第二夜┊三「陸を泳ぐ魚」
「なあ、人魚も綺麗だったら連れて帰るのか?」
先程の新たな噂話を指してか、彼がこちらを振り返る。しかし、まるで僕が好みの女性を片端から部屋に引き込んでいるような言われ方をするのは心外だ。
「そもそも無理があるだろ。向日葵さんは絵画だから部屋に飾ることもできたけど、部屋で人魚を飼うスペースなんてないよ」
僕の言葉に、彼は押し黙る。
寮は二人一室で既に定員。これ以上誰かに割くスペースはない。
人魚ともなれば大きな水槽を用意してやらないといけないだろうし、絵画一枚を持ち帰るのとはわけが違う。物理的に不可能だろう。
「そういうの抜きにしてさ。人魚を連れて帰っても、問題なく部屋でのびのび育成できるとしたら? おまえは、連れて帰りたいと思うのか?」
「やけに食い下がるなあ……」
まあ確かに、人魚は怪異というよりも伝説上の生物という印象に近い。それに僕はもともと、きれいな魚を鑑賞するのが好きだ。錦鯉とか、熱帯魚とか。
いい女だからどうとかいう価値観はさておいて、人魚を連れ帰って飼育できるというのなら……。
「興味はあるかも……」
「……おれらの部屋、そのうち怪異博物館になりそうだな」
彼は複雑そうな顔でしばらく腕を組んでいたが、やがて少し柔らかくなった声音でそう答える。
もう、飴を噛み砕く音は聞こえてこなかった。
✤
「……で、僕達はなんでまた旧校舎にいるんだ?」
「だって、おまえも人魚が気になるだろ?」
声を潜めて隣の彼に語り掛ける。僕も気になっているのは確かだけれど、君も意外とミーハーだねと視線をやれば、「人魚の肉って、食べると不老不死になれるらしいぞ」なんて返してくる。
冗談かと思って聞き流したが、彼のベルトに見覚えのある短剣の柄が差し込まれていて、「あれ? 冗談だよな……?」と僕は青くなった。
現在時刻は十八時。門限まではまだ余裕があるが、初夏が近付くにつれて日没も遅くなっており、西の空には夕陽が尾を引いている。
橙色から夜へと移り行くグラデーションは見ものだったが、夕焼け空なら自室の絵画の方が綺麗だな、なんてちょっと得意げな気持ちになった。
「嘆きの人魚、もういるかな」
「まだちょっと早そうだけど……」
夜に現れ、さめざめと泣く人魚の姿は想像できても、まだ太陽も落ちきっていないこんな明るさの中で人魚が泣いていたら、ちょっと興醒めだ。
もう少し待つか、と言いかけたところで、中庭の池から大きく水が跳ねる音が聞こえてきた。
「なんだ、もうおでましか?」
「サービス精神旺盛な人魚だな」
口々に勝手なことを言いつつも、僕はちょっとわくわくしながら生け垣の隙間から中庭を覗く。
旧校舎と新校舎の間に造られた中庭は広く、日本庭園らしい厳かなつくりをしていた。
日暮れとともに石灯籠に仄かな光が灯り、池の水面はかすかに残った夕日の光を受けて金色に輝いている。小石を投じたかのような小さな波紋が水面に浮かんでは、優雅にその輪を広げていった。
池の縁には苔むした石が並び、この中庭が作られてから経過したであろう、ゆったりとした時の流れを報せている。
どちらかといえば、人魚よりもかぐや姫の方が出てきそうな雰囲気の庭園だった。
「嘆くほど悪い池じゃなさそうだけどな。強いて言えば、ちょっと狭いくらいか」
「いや、十分広いだろ……」
見渡す限りの庭園だというのに、これでもまだ不足しているのだろうか。だとしたら、やはりとてもじゃないが二人一室のしがない1DKでは人魚は飼えそうにない。
嘆かれても困るし、諦めて帰ろうか……。
そう思った瞬間、先程聞いたものよりずっと近い場所で、ざぱりと水が大きく噴き上がった。
「えっ……」
水面から顔を出したのは、一見して巨大なナマズのようだった。
黒灰色の体表が、動きに合わせてぬめぬめと粘ついた光りを放つ。口は異様に広く裂け、鋭い牙が棘のようにびっしりと並んでいる。八方に伸びる長い髭を揺らして開かれたその隙間からは、鼻がもげるほどのひどい悪臭がした。
背中には無数の黒いヒレが並び、そのヒレが水を掻くたびに、庭園全体に大きな水音が響き渡る。尾鰭もまた、不気味に揺らめきながら池の水をかき混ぜていた。
突然、体中を襲った痛みと凄まじい息苦しさに、僕はその場で膝をつく。
アレルギー反応だ。
最近はどこにいてもうっすら痒みがあるから、かえって慣れてきてしまっていたけれど、久し振りに巨躰の怪異に出会ったせいか、うまく呼吸ができない。
星蓮はうずくまる僕と怪異の間に立ちはだかると、顔無し女の時と同じ短剣を取り出した。
「醜悪だな。肉を喰う気にもならない」
彼も美しい人魚の姿を期待していたのだろうか。星蓮は珍しく顔をしかめて吐き捨てる。
この巨大ナマズが人や怪異を喰っていることは、異臭のする口元と、その中にぎっしりと並んだ牙を見るだけでも明白だった。
ぐわっと見せつけるように口を開けると、巨大ナマズが僕らの眼前に迫ってくる。地面が揺れるほどの巨躯をうねらせて、掻き分けられた水がざばざばと悲鳴を上げた。
平べったい頭の両側についた目玉は、ギョロギョロと四方に動きまわりながらも、目の前の星蓮だけを映していた。
「星蓮!」
息苦しさを押さえつけて、名簿で見た彼の名前を叫ぶ。初めて名を呼ばれた星蓮は驚いたようにこちらを振り返って、その刹那に飛び出した僕が、彼とナマズの間に体を滑り込ませた。
——ぐちゃり、と嫌な音がした。
突き飛ばされた星蓮が、尻餅をついて僕を見上げる。
その視線がもう一度僕を捉えて、綺麗な瞳孔が波立つように揺れた。
見下ろすまでもなく、感覚と彼の反応で理解する。
……喰われた。
僕の右肩から胸下までは大きく抉れ、そこだけぽっかりとくり抜かれたように、半円形に無くなっていた。
巨大ナマズは喰い千切った僕の肩に残虐な歯型を残していて、惨い見た目そのままに、気が狂いそうな痛みと衝撃を僕に与えた。そればかりか、傷口に残されたナマズの粘液による怪異アレルギーの熱と苦しさで朦朧としてくる。
「ああ、これは助からないな」、とどこか他人事のように悟った。
「おまえ……、どうして……、なんで俺なんかを……」
目の前の出来事が信じられないようで、彼は唇をわななかせながら膝立ちで僕ににじり寄る。
何か言うべきかと思ったけど、痛みと息苦しさで何も考えられず、開いた口からはびしゃびしゃと血が溢れた。
右肺も大きく齧り取られて、息を吸っても酸素をうまく取り込めない。陸に打ち上げられたサカナのように、僕はぱくぱくと口を開閉させるしかなかった。
どんどん目の前が暗くなって、足の先から死が僕を包み込んでいく。
ゆっくりと冷たい沼に沈んでいくような感覚に恐怖したけれど、それを体現する余力はもう、残されていなかった。
「ごめん……」
遠くで、星蓮が謝る声がする。
気にするなよ、って言おうとした口に、何かが捩じ込まれる感覚がした。