第九夜┊三「血染めの白衣」
「来たっぽいな」
鍵の閉まった扉を向いて、星蓮が口の端を吊り上げる。
そこは怖がるところなんじゃないのか、と思ったけど口には出さなかった。
空から大黒柱ほどの氷柱が降り注いだり、平地が突然森になったり、そこに火がついて大火災になったりするのを目の当たりにしたばかりだ。ハードルが上がってしまっているのは間違いない。
僕もいくらか自衛手段を手にしたし、食べてもいい怪異相手なら星蓮はまず負けないだろう。ベッドでくつろぐ僕らには、緊張感の欠片もなかった。
……その瞬間までは。
保健室の扉の前で、いつの間にか現れた白衣が宙に浮いていた。
噂に違わず、その白衣は腹部を中心に鮮血に塗れている。見えない内側から溢れるように、動くたびにごぽりと音を立てて大粒の血液が滴っていた。先に噂話を聞いていなければ、出会しただけでそこそこ怖い思いをしただろう。
けれど「血塗れ白衣」が現れると事前に知っていた僕らは心の準備ができていたので、それ自体に恐れおののくことはなかった。
まるで透明人間が着ているかのように、袖や胴体に芯の通った白衣が一歩ずつこちらに寄ってくる。
長い裾をはためかせながらこちらに近寄る血塗れ白衣は、——見えないその手に注射器を持っていた。
「「ぎゃ——————ッ!!」」
僕と星蓮は悲鳴を上げながら保健室の隅に逃げ込む。
僕は注射が大嫌いだが、なんで僕と一緒に彼までこんなに怯えているんだろうか。
「さっきまで余裕そうだったじゃないか、早くあいつを食べてくれよ!」
「あ、あんなの呑み込んだら胃に刺さるだろ!」
「ええ、君も注射嫌いなの!?」
自分のことを棚に上げて尋ねると、「なんでおまえらの世界では、他人の身体に尖ったものを突き刺すような暴力行為が合法なんだ」と星蓮が返す。
全面的に同意だけれど、骨だろうが石だろうが気にせず呑み込む彼がこんなに注射器を怖がるなんて。
「春にあった健康診断の採血はどうしたんだ?」
「あれで初めて注射を知ったんだよ。俺は何かにぶつかりはしても、怪我したことはほとんどなかったのに」
そういえば、若宮さんとの手合わせで制服こそボロボロになってしまったけれど、星蓮自身に傷はない。
土地神様を除けば、健康診断の採血が、唯一彼自身に傷を負わせた行為になるんだろう。
彼の中では、土地神様≒注射器>>>若宮さんなのか。
そう思うと、注射器を恐れるのも仕方がない気がしてくる。
「いやいやいや、どうするんだよこれ! 君が食べるっていうから保健室に残ったんじゃないか!」
「俺無理だ……、あの注射器だけどっかにやってくれよ。そうしたら白衣なんて一呑みにするから」
「僕だってあいつから注射器を取り上げるような手段は持ってないよ!」
保健室の隅っこで結界に閉じこもりながら、二人で震え上がる。
白衣は結界の前で立ち止まって、じっとこちらを見下ろしていた。
賢い怪異なのだろうか。結界にむやみやたらに触るようなことはせず、一歩分の距離を保っている。
「ひ、雛遊に助けを呼ぼう。あいつならまだ学校にいるだろ」
「興味本位で保健室に居残っておいて、助けてくれって? 怒られちゃうよ……」
「怒っても助けてくれるって。おまえだって怪異に注射されるよりマシだろ?」
「それは確かに」
結界の維持に気を配りながらも、ポケットのスマートフォンから雛遊先生にショートメッセージを送る。自分でもどこか既視感がある文章な気がしたけれど、そんなことには構っていられなかった。
なんとか送信ボタンを押してから、自分の指がやけに震えていることに気づく。
「……あれ」
注射はとても嫌いだけれど、こんなに震えるほどだっただろうか。刺される瞬間だったらこれくらい震えてもおかしくはないけれど、この距離があっても震えるほどじゃなかったはずなのに。
そんな僕に気付いたように、白衣が結界越しにしゃがみ込む。
顔があれば、ちょうど僕を覗き込むような位置だっただろう。
計算式に阻まれて一歩分の間をあけた白衣は、そっとこちらに袖を伸ばした。
バチッ! と高圧電流が迸るような音が走って、白衣の袖が焦げる。
だが、白衣は気にせず結界に両袖をついた。
……僕に、何かを訴えかけるように。
「お、おい、大丈夫か? そんなに怖いのか?」
「え……?」
星蓮に声を掛けられて、自分の頬をぼろぼろと涙が伝っていることに気づく。
アレルギーだろうか。自分でもよくわからなくて、リノリウムの床に滴り落ちていく雫を呆然と見下ろした。
痛みも、痒みもないけれど、溢れてくる涙だけはなぜだか止まらない。
なんだか胸が苦しくなってきて、「ごめん、少し肩貸して……」と僕は星蓮にもたれかかった。
「小手鞠君、中にいますか?」
扉の外から、ノック音と同時に雛遊先生の声が聞こえてくる。
さっき鍵が閉まっていたから、外からは扉が開けられないのだろう。
「はい、ここにいます!」と叫ぶと、「扉から離れてくださいね」と返事があった。
何か、開錠する術でも使うのだろうか。
間髪いれずに、ガァン! とけたたましい音がして、扉が蹴破られる。
中央が大きく凹んだ扉が、音を立てて倒れていくのを眺めながら「おまえも結構手荒だな」と星蓮が息を吐いた。
「大丈夫ですか? 小手鞠君」
「あんまり大丈夫じゃなさそうだ。ちょっとそこの白衣から注射器を取り上げてくれないか? そしたら俺がどうにでもするから」
保健室の隅で籠城している僕らに、雛遊先生が眉を顰める。
血塗れ白衣は、扉が破られても振り返ることなく僕だけを見つめていたが、雛遊先生に「桜子さん」と呼び掛けられると、襟に皺を寄せてそちらを向いた。
「その子たちは大丈夫です。俺が預かりますから、桜子さんももう休んでください」
白衣はしばし逡巡する様子を見せたが、やがてすっと溶けるように消えていく。
祓われたわけではない。顕現が解かれただけで、きっとまた現れるだろう。
「……なんで逃がすんだよ」
「あの怪異はちょっと訳ありなんです。……ところで君たち、また危ないことをしていますね」
「半分は不可抗力だ。こいつの顔にボールが当たって運び込まれたんだよ」
「なんと。病院には行きましたか?」
「あぁ、そういやおまえも金持ちだったな……。庶民は顔面ボールで病院に掛かるのは恥ずかしいんだ。許してやってくれ」
努めて明るく話を振る星蓮は、きっとわざとだろう。
泣き止まない僕を心配そうな瞳がちらりと見やる。
雛遊先生も、一体何事かとおろおろしながら僕を見下ろした。
自分たちで保健室に来ておいて、怪異が怖くて泣いていると思われるのはさすがに恥ずかしすぎる。ようやく止まりかけてきた涙をどうにか引っ込めようと目元をごしごし擦っていると、「傷になりますよ」と雛遊先生が僕の手を取った。
「君はやっぱり、姉と縁があるんですね」
僕を覗き込む琥珀色の瞳には、どこか諦めたような、悲しむような、複雑な色が渦巻いていた。
先生の姉である雛遊カルタさんとは、縁があるというか、遺体をそっくりお借りしているというか……。
さすがにそのまま説明するのははばかられたけれど、雛遊先生はなんとなく察しているようだった。
「泣いているのはきっと姉でしょう。『君』は無事ですか?」
「えっと、はい。僕は大丈夫です。アレルギーも最近はおさまってきてるみたいで」
びっくりしながら答える。身体と「僕」を切り離して気遣ってくれる相手は初めてだ。
答えながら見上げた雛遊先生は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「それで? 名前で呼んでたけど、あの白衣は知り合いなのか」
星蓮の問いに、雛遊先生はいつもと少しも変わらない顔で「はい」と答えた。
「あれは母の白衣です。命日が近いので、恐らく現れるのも今だけでしょう」
掛ける言葉を見失った星蓮をよそに、雛遊先生は「花でも供えておけば霊障は収まりますかね」と空いた花瓶に水を張る。
そんな二人の前で、カルタさんの身体から、また冷たい一雫が溢れて落ちた。