第九夜┊五「血染めの白衣」
早々に冷やしてもらったおかげで、目元の腫れも引いてきた。お礼を言って雛遊先生に氷嚢を返すと、「……もう帰ってしまうんですか?」と未練がましい声に縋られる。
「ここに残ってても仕方ないだろ、俺らは門限もあるし」
「そうですよね」
金木犀の枝を花瓶に生けながら、雛遊先生が視線を落とす。帰りづらいことこの上なかった。
「今日はもう白衣に手を出さないんだろ? 一回休んで、また明日考えろよ」
「しかし、あまり長く放置してもいられません。ほとんど使われていないとはいえ、ここは保健室ですから」
「なら、さっさとあの総帥に連絡入れて任せちまえばいい。あいつならすぐに行動してくれるだろ」
「……あの人が母のことをどう思っていたのか、よくわからないんですよね。雛遊が古い慣習に囚われた、男尊女卑の家系だということは君もご存知だと思うのですが……。母の死以降、父は祓い屋稼業から女性を排除しようと躍起になっているようなんです。もしも父母が不仲だったなら、余計な波風は立てたくないのですが、私にはその経緯がわからず……」
あー、と星蓮が空を仰ぐ。
男尊女卑の雛遊家でカルタさんが苦労していたという話は、しつこいくらい向日葵さんから聞いていた。複雑な家庭事情に加えて、既にご家族から二人も死者を出している雛遊の責任者に、迂闊に連絡を入れるのは確かに怖い。
総司さんは僕にはやけに優しくしてくれたし、千鶴さんのことも怪異と知りながら飴を渡していた。一概に悪い人ではないのだろうけれど……。
「面倒でも義理を通したいと思うなら、古くからいる式神にそれとなく話を聞いてみれば良いんじゃないか? おまえの家には沢山いるだろ」
星蓮の提案に、「ああ、確かに」と雛遊先生が頷く。
「君の言う通りですね。彼らなら、父と母がどのような間柄だったかも知っているでしょう。酒呑童子なら近くに……」
「なんや坊っちゃん、酒吞ちゃんばっか働かせんと、たまには俺のことも頼ってやぁ」
「うわっ」
逆さ吊りでいきなり目の前に現れた男に悲鳴を上げる。ベッドを囲うカーテンレールに足をかけてぶら下がっている男は、見覚えのある鞍馬山の鴉天狗。
「鴉取……!」
驚いて固まる僕の傍らから、星蓮が声も出さずに飛び掛かる。けれど鴉取はその場から消えて、いつの間にか雛遊先生の後ろに移動していた。
「いくら怪異言うても他人ん家の式神を襲うんはルール違反やよ。他人のポケモンにモンスターボール投げたらあかんことくらいわかるやろ」
「何言ってるか全然わかんねーよ」
僕にも星蓮にも意味が通じてないことを悟ると、鴉取は目を剥いて「え、ほんま? 今時の子ぉってポケモンわからんの? 何やったらわかる? 妖怪ウォッチとか?」と謎の言葉を羅列した。
困って雛遊先生を見上げると、「平たく言えば、テレビ番組の話です」と翻訳を挟んでくれる。
なるほど。寮室にテレビはないので、僕らには無縁な話だ。
「こんなんテレビ見とらんでも一般常識やで! アンタら友達おらんの? ポケモンくらいクラスでお喋りしとればいくらでも会話に出てくるやろ?」
「出てこねーな」
「出てきたことないね」
顔を見合わせる僕らに、鴉取は「嘘ぉ……、時代の流れって怖いわぁ」と膝から崩れ落ちた。
が、すぐに切り替えると「それで、総司に何か用でもあるん?」と再び立ち上がる。
「ちょぉーっと通り掛かったら、なんや面白そうな話しとるやん? 坊っちゃんからのおねだりやったら、融通せえへんこともないで」
「あなたに判断を仰ぎたいんです。桜子さんの白衣が怪異になっているようで、父に伝えるべきか否か……。内密に処理した方が良ければ、私が燃やしてしまいますが」
一瞬、時が止まったのかと思うくらい、保健室が静かになった。
やがて鴉取が「……総司に伝える。俺が責任持って調整するから、坊っちゃんは手ぇ出さんといてや」と雛遊先生を諭す。
「あなたも、桜子さんを知っているんですよね」
「知っとるよ。いろいろ積もる話もしてくれはったし。俺はなぁんにも役に立てへんかったけどな」
頭の後ろで手を組みながら、鴉取はひどく自嘲的な笑みを口の端に浮かべていた。
微かな痕跡を辿ってか、白衣が血液を滴らせていた床を一瞥して「……後のことは、俺に任せるって言うてくれはったのに……。俺が役立たずやから、心配して化けて出てきてしもたんかなぁ」と壁にもたれる。
「白衣の件、父に伝えても問題は起きませんか?」
「ああ、坊っちゃんは桜子と総司が一緒に居るとこ、見たことないんやね。心配せんでええよ。坊っちゃんが思うとるより総司は桜子のこと大事にしとったし、だからって傾倒しすぎることもない。総司はちゃんと自分を律する事ができる人や、怪異もきちんと弔ってくれはるよ」
ならば、この件は総司さんに任せて解決だろうか。
しれっと帰る準備を始める僕らの隣で、雛遊先生が腕を組んだ。
「……桜子さんのこと、あなたの知ってる限りでいいので詳しく聞かせていただけませんか? 私は身内について知らないことが多すぎる」
「ええ、そんなん俺から聞くような話ちゃうやろ。総司が話してないことを俺から勝手に話されへんよ」
ぶんぶんと顔を振る鴉取の腕を、僕が掴んでちょっと引っ張る。「なんやの。カルタ嬢ちゃんの顔でこっち見やんといてやぁ」と怪訝に僕を見下ろす鴉取に、にぱっと笑顔を向けた。
「話してくれないなら、エントランスホールであなたが僕に何をしたか、雛遊先生に言いつけます」
「エッ」
僕を振り払おうとしていた手が止まる。
「エントランスホール……? なんの話ですか?」と尋ねる雛遊先生に背を向けて、鴉取はだらだらと汗をたらしていた。
「言ってやれよカルタ。こいつ、あんなところでお前のスラックスに手を」
「あーあー! なんや名前聞いとったら懐かしい気分になってきてしもうたわ! 誰かに桜子の話、聞いて貰いたくてしゃーないなぁ!」
星蓮の言葉を大声で遮る鴉取に、雛遊先生は「えっ、あなた、本当に何をしたんですか……?」と胡乱な目を向けている。
「いいのかよ。やっと帰れそうだったのに」
「うん、聞いていきたい」
長話になりそうな気配を察した星蓮にそう答えると、「おまえが聞きたいなら仕方ないな」と星蓮は諦めてベッドに腰掛けた。
桜子さんの話を聞きたいと思っているのは「僕」だろうか。それともカルタさんなのだろうか。
人議を終えてから、「僕たち」の境界線は前よりもずっとぼやけてきている。
いつか僕が僕でなくなる前に、星蓮には話をしないとな、と気が重くなりながら、僕も星蓮の隣に座った。