第三話 白い人
島には、風の通り道がある。
瀬戸内海の小さなこの島では、みかん畑を抜け、南の浜辺へと降りる風が、いつも何かを運んでくる。
それは潮の匂いだったり、遠くの船のエンジン音だったり、あるいは、人の、言葉にならなかった気持ちだったりする。
三毛まかせ亭は、その風の行き着く場所に建っている。
猫二匹と、少し不器用な夫婦ふたり。
南向きの海。
七つの客室。
食堂では必ず夫婦と乾杯をするという、不思議な決まり。
ここに来る人は、たいてい少しだけ疲れている。
大きな傷ではない。けれど、放っておけば深くなりそうな、心のひび。
そして、ときどき――
人には見えないものが、見えてしまう子どももやってくる。
「見える」少女と、見えなくなりたかった母親と、
そして、もうこの世にいないはずの、白いひと。
けれどこれは、怖い話ではない。
救えなかったと思い続けた背中と、
救われたと伝えたかった魂と、
それをただ静かに見ていた猫たちの、
やわらかな夜の記録。
風は、今日も南から吹いている。
瀬戸内のやわらかな陽射しが、島の南側にぽつんと建つ三毛まかせ亭の白い壁をなでていた。
目の前には美しいビーチ。風は柑橘の匂いをほのかに運ぶ。
その日、玄関の引き戸がそっと開いた瞬間、キールは背中の毛をわずかに逆立てた。
――来た。
「いらっしゃいませ」
女将が笑顔で迎える。
その後ろには無骨な表情の大将。
不機嫌なわけではない。
これが通常運転だ。
少女は母親の手を握っていた。
細い指。大きな瞳。まっすぐな気配。
そしてその視線は、迷いなく大将の背中に向いていた。
「……あのね、おじさんの後ろに、白い女の人がいる」
母親の手がぴくりと震える。
疲れた微笑みで娘の頭を撫でながら、小声で言う。
「すみません、この子、ちょっと……そういうことを言うんです」
キールは大将の肩越しに“彼女”を見る。
白い服。静かな目。
この宿で、いちどだけ笑った女。
夜の畑に月が落ちた日から、帰っていない。
「そうですか」
女将は変わらぬ調子で言う。
その隣で、大将の目がほんの一瞬だけ丸くなった。
キティが小声で囁く。
「ねえ、あのおねえさん、まだいるよ?」
キールは目を細める。
「いる。けれど、怖くはない」
「どうして?」
「ここで笑ったことがあるから」
キティは首をかしげる。
「笑ったのに、どうして帰らないの?」
キールはしばらく黙り、ゆっくり答える。
「“ありがとう”は、きちんと届かないと消えないものなの」
キティはぽかんとする。
「へえ。ニンゲンって、めんどうだね!」
キールはため息をつく。
「あんたは単純でいいわね」
キティは何も気にせず、少女の足元にころんと転がる。
「ねえ、あそぼ!」
少女はしゃがみこみ、キティの腹をためらいなく撫でる。
キティは嬉しそうにひっくり返り、母親の足にもすり寄った。
キールは少女の前にだけ、ゆっくり歩み寄る。
母親が手を伸ばした瞬間、すっと身を引いた。
「すみません、この子、気分屋なもので」
女将が母親に視線を送りながら微笑んだ。
少女がそっと触れる。
キールは逃げない。
この少女は、濁っていない。
母親の心は、今、曇り空だ。
ーーー
母親は長く疲れていた。
少女の“見える”力は、祝福ではなかった。
学校で浮き、嘘つきと責められ、親もまた奇異の目で見られる。
夫は耐えきれず、「もう限界だ」と言って去った。
離婚届に判を押した夜、母親は一人で泣いた。
娘の前で張りつめ続けた糸が、静かに切れた。
「少し、休もうと思って」
予約の電話口で、彼女はそう言った。
通されたのは南向きのスイート。
海が真正面に広が離、光も風も、よく届く。
ーーー
夜。
夕食は一階の食堂で。
宿泊客はみなそこで食事をする決まりだ。
その夜は母娘だけだった。
大将は棚の奥から、小さな丸い瓶を出した。
夕陽を閉じ込めたような色。
「今日は、これ」
柑橘の香りのする、太陽の色をしたお酒だ。
「……私、強くないんです」
「うちの決まりだ」
大将はぶっきらぼうに言ったが、瞳はどことなく優しい。
「大丈夫。ジュースみたいなお酒ですから」
女将はもうすでに徳利を三本ほど空けている。
栓を抜いた瞬間、空気が変わる。
甘さではない。
瑞々しい皮の香り。
指先でむいたときの、あの細かな霧のような匂い。
母親は思わず息を吸い込んだ。
懐かしい、と体が先に言う。
まだ口にしていないのに、
胸の奥がやわらぐ。
「……いい匂い」
大将は何も説明しない。
注がれた酒は、光を含んでゆらりと揺れた。
まるで液体の中に小さな太陽があるようだった。
ひと口。
まず酸味が触れる。
すぐに丸い甘みが追いかける。
けれど甘すぎない。
皮のほろ苦さが、最後にそっと残る。
その苦味が、やさしい。
母親は目を閉じた。
舌よりも先に、肩がほどける。
胃に落ちるころ、体の芯がじんわり温まる。
酔いではない。
張りつめていた糸が、一本だけ緩む感覚。
女将が笑う。
「この島の太陽で育った子ですから。
人を撫でるのが得意なんです」
もう一口。
今度はゆっくり味わう。
酸味の奥に、光の匂いがある。
思い出すのは、洗濯物を干した午後。
娘がまだ小さかったころの、笑い声。
なぜ今それが浮かぶのか、自分でもわからない。
胸の内側に張りついていた「ちゃんとしなければ」が、
少しだけ剥がれる。
守らなければ、の前に、
ただ、あたたかい。
グラスの底に、橙色の光が残る。
母親は静かに息を吐いた。
肩の位置が、わずかに下がる。
「……おいしい」
それは酒への言葉ではなかった。
長いあいだ、気を張ることが習慣になっていた。
娘の言葉を否定されないように、先回りして謝る癖。
説明し、取り繕い、誤解をほどこうとする日々。
ここでは、それが必要ない。
少女の「白い女の人がいる」という言葉は、そのまま空気に溶けた。
誰も笑わず、誰も驚きすぎない。
それだけで、胸の内側の硬さが少し緩む。
大将は何も聞かず、ただ酒を注ぐ。
女将は笑い、猫は自由に歩く。
グラスの底に残った淡い光を見つめながら、
彼女は、自分が疲れていたのだと、静かに理解した。
「ここではね、ちょっとだけ自分を甘やかしていいのよ」
少女は床に転がるキティと遊び、時折、ふと空を見上げる。
「白いおねえさん、この飲み物、好きって」
酒を注ぐ大将の手が止まる。
あの夜。
白い女も同じ酒を両手で包み、「きれい」と笑った。
「太陽みたいですね」
その声は細く、しかし確かだった。
守れなかった。
理由はどうあれ、それだけが残った。
大将は黙って、もう一杯注ぐ。
液体は橙から、ゆっくり淡い金へと変わる。
灯りの角度で色が移ろう。
単色ではない。
透明でもない。
大将は低く言う。
「人はな、透明じゃなくていい。
単色じゃなくてもいい。
途中で色が変わっても、いい」
母親は顔を上げる。
その言葉は説明でも慰めでもない。
ただ、そこに置かれた。
胸に貼りついていた「ちゃんとしなければ」が、少し剥がれる。
ここでは、少女の言葉を誰も否定しない。
謝らなくていい。
それだけで、心は軽くなる。
柑橘の酒は、今も同じ色をしている。
母親がひと口飲み、
ゆっくり息を吐く。
その横顔が、
あの夜の女と一瞬、重なる。
大将は目を伏せる。
今度は、手を止めない。
酒は変わらない。
けれど、受け取る人は違う。
大将の背で、白い気配が揺れる。
ーーー
夜。
母親は海辺を歩いた。
その胸に、白い女の寂しさが重なる。
(もし私がいなくなったら、この子はどうなるだろう)
夜の海は全てを飲み干してしまいそうなほど深い。
月の光に照らされた砂浜を歩く。
海に向かう足取りは、重い。
それは決して砂に足を取られているからでは、ない。
こっそりと母親についてきた二匹はその背中を見ている。
「ねえ、あの人も白くなっちゃうの?」
キールはきっぱり言う。
「ならない」
「どうしてわかるの?」
「まだ、あたたかい」
キティは母親の足にすり寄った。
突然の柔らかい気配に足を止める。
「でもね、ちょっとだけ、透明になりかけてるよ?」
キールは母親の横に座った。
「だから、ここにいる」
少し間を置いて、低く続ける。
「人はね、消えたいときほど、誰かに見つけてほしい生き物なの」
キティはきょとんとする。
「じゃあ、わたしたちが見つけたね!」
キールは目を細める。
「……そういうこと」
海は静かだ。
波は繰り返す。
あの日、白い女を南の部屋のテラスから見送った。
死は特別な出口ではない、とキールは知っている。
ここに残るものの重さを、知っている。
母親はしゃがみ込み、キールに手を伸ばす。
触れられない。
まだ、曇っている。
代わりにキティがその指をぺろりと舐めた。
「泣いてるの? しょっぱいよ?」
母親は小さく笑った。
「帰り道は、こっちだよ」
月明かりの中、キティは母親を誘導する。
母親はその後をついて行った。
自分と重なった白い女の輪郭が少し薄れたような気がした。
波は、引くことを知っている。
ーーー
翌朝。
少女は靴を履きながら大将を見上げる。
「あのね、白いおねえさんね、ありがとうって。
ここで笑えたから、もういいって」
大将は息を呑み、そして深く吐いた。
長く胸に刺さっていた棘が、ようやく抜ける。
「そうか」
大将は少女の頭をわしゃわしゃと撫でる。
白い影は、朝の光に溶けるように消えた。
母親は娘の手を握り直す。
「また、来てもいいですか」
「もちろん」
女将は笑う。
大将は黙って頷く。
その目は少し赤くなっているようだった。
キールは母親の足元に歩み寄る。
今度は、逃げない。
母親がそっと撫でる。
あたたかい。
「ありがとう」
母娘の荷物にこっそり忍び込んでいたキティが顔を出し、嬉しそうに叫ぶ。
「わあ! 曇り、なくなった!」
キールは目を閉じる。
「やっと、晴れた」
少女が笑う。
「また来るね。ここ、あったかいから」
少女はキティを持ち上げ、抱きしめ顔を埋める。
お日様と海の匂い。
キールは少し離れたところでどっしりと座り、満足そうに尻尾をしならせている。
「よかったわね」
その言葉は誰に向けたものなのか。
南の海は今日も光っている。
三毛まかせ亭は、何も言わずにそこにある。
少女の笑い声が遠ざかる。
キールは目を細める。
キティはくるりと尻尾を立てる。
猫扉は今日もぱたぱたと音が鳴る。
光は南から、まっすぐ入る。
それだけでいい。




