第九夜┊十三「血染めの白衣」
それからしばらく、桜子の体調は平常を保っとった。
渋る総司をあの手この手で説き伏せて、桜子は宣言通り戦線にも復帰した。
調査段階では俺が出向くかわりに、酒呑ちゃんと桜子は留守番になる。総司も普段から気に掛けとる分桜子の機微には聡いけど、俺は総司よりも勘の鋭い酒呑ちゃんの方が、桜子の不調に気付くんやないかって心配やった。
けど幸か不幸か、酒吞ちゃんはそれどころやないみたいやった。
カルタ嬢ちゃんが「しゅてん」よりも「あとり」を先に覚えたことに、えらくジェラシーを感じとったらしい。
調査に出掛ける俺を尻目に、「帰ってくる頃には、鴉取のことなんてすっかり忘れとるかもしれへんなぁ」と酒呑ちゃんがカルタ嬢ちゃんの頭を撫でる。俺は真っ青になりながら、ひとつ調査を終えるたびに飛んで帰った。
「すてん」
「あーん。惜しいなぁ、もうちょっとやで。しゅ、て、ん」
「す、て、ん」
「そない急かさんといてあげてや。カルタ嬢ちゃんは頭ええから、そのうち酒呑ちゃんの名前も言えるようになるやろ。気長に待ちやー」
既に名前を覚えられとる俺は、優越感に浸りながらスキップする。酒呑ちゃんはそんな俺を忌々しそうに一睨みしてから、カルタ嬢ちゃんの前にしゃがみこんだ。
「カルタ嬢ちゃんは特別に、うちのこと蜜鬼って呼んでええよ」
「みつき?」
「せやせや! カルタ嬢ちゃんはどっかの鳥頭と違うて、ほんまに賢いなあ」
名前を呼ばせることにようやっと成功した酒吞ちゃんは、大喜びでカルタ嬢ちゃんに頬擦りする。
俺は酒呑ちゃんに桜子のことがバレへんでよかったと思う反面、「……あれ? 酒呑ちゃんのこと名前で呼んでへんの、もしかして俺だけやない?」とはたと気付いた。
俺も一度だけ酒吞ちゃんを名前で呼んでみたけど、無言で拳が飛んできただけで返事はくれへんかった。
✤
桜子が次に倒れたのは、それから二ヶ月後のことやった。
青白い顔で冷たい汗を流しながら、ヒューヒュー喉を鳴らす桜子は、前回よりもずっと苦しそうやった。けど何度病院に連れて行っても、医者は首を傾けるだけやった。
桜子は一度目倒れた時よりもさらに長く苦しんどったけど、それでもしばらくすると治まるようで「なんでもなかったみたい、疲れてたのかしらね」なんてのたまう。
その日も保健医を務めた帰り道で、俺は学校が問題なんやないかと疑った。
どう考えたって、祓いの場で治癒士として力を使う方が桜子の体力を削るはずや。そっちでは平気な桜子が、保健医の帰りにばかり倒れるのは不自然やった。
「……総司に」
「ダメよ、言わないで……」
みなまで言う前に、桜子に遮られる。
まだ冷や汗の残っとる顔に手拭いを当てながら、俺は判断を迷った。
「普通じゃあらへん、アンタの体に何かが起きとる。自分でもわかっとるやろ」
「大げさよ、鴉取。……ねえ、最近は少しずつ周りの空気も変わってきたの。今頑張れば、きっと雛遊の慣習も変えられるわ。正念場なのよ」
桜子の言葉に押し黙る。
周囲が桜子を見る目が、少しずつ変わってきとるのは事実やった。
総司にも事細かに教わって、治癒士として優秀な立ち回りができるようになった桜子は、今や綾取や檻紙からも声がかかるほどやった。
桜子の力量を疑うものは、もう誰もおらへん。
それでも、傍系出身の桜子をいまだに総司の妻として認められへん哀れな有象無象は、男児を産んでないことだけを必死になって責め立てとった。
桜子への謗言は、総司の前ではぱたりと鳴りを潜めとったけど、直接耳に入らんからって妻への罵詈雑言に気付かんほど総司は木偶やない。
「人の世を守るために怪異の前に立ち、身を捧げる者を見下す人間など、この家門には必要ない」
きちんとした場で、過不足のない言葉で、これまでも何度か総司は釘を差してきたけど、雑音は止まへんかった。
総司にそうまで言わせしめる傍系の女が、と付け上がるばっかりや。
結局、この問題は総司に守られたままでは解決せぇへん。桜子が言うように、自分自身でその存在価値を証明していかんと、周囲を黙らせることはできひんかった。
そしてそれは長い年月を経て、ようやっと成就しつつある。
「近頃、実力のある治癒士を生まれで差別する卑しい者がいると耳にしたのだけれど、まさかこの綾取にそのような不埒な人間はいないわよね? 綾取は完全な実力主義。性も生まれも関係なく、私たちは力ある者、心根の正しい者を歓迎するわ」
「檻紙の袂から、このような素晴らしい治癒士が誕生したことは、私たちにとって何よりの幸運です。逆境に打ち克ち、多くの同胞を癒し、怪異を恐れることなく立ち向かえる者へ、あらん限りの感謝と祝福を!」
綾取と檻紙が、忌憚のない言葉で桜子の治癒士としての活躍や功績を讃えたのも、風向きを大きく変えた要因の一つやった。
それが「友人の妻」への気遣いから来る言葉やったら火に油を注いだだけやったやろうけど、桜子が御三家からも認められる手腕と気概を持っとることは、これまでの戦果から周囲ももう理解しとる。
二人の心からの言葉に、異を唱える者は誰一人としておらんかった。
おかげで、桜子を貶めようとする方がおかしいんやって、周囲も遅まきながら気付きはじめたようやった。
「ああ、やっと言えた。清々したわ! 重箱の隅ばかりつつく女々しい者のなんと多いこと。悔しければ、あなたたちも桜子のように怪異の前に立ってみなさいとまで言えたらよかったのに」
「そこまで言ってしまうと逆効果ですからね。私たちにできる助力は所詮この程度……。しかし桜子さんがここまで自らを高められたから、私たちもようやく擁護できるようになったのです」
今までよく頑張りましたね、と檻紙に抱き締められて、桜子ははらはらと涙をこぼした。
桜子を悪く言う人間はどんどん減って、雛遊の妻として迎合する者が増えていく。
桜子は、ずっと夢見とった「息のできる場所」を、自分の力で少しずつ広げていった。
✤
整っていく環境に反して、桜子の体調は水面下で悪化し続けた。
三度目倒れたのは、年が明けてからしばらく経った頃やった。
真っ白な顔で床に臥し、ついに返事すらせぇへんくなった桜子に、俺は今度こそ総司に言おうと心に決めて病院に駆け込んだ。
どうせまた何もわからへんのやろ、と捨て鉢な気持ちで向き合った医者は、カルテに目を落として「おめでとうございます」と笑った。
「ご懐妊されてますね。四週目に入ったところでしょう、妊娠二ヶ月ですよ」
「へ」
医者の言葉に桜子共々固まる。
青天の霹靂に、俺はどう反応したらええのかわからんかった。
「えっと、とりあえずおめでとうやよな……? ど、どないしたらええ? 総司には連絡してもええよな?」
「そうね、さすがに黙ってるわけにはいかないわ。でも体調のことは……」
「これ以上は隠せへんって。このタイミングならさすがに総司も怒らんやろ。実は最近、ちょっとばかし無理しとったんやけどーってサクッと謝ってしまお」
帰路、桜子を運びながらカラスに言伝を託すと、俺らが帰り着くのとほぼ同時に、息を切らした酒吞ちゃんと総司が駆け込んできた。
よほど急いどったんやろう。転移の札が何枚も舞っとる中で、酒呑ちゃんが息急き切って「桜子は無事なん? 容態は!?」と俺らに駆け寄った。
「ごめんなさいね、総司さんも蜜鬼ちゃんもお仕事中だったのに。私はもう大丈夫よ、少し目眩がしたから病院に寄ったのだけれど……」
「予定などいくらでも調整できる。少しでも体調に異変や不安があれば、今日のようにすぐに使いを送ってくれ」
「無事でよかったぁ……。とにかくおめでとう、桜子! この前生まれたばっかや思うとったのに、カルタ嬢ちゃんにも弟妹ができるんか。予定日はいつやって?」
「四週目に入ったばかりらしいから、十月頃かしら」
まだ膨らみもない桜子の腹を撫でながら、酒吞ちゃんがカルタ嬢ちゃんに「楽しみやねえ」と微笑みかける。
酒吞ちゃんは元気そうな桜子の顔を見てすっかり安心したみたいやったけど、総司は顔をしかめたまま、一言断りを入れてから桜子の脈を測り、額に触れた。
「そんなに心配しなくても、熱もないし脈も正常よ。お医者様が診てくれたもの」
「……今日はどこかに出掛けたり、何か普段と違うものに触れたりしなかったか」
努めて優しく声を掛ける総司に、桜子は「ええ、特に変わったことはなかったと思うけれど……」と頬に手を添える。
「出勤日だったから、学校には行ったわ。子供たちには会ったけれど、ちょっと擦りむいた子の手当てをしただけよ。治癒の力を使ったりもしていないわ」
「鴉取、近辺に怪異や不審な気配は?」
「完全に見張っとったわけやないけど、おかしなものはなかったと思うで。あの学校、小物が多すぎて追いきれんのよ」
「そうか。……続きはあとで調べよう。鴉取、桜子を連れて檻紙邸に行け」
総司の言葉に、「え? どうして?」なんて言うとる桜子を黙って抱えあげる。
俺に運ばせるっつーことは、「最速最短で避難させろ」って命じとるのと同義やから。
仕えのカラスが、俺らの脇からバタバタと慌ただしく檻紙に向かって飛んでいった。
「んじゃ、先に行ってしっかり戸締りしとくわぁ。他になんかやっとくことある?」
「檻紙に伝えろ。『至急、桜子を診察せよ。俺も直ぐに行く』と」
「了解」
物々しい俺らの気配に、「総司さん、どうしたの? 私は本当になんでもないのよ。最近少し無理が祟っただけで……」と桜子が抱えられたまま不安そうに総司を見上げる。
その頬に手を寄せて、総司は濁すことなく言葉を紡いだ。
「呪詛の気配がする。……檻紙の系譜の呪いだ」