第二夜┊四「陸を泳ぐ魚」
濁っていく瞳と、段々と小刻みになっていく痙攣に、彼の命が尽きようとしているのがわかった。
どうして。
こんなにも弱いくせに、怪異に対抗なんかできないくせに。
どうしておまえは、いつも俺の前に出ようとする?
——「俺たち」の世界には、俺のことを庇おうだなんていう、頭のおかしな奴はいない。
だって、俺は強いから。
俺たちの世界は弱肉強食だ。
弱ければ喰われて終わり。強いものは喰ってより大きくなる。とてもシンプルで、合理的な世界。
図体の大きいやつは、それだけで強さの証明になる。
庇ってもらわなくたって、こんな奴に俺は負けないのに。
おまえはいつだって、おまえを守らせてくれない。
「ごめん……」
一言、謝る。
今まで散々やろうとしてきたことだけど、ずっと願ってきたことだけど、それでもこんな風におまえの意思を無視して押し付ける気はなかった。
だけど、こうなってしまったらもう、俺は黙って見ていられない。
たとえ、おまえの友達でいられなくなってしまったとしても。
短剣を持ち直して、その切っ先を自分に向ける。
躊躇いなく切り落とされた二の腕の肉を、溢れる血液ごと彼の口に押し込んだ。
押し込まれる異物に抵抗するように、既に意識のない彼の身体が大きく跳ねる。
二度、三度、跳ねる体を押し留めるように、彼の口を押さえ付けていると、やがて俺の血肉が流し込まれた喉が上下し、ごくりと嚥下した。
「ごめん。責任は取る。何があっても絶対に、ずっとおまえのそばにいるよ」
これから幾年、幾世紀が過ぎようとも。
俺たちはこれで、本当に《ずっと》一緒にいられる。
青白んでいた肌に少しずつ薔薇色が戻っていく。
欠けた右上半身からざわざわと神経が伸び、血管をまとって、骨と肉が再生していった。
——人魚の肉は、食べれば不老不死になる。
彼はもう、大丈夫だ。
二度と年を重ねることは出来ないけれど、二度と土に還ることはできないけれど。
それでも、今ここで死ぬことは避けられる。
「早く寮に帰ろう。また門限に間に合わなくなる前に」
囁くようにそう告げて、片付け残した小魚を振り返る。
そいつは俺が何であるのか理解したらしく、目が合った途端にびくりと身を縮こませた。ナマズは許しを請うように頭を低く伏してみせたが、俺たちの世界は弱肉強食。強者を怒らせれば喰われるだけだ。
「おまえみたいな醜悪なやつ、喰うつもりもなかったんだけどな」
ぐわりと口を開ける。
庭園を内包する市街地一帯に、大きな影が落ちた。
✤
今にして思えば、当時の彼はまだ自我というものが確立してそう間もない頃だったのではないだろうか。
かくいう俺も、まだ人の世の理というものに疎く、また自分より上位の存在についても無知であった。
一定の大きさを超えた怪異は、腹を満たすために人間を求めて走り回ったりなどはしない。人間や小妖たちとは、時間の概念からして変わるからだ。
恐らく同じようなサイズを持つ怪異の中では、俺は燃費が悪い方なのだろうが、とはいえ自分と近い大きさの怪異というものにも会ったことがないので分からなかった。
永遠に近い時間を生きる俺は、悠々と夜空を泳いでは、星屑を食べて暮らしていた。
口を開けていれば勝手に入ってくるのだから、狩りの概念も俺にはない。星屑と一緒に飲み込んだ怪異が幾つか居たかもしれないが、今更嘆いても詮無きことだ。
そうして夜空を揺蕩っていた或る日、その幼子は俺を呼び止めた。
「お星さま、食べないで」
小さき者に語り掛けられるのは久方振りで、俺はその幼子の言葉に耳を傾けた。
俺にとって自分以外の大抵の者は、口を開けていれば勝手に呑み込まれてしまう矮小な存在で、何かに怒り悲しむことも、何かを恐れる必要もない。ゆえに俺は寛容だった。
「星が喰われて、何か不都合があるのか」
「人は死んだら、お星さまになるんだって。だから、お星さま、食べないで」
「人間は死しても星屑になどならない。俺が食しているのはただの水素とヘリウムだ」
「……大きなさかながしゃべってる」
「話を聞いていたか」
幼子は俺を見て目を輝かせ、彼にとっては終わりなき崖にも等しい俺の横腹を、あろうことかよじ登ろうとしてきた。
しかし俺は寛容だった。
俺でなければ、語り掛けておいて話も聞かぬ小さき者など、とうに飲み下されていたことだろう。
俺は少しばかり自分の体を小さくして、その幼子を背に乗せてやった。
鋭利な額の角を掴もうとするので「それに触れればおまえの五指など切り落とされるぞ」と告げると、暫し自分の両手のひらを眺めてから、慌てたようにそれらを引っ込めていた。
「大きなさかなはどこに行くの」
「どこにも行かない。俺は口を開けて揺蕩うだけだ」
「大きなさかなは何が好きなの」
「好きなものなどない。俺は口を開けて揺蕩うだけだ」
そもそも俺は魚ではない。太古のクジラの怪異である。
そう言うと、その幼子は「でもうろこがある」と答えて俺の背をつついた。
「お星さまばかり食べてるから、お星さまみたいにキラキラしてるんだね」
幼子はひとり会得した様子で、俺の背から剥がれ落ちた極彩色の鱗を拾って喜んでいた。
俺は黙って、その幼子を乗せたままゆったりと星空を泳いだ。
「死人が星になるから喰うなと言っていたな。おまえの身近な者が逝去したのか」
「うーんと、……」
幼子はいくつか指折り数えていたが、やがて全ての指を折ると、諦めたように肩を落とした。
それは彼の周りで死した人間の数だったのかもしれないし、彼のために死んだ人間の数だったのかもしれない。
結局彼はそれについては触れず、「僕もいつか死んじゃうから、お星さまはたべないで」と答えた。
特段、星屑が好みで食べていたわけではない。
人間の言葉など聞いてやる義理もなかったが、小さき者に乞われてなお、強行する理由もなかった。
星空ではない場所でも口を開けて揺蕩っていれば、何かしらは口に入ってくるだろう。俺が生きていくことに支障はない。
そう言ってやると、幼子は嬉しそうに「ありがとう」とはにかんだ。