第九夜┊十四「血染めの白衣」
辿り着いた檻紙邸は、明るい檜の床と開放的な日本庭園を持つ雛遊の屋敷とは打って変わって、厳かな雰囲気に包まれとった。
真っ黒な漆塗りの門には、同様に真っ黒の真鍮でできた閂が下ろされとる。
春の終わりなら華々しく邸宅を彩っとったやろう藤の木も、冬真っ盛りの今では全ての葉と花を落として、寒々しい枝の背に雪を積もらせとった。
頑丈な結界に覆われた屋敷からは、物音ひとつ聞こえてこぉへん。
白銀の世界に異彩の存在感を放つ黒染めの屋敷は、来訪者の侵入を拒むように固く閉ざされとる。
男子禁制の檻紙邸では、当主の許可なくして中に入ることはできひんかった。
「……当主の許可が降りた。もう門は開いている」
ぼそぼそとした声に話し掛けられて振り返る。
総司によく似た顔の男が、長く伸びた前髪の隙間から気だるそうにこっちを覗いとった。
「ミカド君……、えらい久し振りやね」
「檻紙当主に用なんだろう。俺に構わずさっさと入れ。お忙しいのに貴様らのために時間を空けてくださった」
ミカド君は抑揚のない声でぼそぼそと捲し立てると、いかにも嫌そうな顔で閂を上げて門を開く。
かつては蜂蜜色だったその髪は、雛遊の存在を否定するように、真っ黒に染められとった。
ミカド君は総司の弟や。とはいえ、総司と似とるのは顔だけで、ミカド君は昔から無表情で蝶の羽をむしるような、言ってしまえば薄気味の悪い子ぉやった。
総司やって愛想のいい方やないけど、立場上顔に出されへんだけで、内面はみんなが思うとるよりずっと情緒的で慈悲深い。
けど弟のミカド君は、愛想が悪いとかそんなんとは全然違う。生まれつき心がないんやって噂やった。
総司は多少なりとも気にかけとったみたいやけど、俺らは正直、総司みたいな顔で、総司が絶対やらへんようなことばっかしとるミカド君があんま好きやなかった。
酒呑ちゃんがまだ「怪異となんて戦えへんよぅ」なんて言って震えとったか弱い時代に、ミカド君を呼びに行った先で床に並べられた無数のネズミの生首と対面して以来、ミカド君の話は俺らの間で半分禁句にさえなっとった。
雛遊は男児ってだけで持て囃される。叱られることなんてまずありえへん。
そんな雛遊ですら扱いに困るほどに、ミカド君の存在は腫れ物やった。
比較対象があの総司やし、捻くれるのは仕方ない。俺らが総司に仕え始めた頃から徐々にミカド君は雛遊に寄り付かんくなっとったから、俺らも存在こそ知っとるけど、ほとんど顔を合わせたことはあらへんかった。
檻紙におったんか、と内心びっくりしたけど、考えてみれば他に行く当てもない。
綾取は老若男女問わず平等に受け入れてくれるけど、平等に厳しく接する。早朝から過酷な稽古をつけられる体育会系の綾取じゃ、運動が嫌いで祓いの力もないミカド君は生きていかれへんやろ。
檻紙の女中に案内されて、桜子を抱えたまま迷路みたいな廊下を進む。部屋を開けた瞬間、待っていたらしい檻紙が俺らに気付いて駆け寄った。
「まあ、桜子さん! お話は伺っています。外は寒かったでしょう、早く中で暖まってくださいな」
邸宅内は十分暖かかったけど、檻紙はすぐに俺らを轟々と火の燃え盛る暖炉のそばに案内して、これでもかというほど毛布を巻いた。
「こ、こんなにしてくれなくても大丈夫よ」
「いいえ、この大切な時期に冷やしてはいけません。お祝いが遅れてしまいましたが、ご懐妊おめでとうございます。新たな命の誕生に心から祝福を。……しかし、折角のおめでたい日にこんなことになってしまって……」
ちょっと見せてくださいね、と檻紙が桜子の手を取る。
脈を測るようにそっと手首に指を乗せてから、肘まで辿るようにゆっくり滑らせていった。
静かに調べる檻紙の向こうで、耳慣れた足捌きが廊下を進む音が聞こえてくる。
「遅くなった。急に押しかけてすまない、檻紙」
「構いませんよ、ちょうど診せていただいていたところですが……。確かに檻紙の紋を刻んだ呪印ですね。嘆かわしいことです」
総司の横で、酒呑ちゃんがぱたぱたと肩から雪を払う。
俺と目が合うた酒呑ちゃんは、目線だけで入り口にいたミカド君への不快感を露わにしとった。
「治せるか」
「掛けられてから時間が経ちすぎています。呪印自体はもう消えましたが、発動してしまった今では意味もありません……。ところで桜子さん。不思議な気配があるのですが、袖の中に何か持っていらっしゃいますか?」
「え? ああ、今日学校で手当てをした子から、お礼にもらって……」
桜子が取り出したのは、小さな貝殻やった。
俺には何の変哲もない宝貝に見えたけど、檻紙はそれをうやうやしく受け取ると、「これは……」と声を上げた。
「なんやの、それ。悪いもんなら俺が叩き割ったるよ」
「いえ、むしろ……。これはとても強力な安産祈願の印。これがあったから、お腹の子は無事だったのかもしれません」
「妙だな、彼女の妊娠が発覚したのはつい先刻だ。手当ての礼にしては気が利きすぎている」
「そもそもこれは、その辺りの子供が気軽に手にできるような物ではないはずですが……」
神妙な顔で話し込む二人に、桜子が「あの」と遠慮がちに声を挟む。
「呪いを掛けた人って、もしかして、私の家の者では……」
言い募る桜子の言葉に、檻紙が長い睫毛を伏せた。
本家が短命な檻紙や。傍系やってそう多くはない。
檻紙の系譜やって総司に言われた時点で、呪いを掛けたんは桜子の生家なんやないかって考えは、俺にもあった。
けど意外にも、総司が「その可能性は低いだろうな」と両断する。
「ええ、これはとても複雑な術式です。並大抵のものではありません。……桜子さんの生家は、人ならざるものから距離をとって久しいでしょう。怪異も祓い屋も忌避する彼らが、わざわざ呪詛について調べたとも考えにくいですし」
「仮に調べたところで、奴らにこんな大層な呪詛が掛けられるとも思えん。可能性があるとすれば、元々呪術を生業にしているものが、たまたま檻紙の呪印を知って組み込んだか、……もしくは」
「私が犯人か、でしょうね」
淡々と檻紙が答える。
幼馴染から呪殺の嫌疑をかけられとるっちゅーのに、檻紙は少しも取り乱した様子を見せへんかった。
「自分ではないと証明するのは難しいですね……。術者側に残った痕跡を辿るなど、いくつか照合の手段はありますが……。仮に私が犯人ならば、呪いの痕跡をそのままにしてはおきません。照合は無意味でしょう」
「まさか、誰もあなたを疑ってなんかいないわ」
驚いて声を上げる桜子に、檻紙は静かに首を横に振る。
「私自身、あまり呪いに詳しくはありませんが、調べようと思えば調べられる立場にあり、掛けようと思えば掛けられる力があります。知らぬ存ぜぬではなんの根拠にもなりません。そして私は、自分を除いてこのような呪いを掛けられる檻紙の血筋に、誰一人心当たりがありません……」
「そんな風に言わないで。あなたじゃないことなんて判ってるわ。そうでしょ? 総司さん」
さも当然と振り返る桜子に、総司は沈黙で返した。
答えられない総司の代わりに、檻紙が優しい声音で「桜子さん」と声を掛ける。
「こういうことは日頃の行いや相手の印象ではなく、できるか、できないかで判断するべきです。……私達も常日頃、毒や呪いの脅威に晒されています。総司さんも毒を飲まされたことが一度や二度ではありません。そしてそれは、全て身近な者の犯行でした」
「そんな……、でも、私は」
「私を信じてくださるあなたの優しさは、とても嬉しいです。けれど嫌疑が晴れるまで、私を疑うしかない総司さんのお心もわかってあげてください。私としてもこのような事態は非常に遺憾です。疑いを晴らし、必ずやあなたを夏の日差しの元に帰しましょう」
「夏の……?」
はた、と檻紙が失言に気付いて、自分の口元を手で覆う。
総司は呪いが掛けられているとは言っとったけど、それがどういう類のものなのかは説明しとらんかった。
「……すみません。口が滑りました」
「構わない。どうせ説明するところだった」
肩を落とす総司に代わって、檻紙が重々しく口を開く。
白銀の長い髪が一房、その肩をさらりと滑って落ちた。
「桜子さん。あなたに掛けられた呪いは複雑怪奇で、どういう効果があるのか断言はできません。しかし、呪いがあなたの体を蝕んでいるのは事実。このままでは……。春の花が散るまでに、桜子さんの命は使い果たされてしまうでしょう」
御三家の家紋は皮肉からつけられています。
短命の檻紙は「長寿」の藤。
過ちの綾取は「完璧」の椿。
一人残される雛遊は「追憶」の橘。