1.
──ガタッ。ガタタタ。ゴトッ。
騒がしい物音に、幼い私はベッドから起き上がった。
まだ暗い。
廊下に出ると冷えた空気が身体を通り抜けた。物音は一階から聞こえる。
手すりまで届かない私は、代わりに格子をつたって、そっと足をずらしながら階段を降りていった。
一段ずつ降りる度、物音が徐々に大きくなっていく。
途中、焦げた匂いが鼻についた。
どこから匂うのか、辿るまでもない。
階段を降りた先の扉。その隙間から煙が漏れていた。
煙が白い。ふわふわとしていた。
わたあめでも作っているんだ、と、幼い私は無邪気に考えた。
わくわくしながら背伸びをし、ドアノブを捻る。
「おとうさん? おかあさ──ッ……!」
開けた瞬間、熱気が顔を掠めた。肌を焼き付けるような熱さ。
反射的に身体を仰け反ると、バランスを崩して尻餅をついてしまった。
目の前の光景に、身体が動かなくなる。
幼い私でも分かった。──これは、わたあめなんかじゃない、と。
黄色や赤色で燃え盛る炎。その中に悶えるような動きをする黒い影が二つと、ただ立ち尽しているような影が一つ。
「──げろ!! レイラ逃げろ!」
パチパチと弾ける音とゴォォォと勢いのある音の中で、父の叫ぶ声が聞こえた。
逃げないといけないのは分かるけど、恐怖と驚愕で身体が言う事聞かない。
燃え盛る炎の中、立ち尽くしていた影がフッと消えた。その次の瞬間、悶えるように動いていた二つの影は、地面に吸い込まれるように消えて見えなくなった。
その直後、大きな木片が部屋の出入り口を塞ぐように崩れ落ち、自分がいる廊下の天井にも火が移り始めた。
何度か瓦礫が崩れる音。その音にびっくりして、ハッと我に返る。
状況が理解できると、本能的なものなのか、今まで動かなかった身体が急に動くようになった。
無我夢中で玄関に向かって走っていく。
玄関先も火が燃え移っていたものの、まだ広がりは少ない。
ドアを開け、ひたすら逃げることだけを考えて走った。しかし、すぐに足元にあった石ころで躓いて転ける。
痛みとパニックで泣きそうになりながらも、涙を堪えて後ろを振り返ると、一部の窓から勢いのある炎が噴き出ているのが見えた。
──これが火事。
嫌でも理解した瞬間だった。
家の周りには他の建物がない。だから、誰もいない。
子供が火事場から逃げ出したというのに、助けなんて来るはずもなく──。
「おとうさーん!! おかあさーん!!」
家に向かって叫んだ。
幼いながら、もう呼んでも親の反応が無いことは分かっていた。でも僅かな期待を込めて、大きく息を吸ってありったけの声で叫んだ。
この声は、誰にも気づかれることもない。
何度も呼んでいたら、ふと、誰かが自分の腕を掴んできた。
叫ぶのをやめて振り返ると、全身黒ずくめの大きな身体をした男の人が立っていた。
助けにきてくれた──!
私は安心した。掴むその手を握って、泣きながら話しかけた。
「あのね、あのねっ、おうちがもえてるの! おとうさんもおかあさんも、なかにいる! はやくひをけして!」
しかし男の人は動かないどころか、私を担ぎ上げて家から離していく。
「ねぇ、どこいくの! おとうさんとおかあさん、たすけてよ!! ねぇ!! おとうさぁんっ!! おかあさぁんっ!! いやだぁぁぁぁ!!!」
──
……
…
「──っ!!」
身体がビクッと反応して目が覚める。
反射的に上体を起こすと、息が荒くなっている事に気付いた。下を向くと、重力に沿って汗が頬を伝う。
今のは夢……?
心臓の鼓動が早い。
見慣れた家具が目の前にあるのに、まだ夢か現実か分からない感覚だった。二度寝をすれば同じ夢が見れそう。
無意識に毛布を握りしめている手。その手を見ると、さっき自分が見ていた手よりはるかに大きくなっている。
……良かった、ちゃんと夢だった。
瞬きをすると涙がポロリと、目の端から流れてきた。一瞬汗かと思ったけど、ちゃんと目元が濡れている。
そこで、扉が開き、誰かが入ってきた。
「起きたか」
聞き慣れた声に振り向くと、心配を隠しきれていない表情のジンの顔が目に入った。
彼は私の相棒、ジン・テオリス。
私と彼が所属する暗殺組織『Nocturne』で、九年間、共に任務をこなしてきた。
彼とは訳あってルームシェアしてる。ただ寮の定員オーバーで入れなかっただけなんだけども。
Nocturneのボスの別荘が空いてるというから、そこに住まわせてもらってるんだけど……。まさか男女で入れられるとは思わなかった。
彼と仕方なくルームシェアしていく中で、勝手に定着され、勝手にペアにされ……、で、九年間一緒にいる。
しかし、彼は悪い人じゃない。落ち着きがある人だ。だけど、表情はほとんど変わらない。
そんな彼が心配そうにするぐらいだから、相当うなされていたのだろう。
「コーヒーでも飲むか?」
優しい声に甘えるように、私は涙を拭って頷いた。
ジンが寝室を出て行く。私は汗ばんだ服が気になって、先に着替えてからリビングへ向かった。
彼はコーヒーを淹れるついでに、朝食のパンまで焼いてくれた。そして、湯気の立つカップと焼きたてのパンを、私の目の前にそっと置く。
コーヒーとパンは温かい。その温かさに彼の優しさが滲んでいる気がした。
ジンは私の向かいに腰を下ろし、テーブルの上の本を手に取った。読みかけのページを開いている途中、本に視線を落としたまま私に話しかけくる。
「またあの夢か?」
「うん……」
──そう。あの夢は全部実話だった。私が幼い頃の記憶。
思い出したくもない記憶だけど、忘れかけていると夢で再び思い出させてくる。本当に厄介な記憶。
ジンは「そうか」とだけ言って、文章を目で追い始めた。
傍から見れば、彼が素っ気ないように見える。だけど私は、この深追いしてこない感じが気楽でいい。
彼の見た目は、黒髪のウルフカットに血のような赤い瞳。首や腕に刻まれたタトゥーは、光の加減で浮き上がって見える。
──彼は、全体的に"怖い人"。
体格も良いから余計に近寄りがたい雰囲気だけど、そんな見た目のくせして本を読むというギャップ。
ギャップ萌えする人にはたまらないタイプかもしれない。
そんなことより、せっかくジンが用意してくれた朝食だ。冷める前に有り難く頂くことにしよう。
さっきの夢で食欲なんてものは失せてしまったけれど、ジンの親切を無駄にしたくなくて、パンをコーヒーで無理やり胃に流し込んだ。
コーヒーを飲み終わると同時に、最後の一欠片のパンが喉を通り抜けた。
テーブルの上にはまっさらなお皿と、底が丸見えのカップが置かれた状態。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて合掌する私に目もくれず、文字を追い続ける彼。何をそんなに真剣に読んでいるのだろうか。
「何の本読んでるの?」
本から目を離さないまま「お前にとっては難しい本だ」と、からかっているのか本気で言っているのか分からない調子で言われた。
からかっていると捉えた私。
腰を曲げて下から本のタイトルを覗き込むと「猿でも分かる歴史」と書いてあった。
私はジンの本を取り上げ、本で見えなかった彼の顔を睨む。
「……馬鹿にしてるね?」
「ふっ」
私を見下ろしたまま、口の端を上げて小さく笑った。
さっきは無表情だとは言ったものの、私には、なんだかんだで表情を見せてくれるのである。
昔は本当に無愛想でその態度にムカついてた。だけど、もうこれがジンなんだと思えば何も思わなくなった。
私はジンに本を返して、食器を運ぶついでに、冷蔵庫に貼ってある一ヶ月の日程表を見る。ジンと私で分かれている日程表は、両者とも真っ白。枠線しかプリントされていない。
つまり、私達は一ヶ月まるまる、任務や仕事が何も入っていないということだった。
この日程表はあくまで予定であって、急遽任務が入る事が多々あるから、これが全部正しいとは言えない。だけど、今のところ日程表通りで間違いはない。
少し前までは任務が多かった。
例えば、マフィアのグループの暗殺や情報収集とか。
暗殺者と聞くと、どうしても悪い印象を持たれがち。
しかし、私達『Nocturne』では、政府や国民の敵ではない。むしろ、味方だ。
どういう事なのかと言うと──、どんな国にも"犯罪者"という者が存在する。
だから政府が、手に負えないほどの悪を排除するため、裏で私達に依頼を持ちかけてくる。
その依頼を遂行し、国の治安を陰から守るのが、Nocturneの役目なのだ。
しかし、今は平和すぎるが故に仕事がない。
「暇すぎるね。平和ボケしそう」
「それもそうだな」
ジンはいつの間にか再び本に目を向けていた。集中していても、話しかけたら答えてくれるのは嬉しい。
私は食器を洗いながら、ジンの顔を観察する。
横顔が綺麗。そもそも、暗殺者として勿体ないぐらい中性的で整った綺麗な顔をしてる。それでいて、男の人だとは分かるぐらいには、男らしい顔付きもしていた。
もし暗殺者以外の道を進むなら、モデルを目指したら良さそう。
耳に開いている沢山の穴に、いろんな形のピアスが通されていて個性的。なのに全然おかしいと思えないのは、きっと顔が良いせいだ。
じっと彼を観察していると、流石に私の視線が気になったのか、本から目を離して私を瞳に映した。
「なぜそんなに見る」
「ん? 何でもないよ。布団がふっとんだかなーって思って」
適当な事を言う私に眉をひそめるジン。
普段シワが寄らない眉間に、シワが深く入り込んで面白い。私はつい吹き出すように笑ってしまった。
ジンは呆れたように鼻で息を吐きながら、再び視線を本に戻した。
洗い物を済ませ、やる事もなくなった私。
ソファに移動してテレビをつけると、ジンも本を持って隣に座ってくる。まるで隣にいるのが当たり前みたいに、私の隣で本の続きを読んだ。
大きい身体は、自分の身体をもたれさせるのに楽で便利。私はその便利な彼を使い、ボーっとテレビを眺めた。
彼は決して邪魔そうにする素振りもない。
──それがいつもの光景だから。
そんな私達の光景は、当たり前のように続いていた。
それが、いつまでも続くと思っていた──。




