第九夜┊十五「血染めの白衣」
その後どうやって帰ってきたのか、俺はよう覚えとらん。
ただ桜子の余命を聞いた酒吞ちゃんが、呆然と「そんなはずない」と呟いとったことだけが、やけに印象に残っとる。
桜子は個室に入院することになった。
医者に呪いなんて説明できるはずもなく、病名のつかへん桜子は保険診療を受けられへんかったけど、そこは天下の雛遊。総司が金に糸目をつけず、高級個室を半ば買い取る形で、自由診療の病院にねじ込んだ。
「まあ、ちょっと不自由やけどしゃーなしやな。いくらでも見舞いに来たるから、体が良うなるまでここで大人しくしとき」
「そうね。しばらくの休暇だと思うことにするわ。今度私の部屋から本を持ってきてくれる?」
やけに殊勝な桜子に、「なんや、今回はいつもみたいに『私も働けるわ!』とか言わないんやね。そんなに具合悪いん?」と額に触れると、「自分一人の体じゃないもの、無理できないでしょう」と返された。
「春までじゃ、全然足りないわ……」
桜子が外の世界に焦がれるように、曇った窓ガラスに手を触れる。
この時の俺は、桜子はやりたいことに対する残り時間の少なさを嘆いとるもんやとばかり思っとった。
けど今思えば、この時から既に桜子は、腹の中の子を取り出すのに必要な時間を数えとったんやろう。
桜子の容態は、真綿で首を絞めるように、じわじわと悪化の一途を辿った。
✤
「まさかあの子を疑ってるんじゃないでしょうね、総司。檻紙は人を守るための家。桜子を呪うはずがないじゃない」
「檻紙を訪れたのは、あくまで檻紙当主の見解を訊くためだ。可能性がゼロとは言わないが、檻紙の品性は信用に値する。少なくとも俺個人としては疑っていない」
「あら、そう」
扉を蹴破る勢いで総司の書斎を訪れた綾取は、総司が檻紙を疑ってないと聞いて、あっさりクールダウンしたようやった。
今にも掴みかからん勢いで、文机に乗り上げていた片足をようやく下ろす。
蹴散らされた報告書を拾い集めながら、「早とちりして悪かったわね」と尊大な態度で謝罪を口にした。
「檻紙本人はそう思っていないようだがな」
「仕方ないわ。あの子は無実を証明するまで、自分が疑われるべき存在だと思い込んでいるんでしょう。家の名を背負うというのはそういうものよ。檻紙の紋が刻まれていたなら、無実であっても無視はできない」
だから私が来たのよ。と続けて、綾取が報告書を突き付ける。
「古い記録だけれど、土地神に関わった者にも檻紙の紋が刻まれた例があるわ。檻紙と縁の深い土地神の祟りは、檻紙によく似た紋を記す。そして私達の目では呪いと祟りの違いなんてわからない。桜子は呪われたんじゃなく、祟られた可能性もあるということよ」
「……それは、檻紙の無実を証明するには役立つが、同時に桜子を治療する手段が絶無であることを意味する」
総司の言葉に、綾取が唇を噛む。
人の呪いも、怪異の霊障も、原因となった者を見つけ出して倒してしまえば、きれいさっぱり消し去れる。
けど神々の祟りは、神々を殺しても収まることはない。
桜子の不調が呪いじゃなくて祟りだったなら、いよいよ打つ手がなくなるやろう。
それを一番よくわかっとる綾取は、「あくまでも可能性の話よ」と一歩引いた。
「……最近、土地神を祀る地蔵や祠ばかりを、誰かが狙って壊してるの。街の社は全滅よ。……嫌な空気だわ」
「それが桜子に関連していると?」
「それこそ桜子を疑ってなんかいないわ。けれどその不届き者が、土地神の怒りの矛先を桜子に向けるよう仕向けた可能性はあるでしょう」
綾取の言葉に、総司は暫く考え込んどったようやった。
檻紙は何度も手紙をよこした。
少しでも関連のある書物が見つかれば鳥を飛ばし、桜子の苦痛を和らげようと希少な薬剤を惜しみなく煎じた。
檻紙の薬は確かに効いて、飲んだ直後の桜子は「とても形容できない味だわ」なんて笑えるくらいには元気になった。
けど、押し寄せる発作の波は段々とその間隔を狭めて、俺は毎日のようにカルタ嬢ちゃんの前で苦しみ続ける桜子を、ただ見とることしかできへんかった。
✤
「うちと総司で呪いを掛けた術者を探してくる。神々の祟りなら、その神々を訪ねてやめさせる。鴉取、うちらが居らん間、桜子のことお願いな」
酒吞ちゃんは簡素な旅支度を終えると、そう言って俺に深々と頭を下げた。
ほんまなら、酒吞ちゃん自身が桜子やカルタ嬢ちゃんのそばに残って二人を守りたいんやろう。桜子やって、酒吞ちゃんの方がいくらか気軽に喋れてええかもしれへん。
けど、呪いに耐性がない俺と違って、鬼は毒や呪いに強い。
呪いを扱う者を敵に回すなら、それが人間だろうと怪異だろうと神々だろうと、酒吞ちゃんの方が適任やった。
「つくづく俺は役に立たれへんなぁ……。総司の札で呪いに対抗できたりせえへんやろか。そしたら俺が代わりに調査に行けるんやけどなぁ」
「できるやろうけど、桜子がこんなになっとるのに、同じ轍を踏む可能性を総司が考えへんはずないやろ。ミイラ取りがミイラになっとったら笑われへんわ」
「そうやねぇ……。酒吞ちゃんはいつも強くて格好ええなぁ、俺も酒吞ちゃんみたいになりたかったわ」
しょぼくれる俺を、酒吞ちゃんがじっと見つめる。またなにか辛辣なことでも言われるんやろかと身構えたら、何を思ったか酒吞ちゃんは俺の胸ぐらを思い切り掴んで、そのまま引き寄せた。
「……!?」
唇に触れる、かすかな感覚に固まる。
えっ、なに、別れのキス? 酒吞ちゃんってもしかして俺のこと好きやったん? とぐるぐる考えとる俺をしばらくしてから突き飛ばすと、「そんなわけないやろ、寝言は寝て言いなや」と酒吞ちゃんが唇を拭いながら蔑んだ目を向けた。
「え、いや、ほんまに今のなに……? 俺、先三日は眠れそうにないんやけど」
「別に。やっぱなんも感じないんやなぁって確かめとっただけ」
「俺の純潔をリトマス試験紙にせんといて……」
まだドギマギしとる俺を置いて、酒吞ちゃんは「うちちょっと桜子に出立の挨拶してくるわぁ」と桜子の病室の扉を開ける。
何を確かめとったんか知らんけど、ようわからん理由でファーストキスを奪われた俺は怒ってええんやろか。
しばらく悩んた末に「まあ、どうせ貞操を守ったとこで一生キスする相手も現れへんやろし、ええか」と俺は考えることをやめた。
病室は静かで、少しだけ開けられた窓の先から、かすかに春の気配が流れ込む。
最近は意識も薄ぼんやりしてきた桜子の、弱った心音を告げる規則的な電子音と点滴の落ちる水音だけが、白い部屋に響いとった。
カルタ嬢ちゃんは、これからしばらく帰られへんやろう総司と一緒に、今日は二人でお出かけしとる。
酒吞ちゃんも桜子と二人で会話したいやろと思って、俺は二人を遠巻きに眺めながら、病室の壁にもたれかかった。
「なあ桜子。うち、ちょっとお出掛けせなあかんくなってもうた。帰ってくるまで、少し時間かかるかもしれへん。それでも待っといてくれる? もう少しだけ、頑張ってくれる?」
ベット脇に腰掛けて、心配そうに桜子の手を握る酒吞ちゃんに、桜子は弱った笑顔を向けながら、「もちろんよ」と答えた。
「帰ってきたら、私とお出かけしましょう。考えてみたら、蜜鬼ちゃんとは討伐以外で外に出たことはなかったわね。蜜鬼ちゃんは行きたいところや、やりたいことはある?」
「やりたいこと……。あの、……うちも、お花見してみたい。綾取の離宮のユリ、うちも見てみたい」
「ええ、必ず。今度は蜜鬼ちゃんも着飾って、一緒に行きましょうね。……約束よ」
桜子が酒吞ちゃんと小指を結ぶ。
二人はしばらくそのままやったけど、やがて穏やかな寝息を立てる桜子から酒吞ちゃんが小指をほどいて、骨の浮いた桜子の手首をそっとベッドに横たえた。
眠ったままの桜子に、「……うちが生まれた大江山は、毒と瘴気が酷くてな。花が咲かないんよ」と酒吞ちゃんが一人で語り掛け続ける。
「雛遊の庭はええな。季節に合わせていろんな花が咲く。八月には綾取の離宮でユリが見頃になるって、昔うちに教えてくれたのは総司やった」
懐かしむように、酒吞ちゃんが目を閉じる。
ユリがどんな形で、どんなものかも知らんかった酒吞ちゃんに、総司は一度だけ、綾取の離宮からユリの花を摘んで帰ったことがある。
その瑞々しい花の色と香りは、毒と血しか知らなかった幼い鬼の子の心をどれだけ揺さぶったやろうか。
「……うち、ずっと桜子が羨ましかった。きれいな着物きて、総司と手をつないで、隣でユリを見られる桜子がずっとずっと羨ましかった。うちはこんなに必死になって、死ぬほど痛い思いして、全てを命令に捧げてやっと総司の役に立っとるのに、突然現れて、あっさり総司に存在を認めてもらえる桜子が羨ましくて仕方なかった……」
艶を失った桜子の髪に、酒吞ちゃんが手櫛を通す。
外で手折ってきたらしい、まだ蕾が綻びかけたばかりの桜の枝を一房、桜子の髪に差して「桜子は花がよう似合うねえ」と穏やかに笑った。
「でもな、うち、桜子のことも大好きになってしまったんよ……。桜子と総司の二人ともに幸せになって欲しいって、どんどん欲張りになっていってしもうた。カルタ嬢ちゃんが生まれてからは、祈る幸せが三人分や。……でも、あれもこれもは叶えられへんやろ? だから一個だけ、一番要らんものを手放すことにしたんよ」
うち、昔から諦めることは得意やったから。
そう言って笑う酒吞ちゃんは、言葉尻と違うて、優しい顔を浮かべとった。
「うち、総司が好きやった。大好きやった。役に立ちたかった。隣にいたかった。手をつないで花を見たかった。流行りのロマンス映画を見てみたかった。交換日記をしてみたかった。もう一度、花を贈られてみたかった。うちも、桜子みたいになりたかった。……でも、うちは怪異やから、そんな日は一生来ぉへん。うちがこんな心を持っとるから、大好きな桜子のことも、たまに大好きなままでいられへんくなる。だから、だからな、こんな心は要らんのやって。うちの恋心を捧げるから、どうか代わりに桜子を元気にしてくれはりませんかってな、神様にお願いしてん」
酒吞ちゃんはぽすりとベッドに倒れ込んで、眠ったままの桜子に身を寄せる。
痛みに耐えるための唯一の指針だった恋心を失って、寄る辺のない酒吞ちゃんを支えたのは、他でもない桜子とカルタ嬢ちゃんの存在やった。
「神様、頑張ってくれはったみたいやった。うちは心穏やかになったし、桜子も産後しばらく元気やったやろ。みんな幸せで良かったんやけどな。どっかの誰かがそれを壊してもうた。……だからうち、取り返しにいかなあかんのや。うちがやっと手に入れた幸せを。桜子が努力して、やっと勝ち取った平穏を」
——だから、もう少しだけ待っといて。
酒吞ちゃんは話を終えて、ベッドから起き上がる。
目が合った俺はなんて声を掛けるかちょっと迷ったけど、「……酒吞ちゃん、そういう意味で総司のこと好きやったんか」と素直に思ったことをぶつけた。
酒吞ちゃんとは長らく一緒に居ったけど、そんな気配は微塵も感じひんかった。
それは、俺が特段鈍いことを除いても、きっと酒吞ちゃんが気の遠くなるような努力で隠し通しとったからやろう。
桜子が嫁いできてからは、尚更。
「さあ、もう思い出されへんわ。土地神がうちの要らんところを、ぜーんぶ食べてくれはったから」
そう言って髪を掻き上げた酒吞ちゃんの首筋には、焼き印のように檻紙の呪印が色濃く刻まれとった。
「檻紙の呪印は、桜子の呪いとは関係ない。これは土地神が、うちの恋心と桜子の健康を引き換えた契約の印や。でも桜子を呪っとる屑はどっかに存在する。うちはそいつを見つけるまで帰られへん」
やから鴉取、桜子のことお願いな。
再度、酒吞ちゃんは俺に念を押すと、桜子を起こさんように静かに病室から出ていく。
桜子が雛遊に嫁いで、十一年目。
俺らが桜子と迎えた、最後の春やった。
読み返すと、最初の酒吞ちゃんはその淡い恋心から、総司の結婚にも、桜子と総司をくっつけようとする鴉取の行動にも否定的だったことがわかります。
けれど少しずつ桜子にも心を開き、離宮のデートに送り出すため桜子に丁寧なメイクを施した時は、自分の心を押さえつけて、自分がやりたかったことを桜子が出来るようにと精一杯応援していました。
酒吞ちゃんが土地神に交渉しに行ったのは、カルタが生まれた直後。
鴉取目線で『ずっと付きっきりやった酒呑ちゃんは「鴉取、あと頼むで」と言い残して、それから三日ほど眠った。』時でした。