第九夜┊十六「血染めの白衣」
桜子は容態の悪化に伴って、少しずつ心も弱っていった。
これまで、どんな苦境や謗言にも勇ましく立ち向かっていった桜子が、背を丸めながら弱々しく「ごめんなさい」と繰り返す。
のどが渇いたやろ、と水をとってやれば「ごめんなさい」。発作を起こしてひっくり返してしもうた食事を片付けとると「ごめんなさい」。
そない謝らんでも、桜子はなんにも悪いことしとらんのに。
まるで罪人にでもなったみたいな萎縮ぶりやった。
総司と酒吞ちゃんが、寝る間も惜しんで地方を駆け回っては、大した成果が得られなかったと手紙で送ってよこすのを、桜子はなによりも気に病んだ。
二人の貴重な時間と労力を、自分のせいで食い潰してしまっとるんやと思うとるようやった。
もう起き上がれもせん身体で、桜子は「討伐に戻りたい」と口にし始めるようになった。
けどそれは、以前の桜子みたいな、自信に満ち溢れたものとは違う。「どうせ残り少ない命なら、少しでも役に立って死にたい」なんて思うとるのが透けて見えとった。
「アンタがそない無理して立ち上がる必要あらへんよ。総司は一人でも戦える」
「あの人は確かに強いけれど、一人で戦えるほど強くはないのよ。……ねえ鴉取。私がいなくなったら、総司さんに綺麗な女の人を紹介してあげて。私の影をいつまでも追わなくていいように」
「……そないなことしたら俺、総司にボコボコにされてまうよ」
なにアホなこと言うとるの、と桜子をなだめて布団をかけ直す。
桜子はそんな俺の手をつかんで、「お願いよ」と繰り返した。
「総司がアンタのこと忘れられるわけあれへんやろ。弱気なこと言うとらんと、はよう元気になりや。カルタ嬢ちゃんかて、アンタがおらんと生きていかれへんよ」
ついに自分の死後の話にまで言及し始めた桜子に、俺は内心動揺しつつもそう返す。
冬の寒さもすっかり過ぎ去って、窓の外では満開の桜が咲き誇る。
——檻紙に告げられたタイムリミットが、刻一刻と近付いとった。
✤
桜子の命が音を立てて削られていくのを、俺は誰よりも間近で感じとった。
俺やって、ただ眺めとったわけやない。檻紙や総司たちと書や記録を調べては情報を共有し、あらゆる方法を模索したけど、もう後がなかった。
いよいよ神頼みしかあらへんわ、と俺は諦めて窓を開ける。
——俺が生まれ育った鞍馬山は、京都でも有数の霊峰や。
厳しい勾配と険しい道のりの九十九折参道を抜ければ、厄除け祓いと病気平癒、子授安産を司る、由岐神社に辿り着ける。
総本山の鞍馬寺には出入禁止で参られへんけど、鞍馬の鎮守社である由岐神社なら、もしかしたら耳を傾けてくれるかもしれへん。
「……ちょっとばかし、里帰りしてくるかぁ」
酒吞ちゃんがいたら絶対に止めたやろうけど、今ここには桜子とカルタ嬢ちゃんしかおらへん。
京都に明るくない桜子は、「いいわね、里帰り。いつか私もあなたの故郷を見てみたいわ」と痩けた笑顔で手を合わせた。
「ほな、ちょっと出掛けてこようかな。カルタ嬢ちゃん、ほんの少しだけ桜子のこと任せてもええ? おみやげに生八ツ橋買うてきたるわ」
「いいよ。わたしがお母様のそばにいる。……いってらっしゃい、あとり」
賢いカルタ嬢ちゃんは、俺が物見遊山の里帰りしにいくわけじゃないことをなんとなく悟っとったけど、しっかりとした瞳で俺を見送ってくれる。
留守中の世話や二人の食事について、事細かに雛遊の奉公人に伝えると、俺は病室の窓から飛び立った。
✤
村社会っつーのは、どこの世界でも狭苦しいもんや。
その地域に属して貢献しとる間は堅牢なコミュニティに守られるけど、一度鞍馬を捨てて出ていったはみ出し者を、温かく迎え入れてくれるほど寛容やない。
鞍馬の麓に辿り着いた時点で、吹き荒ぶ強風と轟く雷鳴に「おーおー、怒ってはるなぁ」と嘆息しながら、俺は九十九折の道を歩いて登った。
こんなもん飛んでいけば一瞬やけど、神様を参る時はこういう礼節を大切にせなあかん。
ただでさえ、ここでの俺の心象は良くない。
来訪を拒み、吹き飛ばそうとする向かい風に抗いながら、俺は一歩一歩踏みしめて山を登った。
「恥知らずの鴉取め」
「裏切者が何の用か」
「どの面を下げてこの鞍馬に戻ってきた」
天狗どもが集まってピーチクパーチク囀っとったけど、こんなん日頃桜子に向けられる謗言に比べたら可愛いもんや。
怪異の矜持を捨て、祓い屋に傅く俺は、そら歓迎なんてされへんやろう。
俺はざわめく天狗どもを無視して、由岐神社の鳥居をくぐった。
由岐神社に祀られとる神様はご多忙やし、ここが本拠地っちゅーわけでもないから、本殿は大抵空席のままやった。
けどこの時期の鞍馬は、花会式っつー祭事の真っ只中。花や歌舞音曲を献じられるために、神様も降りてきはるかもしれへん。
そう期待しての里帰りやったものの、着いて早々、明らかに御座しはる本殿の中の気配にぎょっとする。
「久しいね、鴉取」
「……お、大国主様もご壮健そうでなによりです」
気安く掛けられた声に、慌てて膝を折る。
大国主様は全国津々浦々、いたるところで祀られとる国創りの大神や。元々複数神を祀る由岐神社で、いつもなら出雲大社に御座されはる大国主様を引き当てるなんて超激レアもいいところやった。
「いやあ、出戻りの鴉天狗がいると聞いてね。顔を見に来たのだよ」
「……大国主様に楯突くつもりはあらしまへん。今日は身内の病気平癒を参りにきました」
「雛遊の細君か。あれも難儀な娘だ。残念だが、そう永くはないだろう」
「お頼もうします。桜子の身体を治してくれはりませんか。俺にできることならなんでもします」
平身低頭して、床に額をこすりつける。
けど、大国主様は「難しいだろうね……」と難色を示した。
「彼女は酒呑童子の契約によって、お前たちが『土地神』と呼ぶものと縁を結んでしまっている。成り上がりとはいえ神は神。他神の領域を侵すことは規則違反だ。神々の模範たる私が、やすやすと規則を破るわけにはいかない」
「けど、酒吞ちゃんの契約は反故に……」
「いいや、土地神はきちんと契約を履行しているよ。桜子は既に何度も命を延ばされている。元々限界だったのだ。……鴉取、彼女の苦痛を和らげたいと望むのであれば、私はそれを取り除き、安らかに天へと送ってやれるよ」
ひゅっと喉を空気が通る音がした。
大国主様は話が通じる神様や。神々を統べる者として、けれど傲ることもなく、こうしての一介の鴉天狗の声にも耳を傾けてくれはる。
その分、大国主様の言うことは絶対や。
大国主様が無理って言うたら無理なんやろうし、ここで俺が頷いたら、その瞬間に桜子は天寿を全うするやろう。
「ま、待ってくらさい……! お頼もうします、俺は桜子を殺したいわけやのうて……!」
「もちろんわかっているよ。しかしね、彼女の苦しみはお前が思っているよりも、辛く厳しいものだ。死期を超えて無理やり永らえさせているのだから当然だろう。……まったく、あの街の守り神が勝手に神議を動かすからこのようなことに……」
一瞬、大国主様が額を抑えながら冷たい目を宙に向けたが、「とにかくだ」と俺に向き直る。
「私は難しいとは言ったが、無理だとは言っていないよ。もし、それでもお前が彼女の延命を望むなら、もう少しばかり死を先延ばしにしてやることはできるだろう。しかし、彼女の延命は既に神議の天秤に乗せられた。契約の延長には、再び贄が必要になる」
「構いまへん、少しでも桜子が永く生きられるなら……!」
追い縋る俺に、大国主様は「よく考えてから決断しなさい」と語り掛ける。
「人の命は重いよ、鴉取。燃え尽きようとする灯火を無理に燃やし続けるのは、双方にとって良いことではない。常なら私はお前の願いに応じなかっただろう。……ただ、彼女の腹には子が宿っている。このわずかな延命は、その子の命を救うことになるかもしれない」
舞い散る花の合間を縫って、遠くから高らかな笛の音が響いてくる。
賑々しい花会式の歌舞音曲に耳を傾けながら、大国主様は鳥居の外に目を向けた。
「由岐神社は子授けの社。重い贄を捧げてなお、その選択を後悔することがないのならば。……彼女の命を削って生まれてくる子をお前が祝福できるのならば、私はお前の願いを聞き届けよう」
「二言はありまへん。桜子と腹の子を、どうか助けてくれはりませんか」
低く、低く頭を下げ続ける俺に、大国主様は深く頷いて、厳かな声で宣告した。
「ではお前から、天翔ける両翼を切り落とす」
大国主様に命じられて、鞍馬の天狗が大きな斧を持って前に出る。
体長の倍はある大斧はボロボロで、真っ黒に錆びついた刃先はヒビ割れとった。
血と脂で錆びついた神具じゃ、きっと一度で翼を切り落とすことなんてできへんやろう。
天秤は等しく価値を図る。
俺の苦痛と絶望が大きければ大きいほど、桜子の寿命を延ばして貰えるやろう。
……けど俺は、俺自身のことをあんまり信用しとらん。
耐えられるやろか、と自問して、無理やろうなぁと情けない自答を返す。
「……轡を噛ませてくれへん? 元お仲間にみっともない声聞かれとうないんよ」
ヘラリと笑って控えとった天狗たちを振り返ると、ひそやかに話し合われた後、やがて革轡が取り出された。
不愉快な味とざらりとした感触に、口の自由を奪われる。
きっと次に目を覚ました時には、桜子とカルタ嬢ちゃんが笑って迎えてくれるはずやと信じて、俺は静かに目を閉じた。