第二話 恋人です
この島の夜は、静かだ。
瀬戸内海の水面は、昼のきらめきを忘れたように黒くなり、
南の浜にぽつんと建つ三毛まかせ亭だけが、あたたかな灯りをともす。
ここでは、どんな客も、食堂で乾杯をする。
大将はその人の心に合わせた酒を選び、
女将は誰よりも強く、誰よりも豪快に飲む。
そして猫たちは、自由に館内を歩き回り、
ときどき人の秘密を知った顔をする。
「恋人です」と口にするまでに、少し勇気が必要だった二人の夜。
若さゆえにまっすぐすぎる想いと、
傷を抱えたままでは愛せないと思い込んでいた心。
海の音と酒の匂いのなかで、
指と指が絡まり、
言葉よりも先に本音が溢れてしまう、そんな夜。
猫たちは知っている。
人は、ほんの少し酔ったとき、
いちばん正直になるということを。
南の窓の向こうで、
波が、静かに呼吸している。
その夜、三毛まかせ亭の戸はためらいがちな音を立てて開いた。
先に入ってきたのは、春みたいな匂いのする若い男。
その半歩後ろに、月の影みたいな少し年上の男がいる。
「予約してます。二人で」
春の男のはっきりした声。
月の男は、視線を落としたまま靴をそろえている。
キティが小声で言った。
「ねえお姉ちゃん、なんか友達同士と違う匂いがするね」
「あんまりそういうの言わないで」
「あ、今ニンゲンで流行ってるえるじーなんとかってやつ?」
「あんたは黙ってなさい」
「なんか面白そうだから行ってくる!」
キティは二人の間に入り込む。
すり、と足元に体を押しつける。
無邪気だ。
キティは喜びも不安も、砂遊びのように軽くて、すぐに忘れる。
キールは離れて座っていた。
目は鋭いけれど、夜風の匂いを嗅ぎ、二人を見守っている。
月の男がその頭を撫でようと近づいてきた。
その手をするりと躱す。
月の男は寂しげな目をした。
ーー触らせるかどうかは、まだ決めない。
「ごめんなさいね、この子、気まぐれなもので」
女将はいつも通り微笑んで言った。
「一部屋でよろしいですか」
ほんの一瞬だけ、空気が細くなる。
「はい」
春の男が即答する。
月の男は袖をつまむ。
「……はい」
その声は、少しだけ遅れた。
女将はほんの僅かな時間、その二人に視線を送ったあとさらに微笑んで言った。
「南のお部屋にご案内いたしますね」
---
夜。
「大将、飲みません?」
春の男が言う。
大将は徳利を4つ出す。
「うちは客との乾杯が義務でね」
言葉はぶっきらぼうだが、目は嬉しそうだ。
酒は人の奥をゆるめる。
初めの酒は当たり障りのない味。
一杯。二杯。三杯。
酔いが回るにつれ、春の男はどんどん饒舌になる。
月の男は静かな色気を放ち始める。
「若いのは、何してる」
「デザイン系です。こっちは元会社員」
「元、って言うな」
月の男が小さく睨む。
「言っていいだろ。もう辞めたんだから」
空気が少し揺れる。
春の男はお猪口を置いた。
大将は酒を注ぐ。
「この島には何しに来た」
大将の問いは無骨だ。
「恋人とのお忍びデートです」
春の男は即答。
「……酔ってるだろ」
月の男が睨む。
「酔ってる。でも本当」
月の男はお猪口を置く。
「言わなくていい」
言葉に棘が立つ。
「なんで」
「面倒だから」
「何が」
「説明が」
「説明ってなに」
「普通じゃないから」
沈黙。
大将が静かに言う。
「普通とは何だ」
沈黙。
女将は黙って酒をあおる。
春の男は、月の男を見る。
そして静かに話し始めた。
「この人、前は婚約してました」
「言うな」
即座に遮る。
だが春の男は止まらない。
「式場も決まってて、指輪も用意してて」
月の男の指が白くなる。
「浮気されて、全部なくなった」
言葉が落ちる。
大将は何も言わない。
「男じゃないですよ」
春の男が続ける。
「普通に、女の人。会社の同僚と」
月の男が笑う。乾いた笑い。
「五年だぞ」
ぽつりと出る。
「五年付き合って、二ヶ月前から別のやつと寝てた」
春の男の手が、そっと背中に触れる。
「やめろ」
「やめない」
「惨めになる」
「ならない」
強い声。
「裏切られたのはあんただ」
月の男は目を伏せる。
「だから、もういいんだ」
「何が」
「期待するの」
静かだが鋭い。
大将が酒をあおる。
「期待せん恋は、楽か」
月の男は答えない。
春の男が言う。
「俺は期待してる」
まっすぐ。
「裏切らないでほしいって期待してるし、好きでいてほしいって期待してる」
「重い」
「知ってる」
にやりと笑う。
「でも、あんたが選んだんだろ。俺を」
月の男の呼吸が揺れる。
「……慰められて、流されたわけじゃない」
「うん」
「俺が決めた」
「うん」
「好きになったのは、俺だ」
声が少し震える。
「じゃあ言えよ」
「言えよ」
「何を」
「俺のこと」
「……」
「ここなら平気だろ」
空気が静かになる。
春の男は優しく、でも逃がさない。
月の男は、少しだけ目を閉じる。
それから、はっきりと言った。
「……俺の恋人、です」
酒のせいじゃない声だった。
大将は小さくうなずく。
「そうか」
それだけ。
大将は、その二人の前に細いグラスを置く。
底は深い青。
上は、ほとんど透明。
灯りの下では、ただの水のようにも見える。
「混ぜずに飲め」
それだけ言う。
春の男がそっとグラスを傾ける。
透明だった液体が、ゆっくりと色を変える。
青が溶け出し、紫を経て、やがて柔らかな琥珀色に落ち着く。
角度を変えるたび、また違う色になる。
月の男は、その変化をじっと見ている。
大将は何も説明しない。
ただ、自分の盃を軽く掲げる。
それもまた、光の当たり方で色が揺れていた。
透明でなくていい。
単色でなくていい。
途中で色が変わってもいい。
混ざりきらなくても、いい。
言葉にはしない。
だが、その場にいる全員が、なぜか理解する。
月の男が、静かに言う。
「……きれいだな」
春の男は笑う。
「そうだな」
グラスが触れ合う。
小さな音が、食堂の梁に響く。
相変わらず大将は何も言わない。
代わりに、女将が盃を置く。
「色ってね」
ふと、穏やかに言う。
「光が当たらないと、ほんとの色は出ないのよ」
春の男が笑いかける。
月の男は、わずかに顔を上げる。
女将はそれ以上続けない。
ただ、二人の間に新しい徳利を置く。
「おかわりありますよ」
そして一拍おいて、にこりとする。
「恋人さんたち」
からかいではない。
宣言のような声音。
月の男は真っ赤になりながらも、目を逸らさない。
春の男が笑う。
「ほら、恋人」
「うるさい」
「呑め、カップル」
「大将まで!」
「幸せなお二人に乾杯ー」
女将も混じってさらに酒が進む。
恋をする二人の目元が、少し滲んでいた。
「お姉ちゃん、コイビトってなに?」
「……触れたくなる相手、かな。触れたくて、でも壊したくなくて、少しだけ怖い相手。
でも、離れたくないって思う相手」
「ふーん、それじゃあ私のコイビトはカリカリごはんだね!食べたいけど無くなるのはいやだし、ずーっと一緒にいたいもん」
「はぁ……あんたは色気より食い気ってやつね」
⸻
夜更け。
夜の南向きスイートのテラス。
海風が二人の髪を揺らす。
「怖い?」
春の男が聞く。
「……少し」
「俺も」
「嘘つけ」
「嘘じゃない。あんた失ったら、きつい」
月の男は黙る。
それから、指を差し出す。
「重いんだろ」
「重いよ」
「……いい」
絡む指。
逃げない。
「お前、ほんと押すな」
「押さないと逃げる」
「逃げない」
「ほんとに?」
睨む。
「俺を誰だと思ってる」
春の男が笑う。
「俺の恋人」
間。
「……ばか」
今度は月の男のほうから距離を詰める。
額が触れる。
呼吸が混じる。
「ここ外だぞ」
「猫しか見てない」
キティが顔を出す。
「見てるよー」
「黙ってなさい」
キールが尻尾で叩く。
春の男が、ゆっくり唇を重ねる。
確かめるだけじゃない。
深くはないが、逃げないキス。
月の男の手が、服を掴む。
離れたあと、息が乱れる。
月の男の声が、かすれる。
「……裏切るなよ」
春の男は、間を置かず答える。
「裏切らない」
そして、ほんの少しだけ言葉を足す。
「変わることはある。でも、逃げない」
月の男の呼吸が止まる。
それは、さっきの酒と同じだった。
色は変わる。
でも、逃げなければいい。
月の男が小さく言う。
「……信じる」
その声は、酔いではない。
選択だった。
もう一度、今度は月の男ほうから触れる。
花びらが落ちるように短く、でも自分の意思で。
二匹はテラスからぴょん、と飛び跳ねて砂浜に降りた。
キールは少し離れた木の陰で、尻尾をゆっくり巻いて恋人たちを見守る。
「わあ……なんだか、くすぐったそう!」
「……無駄に騒がないの、キティ。見ていればいいの」
キティはくるくる尻尾を揺らす。
「でも、なんであんなに怖がってるの?触ったら怒られちゃう?」
キールは目を細め、低く答える。
「怒るんじゃない。怖いんだよ。触れたら、壊れそうだから。
でも、触れたくなる。人間って、そういうものなんだ」
キティは前足で砂を掘る。
「ふーん……なんだか不思議だね。
触れたくても壊したくないって、どういう気持ちなんだろう。カリカリ食べきっちゃって、無くなった時と同じかなぁ」
キールは遠くの海を見つめながら、少し声を低くする。
「わからなくてもいい。見るだけで伝わることもある。
だから今は、二人を見守っていればいいの」
キティはぱたぱたと砂を蹴って跳ねる。
「うん! 私、見守る!」
キールは尻尾をきゅっと巻き、長いヒゲをヒクヒクさせる。
「……無邪気なのはいいことなのか、悪いことなのか」
海は黒く、風が夜の香りを運ぶ。
二匹の猫は静かに、でも確かに、恋の余韻の中に息を潜めていた。
⸻
朝。
「ありがとうございました」
春の男が言う。
月の男は一歩前に出る。
「……恋人と、また来ます」
キールは入り口に座っている。
石の置物のように動かない。
春の男がしゃがみ込む。
「見守ってくれて、ありがとう」
手を伸ばす。
キールは、まだ動かない。
月の男も、ゆっくり膝を折る。
迷いのある手。
触れたいが、拒まれることを少し恐れている。
ほんの一瞬の沈黙。
それからキールは、わずかに体を預けた。
自分から。
ほんの数秒。
だが確かに。
月の男の喉が震える。
春の男が笑う。
「ほら」
月の男は、小さく息を吐く。
「……許されたみたいだな」
キールは尻尾を一度だけ揺らす。
許したのではない。
認めただけだ。
二人が立ち上がると、自然に手がつながる。
今度は隠さない。
キティはそんな二人の足元でころんと転がって、楽しそうにしていた。
⸻
戸が閉まり、見えなくなるまで見送る。
「そういえば昨日おにーさんが言ってた、ウワキってなに?」
キティが首をかしげる。
「約束を、別の匂いにすることよ」
「変な匂い?」
「痛い匂い」
キティは真剣に考える。
「じゃあ、好きはいい匂いだね。あの二人とおんなじ」
キールは目を細める。
好きは、匂いのようなものだ。
見えないが、消えない。
三毛まかせ亭の灯りは、ただそこにある。
透明でなくてもいい。
単色でなくてもいい。
色は、光の中で決まるのだから。
裏切らない灯りの下で、
人はまた誰かを選びなおす。
――そして猫は、その夜の匂いを覚えている。




