第九夜┊十七「血染めの白衣」
見慣れた白い廊下と消毒液の匂いは、たった数日ぶりやのに随分と懐かしく感じられた。
ふらつく足を叱咤し、なんとか笑顔を貼り付けて病室の扉を開く。
上体を起こした桜子は、久し振りに健康な肌色を取り戻しとった。淡いその目が俺を向いて、帰還への喜びを浮かべたのも束の間。
「鴉取……っ!」
口元を覆う桜子に、まだ気付いてないカルタ嬢ちゃんがぱっと顔を上げて「おかえり!」なんて言いながら俺に駆け寄ってくれる。
けどその足も、いつもみたいに俺に飛び付く前に止まってしもうた。
……ワンチャン、二人とも俺の変化なんかに気ぃ付かへん可能性に賭けとったけど、そんなはずもなく。
「あとり。はね、なくなってる……」
差し出した生八ツ橋に見向きもせず、小さな手が俺の服を握り締める。あちこち血の滲んだ服が、俺に触れたカルタ嬢ちゃんの手をべっとりと汚した。
✤
飛べなくなった俺を、大国主様は豪華な屋形車に乗せて、桜子のいる病院まで運んでくれはった。
さすが天下の大国主様。アフターサービスもバッチリや。
……なんて自分を鼓舞せぇへんと立ち上がれんくらい、俺は衰弱しとった。
三日三晩かけて翼を切り落とされた俺は、何度か自分の正体さえ見失っとったらしい。
自分の式神が消滅しかかっとることに気付いた総司は、屋形車を追って俺と大差ないタイミングで病院へと辿り着いた。
「愚かなことを」
黙りこくる俺に一言、総司はそう言って眉間を押さえる。
神々との契約は、基本的に他言無用。
俺は何も言われへんかったけど、いくらか持ち直した桜子を見て、総司は俺の翼が対価として差し出されたことを悟ったようやった。
さすがに桜子の前でそんな話はできひんから、酒吞ちゃんが病室から俺を引っ張り出す。
いつもやったらそのまま放り投げられとったやろうけど、今回ばかりはさすがの酒吞ちゃんも俺の身体を叩きつけるようなことはせず、廊下のベンチにそっと横たえた。
「バカ鴉取。こういうのは気付かれへんようにやるもんや」
酒吞ちゃんは罵りながらも、檻紙に急ぎ調合してもらった痛み止めを塗ってくれる。
俺は自分の腰がどうなっとるのかなんてよう見られへんかったけど、酒吞ちゃんはその傷跡を見て「……痛かったやろ」と項垂れた。
「他のみんなが痛い思いせんよう、うちが前衛に立っとるのに……。これじゃあなんの意味もない……」
「これは男の勲章やろ、酒吞ちゃんが気にするようなもんやないよ」
それにほら、お揃いやし、と焼き付けられた呪印を見せる。
俺が直接交渉したのは大国主様やけど、大国主様は既に結ばれとった土地神の契約を延長するために仲介しただけやから、俺の契約先も土地神になるらしかった。
「式神が二人して土地神と契約したなんて、総司が知ったらどう思うか……」
「ほう、詳しく話を聞こうか」
いつの間にかすぐそばに立っとった総司に、俺と酒吞ちゃんの肩が跳ねる。
言い逃れできる状況やなかったけど、それでも言い逃れるしかなくて、俺は視線を四方八方にさまよわせた。
「な、なんでもあらへんよ。なぁ酒吞ちゃん?」
「……」
「せ、せや、総司も生八ツ橋好きやろ? カルタ嬢ちゃんが全然手ぇつけてくれへんくてなぁ、一緒に食べたってや」
じっと俺らを見下ろす総司に、あたふたとその場しのぎの世間話を繰り広げる。
俺らは基本的に総司には絶対忠実やけど、自分の身を削って桜子の寿命を延ばす手段があるなんて知ったら、総司は掛け値なしに全てを捧げてしまうやろう。
あんま表には出されへんけど、総司はそれくらい桜子のことを大事にしてはったし、桜子やって自分が深く愛されとることを自覚しとる。
だから桜子も、自分の死後の総司を憂いて「綺麗な女の人を紹介してあげて」なんて俺に頼んできたんやろう。
酒吞ちゃんもそれをよう分かっとるから、下手な誤魔化しすらせず黙秘を貫いた。
俺が一人でべらべらと生八ツ橋の起源について語り始めたのを総司は黙って聞いてくれとったけど、俺が自分でも何言うとるのかわからんくなってきた頃合いで、「茶を淹れよう。蜜鬼、手伝ってくれるか」と酒吞ちゃんに声を掛けた。
ようやっと追及を諦めてくれた総司にほっと胸を撫で下ろしたけど、包帯だらけの俺を見て、総司が目を細める。
「……俺が大事にしているのは、なにも桜子だけではない。鴉取。お前の行動を俺が喜ぶと思っていたなら、考えを改めろ」
「え、あかんかった? 俺が今まで以上に役に立たれへんようになるから?」
「……。お前も一度、桜子と一緒にテストを受け直せ」
それから、俺はお前が役に立たないなどと思ったことは一度もない。と真っ直ぐに俺を見据えて言い切ると、総司は酒吞ちゃんの手を引いて給湯室へと向かった。
✤
春の花はすっかり散って、カルタ嬢ちゃんは四歳になった。
檻紙に宣告された死期こそ乗り切ったけど、桜子は退院できるほどには回復せぇへんかった。
それでも、膨らんだ腹を撫でながら「前よりはずっと体調がいいの。鴉取の生八つ橋のおかげかしらね」なんて言うて笑ってくれる。
乾燥していた空気がじっとりと水気を帯びて、夏がやってきた。
妊娠後期に入りはじめた、七月の半ば。
エコー画面を眺めながらさらっと告げられた「男の子ですね」という医者の言葉に、その場の全員が固まった。
安定期もとうに過ぎとったけど、腹の子ぉより母体が安定しとらんかったから、それまで言及を避けとったらしい。
医者いわく、「赤ちゃんは母体よりもずっと健康」とのことで、黙りこくる俺らを差し置いて桜子だけが「まあ、良かったわ!」なんて手を叩いて喜んどった。
「カルタ嬢ちゃん、聞いた? 弟やって!」
「おとうと……」
何の前触れもなかった性別発表に、カルタ嬢ちゃんはしばらく呆然としとったけど、桜子の腹に「おとうとでもいもうとでもいいから、げんきにうまれて、わたしとあそぼうね」と話しかけた。
✤
「男の子! 男の子やって!」
酒吞ちゃんがばたばたと雛遊の廊下を走る。
怪異の前に立つようになってから感情を捨て、他人の前ではすっかりお人形さんみたいになってもうた酒吞ちゃんが、こんなにも大はしゃぎして見せるのは久し振りやった。
けどそんなに喜ばれると、まるでカルタ嬢ちゃんの存在を否定されとるようでむっとする俺に、「これで、桜子のことを貶めるやつなんてもう誰もおらん!」と酒吞ちゃんが輝く瞳で振り返った。
「ああ、それでそんなにはしゃいどるんか」
「失礼やね、うちは赤子の性別なんてどっちでもええよ。でも人間はちゃうやろ。これまで桜子とカルタ嬢ちゃんが、どんだけ汚い言葉を浴びせられてきはったか……」
やれお妾だの石女だのと蔑まれた桜子を思い出してか、一瞬酒吞ちゃんの顔に影が落ちる。けど、「それももう終わりや!」と酒吞ちゃんが両手を広げて飛び跳ねた。
「坊っちゃんが生まれたら、桜子は立派な雛遊の奥方様や。長かったけど、これでもう誰にも後ろ指さされることなく、堂々と生きていけるんよ!」
綾取と檻紙からまたたんまりお祝いをもらうやろうから、蔵を片付けておかんとなぁ、なんて言って、酒吞ちゃんが緩みきった頬でにこにこと笑う。
初めて桜子が嫁いできた時は俺らも返品だの反対だのと騒いどったのに、いつの間にかすっかり絆されてしもうたなぁ、となんだか当時が懐かしくなった。
十一年。干支も一周しようかっちゅー歳月は、俺らをすっかり変えてもうた。
苦節というには長すぎる年月を経て、少女だった桜子は、立派な母親になった。
病弱な十八の桜子に、誰も期待なんてしとらんかったやろう。心ない言葉にも、冷たい態度にも、目の前で人を襲おうとする怪異にさえも、桜子は屈することなく立ち向かい続けた。
その結果が、ようやく実を結んだんや。
同じように桜子に惹かれて変わっていった、酒吞ちゃんの喜びもひとしおやろう。
なんだか目頭が熱くなって、ごまかすように庭を見る。
雛遊の庭池では、淡く色付いた蓮の花が、桜子の髪によう似た色を咲かせとった。
「綾取の離宮、今年は見に行けへんくて残念やったね」
「ええよ。これからいっぱいお出かけしたらええ。来年の夏には嬢ちゃんや坊っちゃんも連れて、桜子と一緒にユリを見に行くんや」
楽しみやなあ、と空を仰ぎ見る酒吞ちゃんの目には、きっと輝く未来が映っとるんやろう。
ストイックな酒吞ちゃんは、命じられた時以外に総司のそばを離れたことはあらへん。
任務以外で外に出たことのない酒吞ちゃんは、桜子と花が見られる日を、誰よりも、なによりも心待ちにしとった。
ずっと、そんな日が来るのを夢見とった。
「……なぁ、だからアンタはこんなところで死ぬわけにいかへんやろ。俺が酒吞ちゃんに怒られてまうよ」
腕の中の桜子に必死に話しかける。
ぐったりと力なく身体を預ける様子と、その胸から溢れ続ける血の温かさは、まるで初めて会った時の、高熱に魘される桜子のようやった。