第九夜┊十二「血染めの白衣」
俺はすぐに桜子とカルタ嬢ちゃんを担いで病院に駆け込んだけど、青い顔でぐったりしとる桜子を前に、医者も首を傾げるだけやった。
「特にどこも悪くはないようですね。ただの目眩ではないでしょうか。女性ならよくあることですよ」
「こない苦しんどるのに目眩なわけあらへんやろ!」
ヤブ医者に食って掛かる俺の服を掴んで、「大丈夫よ」と桜子が止める。さっきまで苦しそうに喘鳴しとったのが嘘みたいに顔色も戻り始めて、すっかりいつもの桜子やった。
「お騒がせしてごめんなさい。お医者様の言う通り、ただの立ちくらみだったみたいだわ」
「アンタがそんなんで倒れるわけないやろ、もっとちゃんと診てもらい」
俺は二人を連れて別の病院にも行ったけど、そこでも医者の反応は変わらへんかった。
どいつもこいつも使えへん医者やな、とイライラする俺の服を「あとり、おこらないで」と今度はカルタ嬢ちゃんが引っ張る。三歳児に諫められる情けなさと、つたない滑舌で俺を呼ぶカルタ嬢ちゃんの可愛さで、沸騰しとった俺の頭は一気に冷えた。
「もっかい呼んで」
「あとり?」
俺の名前、鴉取で良かった!
カルタ嬢ちゃんの足元にうずくまって打ち震えとる俺を、ちょっと冷めた目で見つめながらも「ねえ鴉取、総司さんには言わないで」と桜子が懇願する。
「言わないわけにいかへんやろ。総司の中でアンタの体調より優先順位の高い事項ないで」
「だからこそよ。よくわからないのに倒れた、なんて聞いたら、また外に出してもらえなくなるわ」
「もうすぐ寒なるしちょうどええんちゃう、カルタ嬢ちゃんと一緒に雛遊に居りや」
「お願いよ鴉取。これはカルタのためでもあるの」
桜子と俺の視線が嬢ちゃんに向けられる。
カルタ嬢ちゃんは二人分の視線を受けると、まんまるな目をぱちりと瞬かせた。
「雛遊の家訓やしきたりは立派だけれど、カルタはこれから先、ただ女であるというだけで肩身の狭い思いをするでしょう。けれどこの子は確かな祓いの力を持っているわ。功績さえ立てられれば、一人前の祓い屋としてみんなにも認めてもらえるはずよ。そしてカルタ自身も、祓い屋として人々の役に立ちたいと願ってる」
「子供の夢なんて今の時期から定めるものとちゃうやろ。桜子やって、子供の頃はケーキ屋とか花屋に憧れたやろ?」
「私の夢はずっと『ここではない、どこか息ができる場所に行きたい』だったわ」
前触れなくこぼれた桜子の本心に、俺は思わず閉口する。
——ここではない、どこか。
怪異なんてものがいない、どこか。
他人に視えへんものが自分にだけは視える狂った世界で、桜子はどれほど息苦しさを感じてきたんやろか。
他人を大切にする桜子が、目の前で怪異に襲われようとする人間を見て見ぬフリなんてできひんかったやろう。
けど人間は、理解できへんものを怖がる。
何もないところに向かって叫び、わけわからんこと言って手を引こうとする桜子の言動が、周囲に受け入れられるはずもない。
御三家なら周囲に理解のある大人も多いけど、血の薄い傍系では、ただ視えるものを視えるというだけで異常者扱いや。
代々神子の檻紙や、楽師の綾取と違うて、一般サラリーマンの家系じゃ「お化けが見える子供」なんてただの嘘つき。
ようわからん力で傷を治そうとするなんて、もってのほかやろう。
『静かにしなさい』
『おとなしくしなさいって言ってるでしょう』
『どうして「普通」にできないんだ!』
桜子は、両親にさえも受け入れられへんかった。
総司がその手を取るまで、桜子はずっと息ができひんかったのやろう。
誰にも存在を認めてもらえない世界をひとり歩くんは、どれほど恐ろしいことやろか。
そんな道を、せめて娘には歩ませたくないと願う桜子の想いは、責められるべきものなんやろうか。
「……次の討伐は私も出るわ。女でも役に立てると証明できれば、カルタは私の後を歩んでいける。倒れてる場合じゃないのよ。あなたならわかるでしょう、鴉取」
桜子が俺の裾を握りしめる。
このまま桜子が何もせえへんかったら、総司は二人を怪異から遠ざけ続けるやろう。
大切に大切に、二人を籠の鳥にするやろう。
俺はそれが悪いことだとは思わへん。
怪異の前がどれほど危ないか、俺は痛いほどわかっとる。
総司は意地悪で桜子の同行を拒否しとるわけでも、桜子のことを役立たずやと思っとるわけでもない。桜子のことを思うからこそ、これから先の人生は、安全な場所で幸せに過ごして欲しいと願っとるだけや。
わかっとる。俺は総司の気持ちの方が理解できる。
だってそれは、少し前までの俺と同じやったから。
『——うち、鴉取が怪我しとる方が痛いんよ』
酒呑ちゃんに言われて、俺は初めて自分の愚かさを思い知った。
勝手にかばって、守った気になって。
かばわれる側の気持ちなんて、これっぽっちも考えとらんかった。
桜子自身は、無理を押し通してまで治癒士の仕事がしたいわけやない。
一児の母になった桜子は、治癒士の致死率も、自分がいなくなる危うさも理解しとる。
人のために働くのは好きなんやろうけど、そんなんは学校の保健医でも十分やろう。
けど、カルタ嬢ちゃんを祓い屋として認めさせるためには、桜子の言う通り前例が必要や。
治癒士なら、無理を言えば同行できる。
女だろうと、傍系だろうと、体が弱かろうと、役に立てるって桜子が証明し続ければ、カルタ嬢ちゃんやって連れて行ってもらえるようになるかもしれん。
桜子はそうやって、自分の力で雛遊での立場を築いてきた。
総司の隣に、胸を張って立てるように。
そんな桜子の努力を、体調不良の一言で掃き捨てることは俺にはできひんかった。
散々悩んでから、「しゃーないなぁ……」と肩を落とす。
俺には、総司を説得するほどの知恵も、カルタ嬢ちゃんの将来を切り拓く力もあらへん。
体調不良を黙ってたことを、あとで一緒に叱られてやるくらいが関の山や。
「カラスは口が軽いんや。総司の前で一度でも倒れたら、俺は全部話すからな」
「ええ、もちろんよ。ありがとう、鴉取」
ほっとしたように笑う桜子は、顔色も良くて、いつもと変わらんように見えて。
だから俺は、これでいいんやって阿呆みたいに楽観的に考えとった。
——俺はこの時の自分の愚かな選択を、今でもずっと後悔しとる。