第五話 騎士と姫
島の南側にある宿には、いろいろな人がやって来る。
海を見に来る人もいれば、休みに来る人もいる。
そして、ときどき——
自分でも気づかないまま、心の整理をしに来る人もいる。
三毛まかせ亭は大きな宿ではない。
海の前にぽつんと建つ、二階建ての小さな宿だ。
客間はすべて二階に七部屋。
南に大きな窓を持つ特別な一室をのぞけば、
風呂もお手洗いもみな共用。
食事は一階の食堂で、宿の夫婦と、そして猫たちと一緒にとる。
館内の扉には猫用の小さな出入り口がついていて、
三毛猫の姉妹——キールとキティは、
客間にも廊下にも、気ままに出入りする。
臆病で高飛車な姉のキールは、
触らせる相手を自分で選ぶ。
無邪気で人懐っこい妹のキティは、
誰にでもころんと腹を見せる。
そして大将は、客の心に合った酒を出す。
慰めるときも、励ますときも、
たしなめるときでさえも、言葉は少ない。
代わりに、酒が語る。
この日、島にやって来たのは、
二人の女性だった。
明るく笑う美しい女性と、
その隣で同じように笑う、中性的な雰囲気の女性。
二人は長い友達だ。
長いあいだ、隣に立ってきた。
けれど、
人の心はときどき、
触れてはいけない距離に立つことがある。
それでも一緒に笑うことを選んだ夜。
瀬戸内の午後の光は、やわらかい。
南側の浜に面した三毛まかせ亭の白い壁を、潮風が静かに撫でていた。
波は低く、空は高い。島の時間は、どこかゆっくりと流れている。
その日、玄関の引き戸が開いたとき、
キティは廊下でころんと転がりながら顔を上げた。
「お客さんだ」
先に入ってきたのは、背の高い女性だった。
短く整えられた髪。
すっと伸びた背筋。
肩幅は少し広く、動きが軽い。
歩き方に迷いがない。
中性的な雰囲気。
歌劇役者のトップスターと言っても過言ではない容姿だった。
その後ろから、もう一人。
長い髪の、しっとりとした美人だった。
やわらかな顔立ちだが、笑うと目尻がきりっとする。
運動のあとだろうか。
白い頬には汗が光り、熱が残っているように赤い。
「こんにちは」
「予約している者です」
女将が微笑む。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
二人は大きなスポーツバッグを抱えていた。
「大きなお荷物ですね、重かったでしょう」
女将は二人からバッグを預かり、後ろにいる仏頂面の大将に渡す。
「何かスポーツでもされてるんですか?」
女将がにこやかに問う。
「県の社会人バレーの大会で来てて」
中性的な女性が言う。
「私たちのチーム、優勝したんですよ」
少し照れたように笑う。
「帰るだけじゃもったいないから、島に泊まろうって」
女将の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「それはおめでとうございます」
中性的な女性は、美しい女性に手を差し出した。
玄関から廊下へ、そっとエスコートする。
まるで舞台のひと場面を見ているようだった。
キティはいつのまにか二人の足元にいて、目を丸くしている。
「お姫様と王子様みたいだね」
「……どっちかと言えば、お姫様と騎士かな」
キティは、なんで、というように首をかしげる。
「わー、猫!」
お姫様がしゃがむ。
キティは迷わず腹を見せて転がった。
ごろごろと喉を鳴らす。
「人懐っこいですね」
「妹のほうは、誰でも歓迎です」
女将が笑う。
少し離れた廊下の影で、キールは座っていた。
静かな目で二人を見ている。
腹を見せながら、キティが小声で言う。
「ねえお姉ちゃん」
「うん」
「この匂い、知ってる」
キールは尻尾をゆっくり巻いた。
「……ああ」
「前に来た人たち」
キティは思い出す。
「コイビトって言った人」
キールは小さく頷く。
「似ている」
「でも、違うね」
「うん」
キールの視線は、騎士のほうに向いていた。
触らせるかどうかは、まだ決めない。
お姫様がキールに手を伸ばす。
キールは静かに身を引いた。
「あ、逃げられた」
「姉は、気まぐれで」
女将は穏やかに言う。
「触らせてもらえそうにないな、私も」
騎士の瞳に、ほんの少し影が差す。
女将はそれを見逃さない。
そして静かに言う。
「南のお部屋をご用意しますね」
⸻
南のスイートは、この宿でいちばん海が近い。
窓いっぱいに瀬戸内海が広がる。
遠くに見える島が、空と海のあわいに浮いているようだった。
夏以外はほとんど人のいない浜。
まるで世界に二人だけしかいないかのような場所。
テラスに出ると、白い浜がまっすぐ下に見える。
「わあ」
お姫様が声を上げる。
「すごい景色だ」
騎士も笑う。
「優勝よりご褒美じゃない?」
二人はテラスに立つ。
潮風が髪を揺らす。
長い髪が夕陽に透ける。
もう一人は、それを目の端で眩しそうに見ていた。
「うん、ご褒美だ」
夕陽の光が海に落ち、
無数の金の破片のように揺れている。
キティはもうベッドの上で丸くなっていた。
その隣でキールが海を見ている。
キティが言う。
「ねえお姉ちゃん」
「なに」
「この人たち、ちょっと似てるけど」
「けど?」
「あの人たちみたいに、まっすぐ並んでない」
キールは目を細める。
「……そうね」
二人の距離は近い。
けれど、見えない線がある。
猫には、それがよく見える。
⸻
夜。
食堂には二人の客だけだった。
窓の外には夜の海。
遠くで船の灯りが揺れる。
女将は料理を並べ、大将は黙って酒の準備をしていた。
この宿では、客と必ず一度は乾杯する。
それが決まりだ。
「うちは、客と一度は乾杯する」
大将はぶっきらぼうに言うが、その瞳の奥はどこか温かい。
最初の酒は、淡い黄金色だった。
グラスに注がれると、檸檬の香りがふわりと立つ。
「今日の疲れをほどく酒だ」
大将が言う。
「この島の柑橘を使ったお酒なんですよ」
女将は自分のグラスにも酒を注ぎながら言った。
四人はグラスを合わせる。
「乾杯」
凛とした音が、食堂の空気を軽く震わせる。
お姫様と騎士はひと口含み、
ゆっくりと飲み込む。
爽やかな酸味が舌に触れ、
すぐに柔らかな甘みが広がる。
まるで体の奥に溜まった熱を、
静かにほどいていくような酒だった。
「……しみる」
お姫様が笑う。
「試合のあとに飲むには最高だ」
騎士も笑った。
体がゆるむと、
言葉も自然にほどけていく。
大将の口数は少し増え、
女将の酒は止まる気配を見せない。
いくらか食事が進んだところで、お姫様が言った。
「私、結婚するんだ」
その言葉が、夜の空気に静かに置かれる。
一瞬だけ、食堂の時間がゆるやかに止まる。
騎士は笑う。
「そっか」
「少し怖いけど」
「大丈夫」
「いい人なんだ」
「知ってる」
「長かったけど」
「うん」
「やっとここまでこれた」
「おめでとう」
「ありがとう」
騎士の笑顔は、とてもきれいだった。
綺麗すぎて、仮面のようだった。
大将は黙って厨房へ引き返し、二つの酒を持って戻ってきた。
ひとつは透明。
朝の光のように澄んでいる。
もうひとつは深い琥珀。
夕焼けの残り火のような色だった。
「……別々のお酒?」
お姫様が首をかしげる。
大将は答えない。
代わりに、女将が言う。
「同じ夜でも、人の心はそれぞれ違いますから」
透明な酒が、お姫様の前へ置かれる。
ひと口飲む。
やわらかな甘み。
清らかな香り。
喉を通るとき、
ふっと未来が明るくなるような味だった。
まるで祝福そのもの。
騎士の前には、琥珀の酒。
ひと口。
最初は少し苦い。
けれどすぐに、
深い甘さがあとから追いかけてくる。
胸の奥に触れる酒だった。
痛みを否定せず、
それでも優しく撫でるような酒。
騎士は黙って飲んだ。
「末永く、お幸せに」
女将が二人とグラスを合わせて、ぐいと一息に飲む。
「結婚は、いいぞ」
ぶっきらぼうに言う大将の顔は少し赤い。
酒のせいなのか、照れているのか。
「ま、今のところはね」
女将がにやりとする。
大将はひやりとした顔をする。
騎士は、少し痛そうな笑顔をした。
「面白い宿ですね」
二人は笑った。
賑やかな夜が過ぎていく。
テーブルの下で丸くなっているキティが、小さく言った。
「ねえ、お姉ちゃん」
「うん」
「ケッコンって、なあに?」
キールはしばらく黙って、椅子の脚の向こうにいる二人を見ていた。
それから、静かに答える。
「好きと好きが、ずっと一緒にいること」
キティはぱちぱちと目を瞬かせる。
「お姫様と騎士さん?」
「お姫様と王子様よ」
キティは少し考える。
それから、騎士のほうを見た。
「じゃあ、騎士さんの好きはどうなるの?」
キールは答えなかった。
ただ、琥珀色の酒をゆっくり飲む横顔を見つめ、
やがて目を伏せる。
「……さあ。わからない」
キティの耳が、ほんの少しだけしょんぼりと下がる。
「匂いに触れないの、かわいそう」
キールは低く言った。
「好きでも、触れない匂いの方が多いのよ」
その声は冷たくはなかった。
むしろ、よく知っている者の声だった。
キティは黙る。
テーブルの下の暗がりで、二匹はしばらく動かなかった。
上では、祝福の酒と、慰めの酒が、
それぞれ違う温度で夜に溶けていた。
⸻
夜更け。
南のスイート。
月明かりが白く差し込んでいる。
波の音が遠くで揺れていた。
お姫様はベッドで眠っている。
楽しい酒に酔い、静かな寝息を立てていた。
食堂を出るとき、大将が呼び止めた。
騎士にだけ、小さな瓶を渡す。
「寝酒だ」
透明でも琥珀でもない。
深い藍色の瓶。
「強い酒だ」
それだけ言うと、大将は去っていった。
騎士は瓶のまま、ひと口飲む。
鋭い酒だった。
火のように喉を通る。
だが、そのあとに残る香りはどこかやさしい。
まるで、
――後悔だけはするな。
とでも言うように。
騎士はそっと、お姫様の眠るベッドに腰掛ける。
頬に月の光が落ちていた。
長い睫毛。整った横顔。
まるで舞台のスポットライトを浴びているようだった。
その頬に、そっと手を伸ばす。
月明かりの中。
騎士の震える唇が、お姫様に近づく。
歌劇の最後の場面のように。
そのとき、キティがひょっこり顔を出した。
お姫様の布団に潜り込んでいたらしい。
騎士の顔を、じっと見つめる。
「このお姫様、王子様がいるんだよ」
「匂いが、変わっちゃうよ」
あまりにも透明な猫の瞳に、騎士は我に返る。
ベッドを離れ、月明かりに浮かぶテラスへ出る。
藍色の液体を、ひと息に飲み干した。
キールはテラスの手すりに座り、
付かず離れずの位置で騎士を見守っている。
「……月が、綺麗ですね」
眠れる姫に向けたはずの言葉は、
夜に溶けていく。
波は同じ音を繰り返していた。
まるで鼓動のように。
キティはお姫様の上で丸まり、
吾輩も騎士なり、とでも言いたげに目を閉じている。
騎士は月明かりの中、静かに泣いていた。
声を殺して。
自分の心まで殺してしまうみたいに。
キールは尻尾で、瓶を持つ手にそっと触れた。
まるで人が、手と手を重ねるみたいに。
騎士は苦く笑う。
「猫に止められて、猫に慰められるなんてな」
小さく息を吐く。
「いいんだ」
手のひらで涙を拭う。
「これで、いいんだ」
キールはそっと寄り添った。
尻尾で体を抱くように。
何も言わず、ただぬくもりを分け与える。
猫扉が、ぱた、と鳴る。
遠くで船の灯りがひとつ、寂しそうに揺れている。
人の想いは、まるで波のようだ。
寄せては返し、
満ちたり引いたり、
時に激しく、
時に凪いで。
浜辺の泡のように、
形を変えながら静かに消えていく。
⸻
朝。
海は空を映して、どこまでも青い。
テラスで二人はコーヒーを飲んでいた。
「うー、頭いたい」
「調子に乗って、飲み過ぎ」
騎士が笑う。
「だって、楽しかったんだもん」
頭を押さえながら、お姫様は言う。
「いい宿だったな」
「うん」
キールが近づく。
そして、騎士の足にすり寄った。
お姫様は目を丸くする。
「えっ、いつのまに仲良くなったの?」
「秘密」
騎士は微笑みながらそっと撫でる。
「昨日は、ありがとう」
キールは逃げない。
「触れるなんて、ずるい」
お姫様は頬を膨らませて抗議する。
するとキールはその背後へ回り、
しっぽで、ぴしっと背中に触れた。
まるで言うように。
――幸せになりなさい。
キティは相変わらず転がっている。
「お姉ちゃんも、素直じゃないねぇ」
そして、キティが言う。
「この人、痛い匂いちょっと消えた」
「それと、ちょっと変わった」
キールは海を見る。
雲の切れ間から光が落ちている。
「騎士がお姫様と結ばれる」
「歌劇のようにはいかないわね」
キールは長い髭をひくりと動かした。
二人の女性は立ち上がる。
大きなスポーツバッグを持ち、玄関へ向かう。
「また来よう」
「うん」
二人は笑う。
騎士は何も語らず、
これからもお姫様の隣にいるのだろう。
友人として。
お姫様の人生を、見守りながら。
浜の向こうから、船が来るのが見える。
それぞれの想いを、二度とは同じではない波に乗せて運ぶように。
三毛まかせ亭の灯りは、今日も静かにそこにある。
それぞれの想いを、
海に置いて。




