第一話 灯りにつられて
瀬戸内の南に面した小さな島に、三毛まかせ亭はある。
みかん畑が段々に海へ落ちていく。
人口は二千人ほどで、半分は高齢者だ。
けれどときどき、都会や海外から若い人が移り住んでくる。
宿は南北に細長い二階建て。
二階はすべて客室で、七部屋ある。
いちばん南の一室だけが、海に真正面を向いている。
小さなテラスと、風呂と手洗いがついた部屋。
ほかの六部屋は東西に分かれて並び、客は一階奥の大浴場と共用の手洗いを使う。
一階の南側は食堂で、宿泊客はみなそこで食事をとる。
厨房の奥には、住み込みの夫婦の部屋がある。
大将と女将。
そして三毛猫が二匹。
玄関の扉の下には、猫専用の小さな出入り口がある。
ぱた、と鳴るその音は、この宿の呼吸みたいだ。
妹のキティは人懐っこい。
だいたい誰にでも触らせる。
姉のキールは臆病で、少し高飛車。
触らせるかどうかは、キールが決める。
この宿には、口にしない決まりがある。
訳ありの客は、南の部屋へ。
それを決めるのは女将。
そして泊まった客とは必ず乾杯する。
どんな夜でも。
大将は多くを語らないが、その人の心に合わせて酒を選ぶ。
慰める酒。
たしなめる酒。
背を押す酒。
盃の底に、言葉が沈んでいる。
その夜の客は、すでに酔っていた。
四十代半ばの独身の男。
東京から来たという。
浜をふらつき、灯りに引き寄せられたらしい。
「……やってますか」
酔いの抜けきらない声。
女将はすぐに察する。
「ええ、やっていますよ」
大将は黙って男を見る。
玄関を開けた瞬間、キティが足元に寄り、すり、と頬を押しつけた。
「猫、いるんだ」
「二匹いますよ。館内は自由です。部屋にも入ります」
男はしゃがむ。
キティは迷わず膝に前足をかけた。
酔っぱらいはあたたかい。
「人懐っこいなあ」
それは当然だ。
キティは世界を信用している。
少し離れたところで、キールが座っている。
尻尾をきちんと巻き、目だけが動く。
男はそちらにも手を伸ばす。
キールはするりとかわした。
空振りの手が、少し宙に残る。
「……こっちは、難しいな」
「姉のほうは気分屋でして」
女将が笑う。
「触らせるかどうかは、あの子が決めます」
キールは視線を外す。
選ぶのは、いつも自分だ。
「一泊……空いてますか」
女将は男の目を見る。ほんの少しだけ、間を置く。
「南のお部屋が空いていますよ」
キールのひげが、わずかに震えた。
大将は、うなずくだけだった。
南の部屋は、夜でも明るい。
窓いっぱいの海。
空いっぱいの星。
月が、逃げ場をなくすほど照らしている。
男はしばらく立ち尽くす。
キティはもう部屋にいる。
猫扉が、ぱた、と揺れた。
「相変わらずいい部屋だよねぇ」
テラスに出て、ごろんと転がる。
キールは静かに入ってくる。
月明かりの空を一瞥してから、座った。
「俺には、まぶしすぎるな……」
男はベッドに腰を下ろす。
深い、ため息。
ーーー
食堂の窓の向こうは夜の海。
「うちは、乾杯が義務なんです」
三つのお猪口を並べ、女将が笑う。
「義務?」
「ええ。ここに泊まったら、一度は一緒に飲みます」
ぶっきらぼうに大将が言う。
「逃げられない」
男は苦笑した。
大将は、棚の奥から一本の瓶を出す。
「二十年」
ぽつり。
「去年、部署がなくなって」
「再就職が、決まらなくて」
「朝、起きられなくなりました」
波の音が間を埋める。
「終わりに来たんです」
大将は言う。
「終わりは、酔って決めるもんじゃない」
女将が黙って酒を注ぐ。
透明な液体。
だが、光にかざすとわずかに揺らぐ。
「最初はこれだ」
男は覗き込む。
「普通の酒に見えますけど」
大将は答えない。
月明かりが窓から入り、盃の中に落ちる。
その瞬間、ほんのわずかに色が差す。
淡い柑橘の光。
「……色が」
「光で変わるんです」
女将が笑う。
「人もな」
大将が言う。
それ以上は言わない。
男は飲む。
やわらかい。
どこか苦味を残す。
「これは?」
「始まりの酒だ」
男は苦笑する。
「終わりに来たんですが」
「終わりに来たやつほど、最初に飲ませる」
大将は盃を置く。
二杯目。
今度は少し濁った酒。
瓶の底に、沈殿が見える。
大将は振らない。
そのまま注ぐ。
「混ぜないんですか」
「混ざらない時間もある」
男は飲む。
荒い。
喉に刺さる。
「苦い」
「澱だ」
「沈むものがある」
男は黙る。
三杯目。
大将は瓶を逆さにし、底に溜まった濃い部分だけを注ぐ。
今度ははっきりと橙色。
男は驚く。
「さっきと、色が違う」
「同じだ」
「ただ、層が違う」
男はしばらく盃を見つめる。
飲む。
甘い。
驚くほど。
「こんな味、残ってたのか」
大将はうなずく。
「沈んでただけだ」
最後の酒。
透明に戻る。
だが、今度は強い。
「これは?」
「朝の酒だ」
男は笑う。
「まだ夜ですよ」
「朝は来る」
「来なくていい朝も、ありますよ」
男は飲む。
強い。
けれど、澄んでいる。
喉の奥が熱い。
目が覚めるような。
女将が言う。
「来なくていいと思っても、勝手に来るのが朝です」
穏やかな声。
男は一息に飲み、長く息を吐いた。
夜更け。
ぱた、と猫扉が鳴る。
男は浜へ向かう。
靴を脱ぎ、波打ち際に立つ。
一歩、前へ。
キティがぶつかる。
「足、冷たいよ」
もう一度。
「お布団いこうよ」
振り払われても気にしない。
突然、ころんと仰向けになる。
白い腹を夜にさらす。
ただ、そこにいる。
男の喉から、小さな笑いがこぼれた。
それは自分でも驚いた音だった。
笑いが、涙に変わる。
「……怖いんだよ」
砂に崩れる。
キティは膝に乗った。
キールは少し離れて、座っている。
海は広い。
砂はつめたい。
けれど、まだ境目だ。
キティは突然、砂を掘り始める。
ぱたぱたと飛ばす。
世界はまだ面白い、とでも言うように。
男はもう一度、笑った。
やがて立ち上がり、海に背を向ける。
キールの瞳が、わずかに丸くなる。
翌朝。
南の部屋は白い。
男は窓の前に立つ。
終わらせようと思ったのは、命ではなかった。
仕事を失った自分。
選ばれなかった自分。
止まった時間。
終わりに来たのではなく、
終わらせに来たのだと、気づく。
朝の食堂。
「昨夜、猫に止められました」
「世話焼きなんです」
女将は微笑む。
大将は味噌汁をすする。
「朝は、来ましたね」
男は外を見る。
まぶしい。
けれど、もう目を開けていられる。
「もう少し、探してみます」
大将は小さな盃を出す。
「朝から、ですか」
「祝いだ」
澄んだ酒。
男は飲み干す。
「あの部屋は夕陽もいい」
「また、見に来い」
「はい」
玄関で、キールを見る。
手は出さない。
キールは近づき、
ほんの一瞬だけ、男の指先に頬を触れさせた。
すぐ離れる。
滅多に触らせない。
自分で戻ると決めた人にだけ。
男の背中は、前の夜よりまっすぐだった。
ぱた、と猫扉が鳴る。
南の海は、今日もひらけている。
真正面に。
静かに。




