あちこちで物を売り買いする威勢の良い声が、知人とおしゃべりする賑やかな声が、家族連れの朗らかな声が、恋人同士の楽しげな声が、あらゆる場所から聞こえてくる。
その中を、白い貫頭衣に青い楕円長衣という、一際目立つ格好をした帝国人が楽しそうにあちこちを見ながら歩いていた。
「あ、こんにちはアルトリウスさん」
『おう』
「アルトリウスさん、どうも」
『うむ、大事ないか』
「しょうーぐんさま、きょうはうかばないの?」
『おお、そうだな、今は歩く方が楽しいのであるな』
「あ、神様、こりゃどうも」
『うむ、怪我はどうか?』
「お陰様で…」
道行く人達がその人物、都市の守護神となったアルトリウスに声を掛ける。
アルトリウスも一々頷いたり、声を掛けたりして答え、なかなか人気の様子。
死霊の時代から頻繁に出没しては、一方的に助言や手助けをして去って行くため、市民達の噂の的になっていたアルトリウスであったが、晴れて真っ当な存在となり昼日中から街を出歩くことが多くなっていた。
かつては按察官吏の街路樹担当に追い払われたこともあるが、今は他人や動植物の精気を触れた端から吸い取ってしまうことも無くなり、シレンティウム行政府からの公示でシレンティウムの守護聖人として認定されたこともあって、アルトリウスは身近な神様として急速に街へとけ込んでいったのである。
『人の営みとはかくも楽しきものであるか!いや、以前より知ってはおったのだが、そこに交じれる日が来るとは思いもよらなかったのである…うむ、実に良い!』
「先任…また抜け出したんですね?」
ハルは執務室に来て街での出来事を語って聞かせた後も居座ってあれこれと話すアルトリウスを呆れて見る。
『抜け出したとは人聞きが悪いのである!我は視察に出ただけである』
「仕事をしない悪い神様だと、叔母さまが愚痴っていましたよ?」
心外だと言わんばかりに腕を組んで言い返すアルトリウスに、双子をあやしながらエルレイシアが微笑みを浮かべて言った。
アルトリウスはハルとエルレイシアの双子に名前を付けたことがきっかけで神格化したため、都市の守護に加えて名付けの仕事を太陽神から授かっていた。
しかし、アルトリウスは市民や行政府から出された神殿建立の申し出を断っており、今は太陽神殿の大聖堂隅に置かれた祭壇がその祭事拠点である。
アルトリウス曰く『我はそんな偉いモノでは無い、我は皆と同じが良いのである…あ、でも墓所はちょっと奇麗にして貰えると助かるのである…』ということで、墓所は奇麗に整備され、常時蝋燭が点される事となった。
普段は用意された太陽神殿大聖堂の小さな祭壇で、連れて来られた赤ん坊に名前を見繕ってやるのを神としての仕事としているアルトリウス。
今までは神殿で名前を授かる者はそれ程多くは無かったが、最近は顕在している数少ない神、アルトリウスに名付けて貰おうとシレンティウムのみならず、クリフォナムやオランのあちこちから赤ん坊を連れて若い夫婦がやってくるようになった。
思いがけず忙しい仕事を果たさなければならなくなったアルトリウスは、疲れたと称して度々神殿を抜け出し、大神官代理のアルスハレアに連れ戻されているのだ。
ペンを止め、エルレイシアからちびっ子アルトリウスを抱き取ったハルに苦笑を向けられ、神様のアルトリウスが顔を歪める。
『う、うむ…いや、しかし市井の人々と交わってこその守護神であろう?であるからして我は積極的に外へ出てだな…』
「また、ここでサボっていましたね…」
アルトリウスの言葉が終わらないうちに、アルスハレアの声が重なった。
『うぬっ、しまった、長居したのであるっ』
「好い加減戻りなさい、4組ほど夫婦が待っているわ」
『ううむ、仕方ない…子供は子供で可愛いのであるしな…よしよし』
アルスハレアのトゲある声に渋々腰を上げ、歩み寄る途中、アルトリウスは満面の笑顔でハルの息子と娘の頭を優しく撫でる。
その様子にアルスハレアが焦れて再度声を掛けた。
「…孫を可愛がるのは後になさい、私だって我慢しているのよ」
『…う、うむ、では行くか…』
アルスハレアの言葉に気圧され、名残惜しそうにハルの執務室を去るアルトリウスであった。