第九夜┊二「血染めの白衣」
「随分と面白い顔をしているな、雛遊。職員会議中だが」
固い口調に咎められて、私用のスマートフォンから顔を上げる。視線の合わないペストマスクの男が、嘴をこちらに向けていた。
「面白い顔とは失礼ですね、生徒や保護者の皆さんからも、それなりに人気のある顔ですよ」
「自分でそれを言うのか」
呆れる黒一色の男に向き直る。外見の面白さに関しては、ペストマスクを被る彼にとやかく言われたくはない。
廊下ではまだいくらか人の気配がするが、放課後の職員室にはもう自分たちしか残っていなかった。
「私とあなたの二人しかいないのに、これを職員会議と呼ぶのは無理がありませんか? バイス先生」
「職員が肩を並べて会議しているのだ。『職員会議』と呼称しても過不足ないだろう」
「こういうのは会議じゃなくて、『ご相談』と言うんですよ」
「ハ、さすがは国語教師。ご指摘には痛み入るが、細かい言葉に一々訂正を挟んでいては日が暮れるぞ」
「もう暮れ始めてますよ。下校のチャイムが聞こえませんでしたか? 私達も定時ですから、ご相談が以上なら帰りますけど」
マスクの上からでも、渋面が手に取るようにわかる。
彼の立場上、こんな風に言い返されることはそうそうないのだろう。
しかし彼がいくら優れた生物学者でも、本校内において私と彼はただの同僚だ。そして私は、どこかの宮司と再三つまらない言い合いを繰り返してきたせいで、言葉遊びには割と強い。
「それで、ご相談とは? 小手鞠君に嫌われてる理由が知りたいんでしたっけ?」
「理由などどうでもいい。手っ取り早く対処法だけ教えろ。どうやら貴様はあれに好かれているようだからな」
「生徒を指して『あれ』なんて言うところから問題なのでは。私は別に、特別なことはしていませんし、小手鞠君も理由なく他人を嫌う子ではありませんよ。小手鞠君を手懐けるより、自分の身の振りに問題が無かったか立ち返るほうが、いささか建設的だと思いますけどね」
背後で「俺に問題などない」と言い張る生物学者を無視して立ち上がる。
手の中のスマートフォンには「助けてください。怖い怪異に襲われています」と助けを求めるメッセージが届いていた。送信主は言わずもがな。いつぞや見たものと一言一句変わらないそれは、どうせまた小手鞠カルタのスマートフォンを借りただけのお呼び出しだろう。
けれど、小手鞠カルタ本人が困っている可能性が1%でもあるのなら、駆け付けてあげたかった。例え99%、徒労に終わるとしても。
……姉のように、助けすら求められなくなってからでは遅いのだから。
「位置情報がエラーになっていますね……。怪異に閉じ込められているんでしょうか」
矩形の紙を取り出して呟く。やがて喚び出された兎たちは、メッセージの送信主を探して一斉に駆け出していった。
背後ではバイス先生がこちらを向いたままだったが、ペストマスクを被ったまま教鞭を振るうような奇人だ。いまさら彼に変人扱いされても痛くも痒くもない。
だが、背後から伸びてきたその手は、走り去ろうとする兎のうちの一匹を、迷いなく掴んで持ち上げた。
「哺乳綱兎形目ウサギ科。……に見えるが、虹彩の青は自然界では存在しない色だ。知能指数も随分と高いようだな」
「……それが視えるんですか」
「ほう、これは常人の目には映らないのかね。俺にはその違いが判らんが」
ぱっと手を離されると、白兎は逃げるように走り去っていく。
入れ替わるように、校内でよく見かける三尾のネズミが、赤い目を光らせながら彼の足元に寄った。
「小手鞠なら実験棟だ。保健室の噂を確かめに行ったんだろう」
「……彼に監視でも付けているんですか」
「貴様がやっていることと何ら変わりないと思うが」
三本の尾を揺らめかせるネズミを手に乗せて、男が私を見る。
彼の言葉を鵜呑みにするつもりはさらさらなかったが、実験棟から戻った白兎が、彼の証言を裏付けた。
「私は実験棟に行きますが」、と警戒しながら声をかける。だが男は思いのほかあっさりと頷き、「勝手にしたまえ」と答えて椅子に掛けた。
「俺が行ったところで、あれは閉じ籠もって出てこないだろう。貴様が行く方が早い」
「そうですか、では私はこれで」
軽く会釈して踵を返す。
いまいち掴めない男だが、どのみち理解し合えるタイプではない。何かを極めた専門家というのは大概どこかネジが外れてしまっているものだ。
職員室に取り残された男が「小手鞠は文理で区分するなら理系のはずだが、なぜ国語教師が好かれてこの俺が嫌われるのだ。全く理解できん」と一人でぼやいていた。