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作者: 網笠せい

 ある初夏の日、山の入口で一匹の蝶を見つけた。

 翡翠色の翅に走る黒い翅脈が、教会のステンドグラスを思わせる蝶だった。四枚の翅には丸い模様が一つずつ入っていて、鳥の目のようにも見えた。

 ゆっくりとまばたきをするように樹上で翅をふるわせる姿に心惹かれ、私はそっと手を伸ばした。

 蝶はまるで待っていたかのように、いともたやすく捕らえることができた。虫かごに放ってふたを閉めると、指先についた鱗粉をズボンになすりつける。

 一刻も早く戦利品を友人に見てもらいたくなって、長い坂道を駆け降りた。虫かごが左右に揺れるたびに、蝶が中ではばたいた。


「見て見て! 捕まえた!」


 友人の鼻先に虫かごをかかげると、彼は眼鏡をかけ直して感嘆の声をあげた。


「これ、イザベラミズアオじゃない?」


 その名前を口の中でくりかえすと、私は満足して笑った。


「山のさぁ、入り口の木のとこにいたんだよね。おもしろい蝶々だと思ってさぁ」

「ちがうちがう、これ蛾だよ」

「蛾!?」

「ヤママユの仲間」


 蝶だとばかり思い込んでいた私は落胆した。「なんだ、蛾かぁ」と唇をとがらせて虫かごをのぞきこんだが、太陽の光に透ける淡い緑色の翅を見ていると、不満はどうでもいいことのように消えていくのだった。


「蛾って何食うの?」

「多分葉っぱ。とまってた木の葉っぱ入れとけばいいんじゃない」


 雑貨屋の洒落たランプシェードのような翅をもつ蛾は、虫かごの柵にしがみついてなかなか動かなかった。私はときおり虫かごを軽く振って、イザベラミズアオが生きているのを確かめた。

 そうして友人と連れ立って山の入口まで戻ると、たくさんの葉をもぎとって虫かごの中に入れた。


 来る日も来る日も、私はイザベラミズアオをながめて過ごした。虫かごに手を入れると指先にとまることさえあって、この上なく愛着がわいた。友人たちに見せると「いいなあ」と目を輝かせるものだから、すっかり得意になった。

 兄はあまり興味がないらしく「放してやれば」とだけ言ったが、せっかく手に入れた珍しいものを野に放つのがいやで拒んだ。外に逃してしまえば、友人たちの誰かが捕まえるかもしれない。

 そうこうするうち、イザベラミズアオはだんだんと翅をふるわせなくなって、虫かごを振っても動かないことが増えてきた。もちろん世話を怠りはしなかった。飢えないように定期的に新鮮な葉を虫かごに入れた。


 ある朝、とうとう虫かごの底で動かなくなっているイザベラミズアオを見つけた。

 なぜだろう、大切にしていたはずなのに、と私は悲しくなった。虫かごをながめて過ごした時間が無駄になってしまった気がして、腹を立てさえした。どうせ蛾だ、とむくれた。

 どうしてもっと長く生きないのだろう。イザベラミズアオが食べ残した葉はすでに乾燥しつつあって、虫かごの柵のすき間からぽろぽろとこぼれ落ちた。

 事切れたイザベラミズアオに触れることを、私は躊躇した。虫かごの金具を外して机の上にひっくり返すと、かさりと乾いた音をたてて落ちた。元気だったころ、ゆっくりと翅を上下させて飛んでいた姿とは大違いだった。

 まじまじと見つめると、美しかった翅にほころびをいくつも見つけた。鱗粉がはがれ落ちたのか、翡翠色に澄んでいた翅はまだらに白く見えた。毛の生えた触覚はいくつか抜け落ちていて、脚は曲がったままぎゅっと抱きかかえるように縮んでいた。

 私は唇を結んでこれ以上翅を傷つけないようにそっと広げると、イザベラミズアオの胸に細いピンを刺し込んだ。

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