第九夜┊十一「血染めの白衣」
それから俺らは、なんとか二人の仲を進展させようと画策した。
流行りのロマンス映画をチェックしては、2人分のチケットを総司の書斎机に置いてみたり、桜子に交換日記を勧めてみたり。
俺と酒吞ちゃんは、休みになるたびに出掛ける二人をこっそり追い回した。けど一向に縮まらない二人の距離に、俺は毎度泣きながらハンカチを噛み締めとった。
「あかん、あんなんデートやなくてただの散歩やわ。イマドキ、小学生かてあれよりは情熱的なデートできるやろ」
「仕事一辺倒の総司に女の扱い方なんてわかるわけないんよ。こんなん続けても意味ないて」
酒呑ちゃんは消極的やったけど、総司はエスコートのなんたるかを徐々に学んでいったようやった。そのうち総司は言わんでも季節の折々に花を贈るようになり、三年目にしてようやく二人が手を繋いだ日には、俺らは大喜びして赤飯を炊いた。
そんな風に、ゆっくり心を育んでいく二人を付かず離れず眺めるのが、俺らの幸せやった。
そうして桜子が嫁いできて、六年目の秋。
桜子の妊娠が発覚した。
桜子の体調不良に、最初に気付いたのは酒呑ちゃんやった。
それまで人間の生態にはあんまり関心を持っとらんかった酒呑ちゃんやけど、桜子の妊娠に気付いた途端、真っ先に桜子の持っとった医術書を積み上げ、妊婦について書かれた本を読み漁り始めた。
悪阻に苦しむ桜子の背をさすり、その時々で変わる食べられそうなものを聞いては買いに走った。
総司も寝る間を惜しんで桜子を労っとったけど、妻が妊娠したからって怪異は減らんし、総帥の仕事はいつだって山積みや。走り回る二人と吐き続ける桜子を前に、俺はおろおろするばかりで、やっぱり役に立たへんかった。
けど酒呑ちゃんが献身的に桜子を支えてくれとったから、総司も桜子も安心して出産予定日までの時間を過ごせとった。
桜子が嫁いできて、七年目の春。
雛遊家に、第一子が生まれた。
苦しむ桜子を一人にできひんって総司は立ち合いを希望しとったけど、呻く桜子の代わりに、「桜子が外におってって言うとる」と酒呑ちゃんが俺らを締め出した。
俺は、酒呑ちゃんが総司より他人の言うことを優先する場面を初めて見た。
桜子の初産は難航した。
座敷の外で、いつもより少しだけ緊張した面持ちの総司と並んで座り続けること三十時間。祈りすぎて吐きそうになっとった俺らのところに、酒呑ちゃんが飛び込んできた。
「おめでとう、総司。元気な女の子やよ」
ようやく入室を許可された座敷の中央で、朝日に照らされた桜子が愛おしそうにカルタ嬢ちゃんを抱いとった姿を、俺は今でも覚えとる。
ちいちゃなちいちゃなカルタ嬢ちゃんは、子猫みたいに可愛い声でぴゃあぴゃあ泣いとった。
「ほら見て蜜鬼ちゃん、うちの娘よ。抱いてあげてくれる?」
「む、無理やって、こないちっちゃな赤ちゃん、うちが触れたら壊れてまうよ」
「大丈夫よ。ほら、この子も蜜鬼ちゃんに抱かれたがってるわ」
「わ……、手ぇちっちゃ……」
怖がる酒呑ちゃんの腕に、桜子がカルタ嬢ちゃんを乗せる。酒呑ちゃんはおっかなびっくり抱き上げとったけど、ちいちゃい指で顔に手を伸ばすカルタ嬢ちゃんを、食い入るように見つめとった。
総司は桜子に礼を言ってしばらく労ってから、助産師といくらか会話しとったけど、母子ともに健康だと報告を受けてやっと安心できたようやった。ここ半年ほど刻まれ続けとった総司の眉間のシワが、ようやっと和らぎをみせる。
桜子も酒呑ちゃんも長時間の出産に憔悴しきっとったけど、二人が幸せそうに笑っとるから、俺まで涙が出てきそうやった。
ずっと付きっきりやった酒呑ちゃんは「鴉取、あと頼むで」と言い残して、それから三日ほど眠った。
✤
「いい? 産後の恨みは一生モノよ。ここで役に立つか立たないかが、夫婦としての明暗を分けるの」
「少なくとも、桜子さんの妊娠時にあれだけ働いていては零点ですね。もっとも、これから何もしなかったら、どこまでもマイナスに落ちていくのですけれど」
カルタ嬢ちゃんが生まれてから二週間目。
綾取と檻紙が出産を祝いに雛遊を訪ねてきた。
大量のベビー用品や桜子自身への贈答品を運び入れさせながら、当代当主の女二人に詰められて、総司が「なるほど」とたじろぎながらも耳を傾ける。
「桜子、不満があればはっきり言ってやりなさい。総司は祓い屋としては満点だけど、旦那としては零点の男よ」
「必要なものがあればなんでも言ってくださいね。困った時はお互い様。私たちが助けになりますよ」
にこにこと桜子を慮る二人に、「ありがとうございます。でも、総司さんは旦那としても満点の方ですよ」と桜子がフォローを入れる。
桜子が嫁いできた瞬間は、弱っちくて気に食わん女やと思っとったけど、綾取や檻紙と並ぶと、総司の妻が桜子でほんまによかったと思うようになっとった。
二人は「あらあら」と目を丸くして、総司に向き直る。
「まあ、なんて健気なの……! こんなに可愛い妻が身重な時に放っぽり出して仕事をしていた男がいるだなんて、にわかに信じ難いわね」
「そういうわけですから、怪異の相手はしばらく私たちにお任せくださいな。あなたは書類の一枚に至るまで手出し不要ですよ。でないと、次にサインするのは決裁書ではなく離婚届になりますからね」
「もう一年早く、こいつから仕事を取り上げるべきだったわね。……桜子、遅くなってしまったけれど、育児は一人で抱え込んじゃだめよ。今まで任せっぱなしだった分、これからは総司がきっちりあなたを手助けしてくれるから」
二人は嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。
豪語するだけあって、そこから二年の間、二人は本当に総司を一切働かせんかった。
御三家のうち三分の一の不在を、綾取と檻紙の二人だけで補うんは相当な苦労やったはずやけど、二人はそんな気配を微塵も感じさせへんかった。
おかげで、産後の桜子は十分な休息を取れたし、総司もカルタ嬢ちゃんが日々大きくなっていくのを間近で見守ることができた。
カルタ嬢ちゃんは、当時から絵を描くのが大好きやった。
二歳になったカルタ嬢ちゃんがクレヨンを握って、桜子と総司の横に俺と酒呑ちゃんを描き始めた時には、感動のあまり何十枚もコピーを取って、部屋中に貼り付けた。
酒呑ちゃんは呆れたような顔して俺を見とったけど、そのうちの一枚を酒呑ちゃんがこっそり持ち帰って今でも自室に飾っとるのを、俺は知っとる。
✤
当たり前やけど、祓い屋なんてもんは怪異から腐るほど恨みを買っとる。
生垣の外ではいっつも怪異が恨めしそうにこっちを見とったけど、檻紙の祈りと雛遊の札で強力に守られとる邸宅の敷地内にはどうせ入ってこれんし、俺らも気にしとらんかった。
カルタ嬢ちゃんが三歳になった、ある日。
いつものように庭の垣根からこっちを覗いとる怪異を、カルタ嬢ちゃんが絵に描いた。
普段の落書きと違うて、札を詠む総司と同じ目をしたカルタ嬢ちゃんが、意気揚々と腕を振るう。
気付けば、垣根の外におった怪異は消えて、画用紙の中で怯えたようにうごめいとった。
その日、カルタ嬢ちゃんは初めて絵の中に怪異を封じた。
カルタ嬢ちゃんが強力な祓いの力を持っとることに、総司も桜子も早々に気ぃ付いとった。
けど、雛遊は絶対的な男系家系。
カルタ嬢ちゃんがいくら力を持っとっても、「嬢ちゃん」である以上、後継ぎにはなれへん。
せやけどカルタ嬢ちゃんは、怪異の討伐に異様に興味を示した。
総司は、桜子もカルタ嬢ちゃんもなるべく怪異から遠ざけようとしとったけど、檻紙が「子の興味を削ぐものではありませんよ」と総司をなだめて、絶対安全を約束した結界の中から、近場の怪異討伐を何度か見学させてくれはった。
総司が怪異を封じるのを、カルタ嬢ちゃんはいつもきらきらした目で見つめとった。
「わたしも、お父様みたいな『はらいや』になりたい」
カルタ嬢ちゃんは俺らに何度もそう言うてくれたけど、俺らは何も答えられへんかった。
カルタ嬢ちゃんが大きくなるにつれ、なかなか生まれへん第二子に周囲は焦り始めた。
男児を求める耳障りな声がカルタ嬢ちゃんの耳に入らへんよう、俺と酒呑ちゃんは人知れず黙らせて回った。
「籍入れてから初産まで七年かかっとるのに、そんなほいほい第二子なんて生まれるわけあらへんやろ」
「桜子に年子なんて産ませとったら、うちが総司を叱っとるわ」
いくら俺らがそう思っとっても、人間っちゅーのはいらん心配をしとらんと生きていかれへんものらしい。なまじ総司が優秀すぎたばかりに、その血が途絶えることを周囲はえらく心配しとるようやった。
産後二年を過ぎてから徐々に仕事に復帰し始めた総司は、三年目には元のように忙殺されとった。カルタ嬢ちゃんは聞き分けのいい良い子やったし、わがまま言わんと俺らともよう遊んでくれとったから、桜子にも大きな負担はないようやった。
むしろ桜子は「家にいるだけでは悪い」と言い張っとったけど、さすがに治癒士として立たせるのは総司が許可せえへんかった。代わりに、綾取が学校の保健医の仕事を紹介した。
週に二度ほど、短時間だけやったけど、保健医の仕事は桜子の肌に合うとるようやった。元々医療の知識に長けとったし、子供達と触れ合うとる桜子は楽しそうで、俺もほっとした。
なにより、雛遊におると「女しか生まぬ石女め」「総司様は今からでもお妾を取られるべきだ」なんつー聞くに耐えへん雑音が耳に入る。言うまでもなく、二度とそんな口利けへんよう酒呑ちゃんが粛清しとったけど、そういう経緯もあって、たまの気分転換に桜子が働くのを俺らも止めへんかった。
酒呑ちゃんは総司について討伐に出かけることが増えとったから、俺が残って二人のそばについた。桜子やカルタ嬢ちゃんを見守る穏やかな時間に、俺はすっかり平和ボケしとった。
蝉の声が徐々に減って、鈴虫が夜に歌い出しはじめた、ある夏の終わり。
——桜子が倒れた。