第八夜┊三十「星屑を呑む魚」
千鶴さんの言葉は、僕に驚異的な成長をもたらした。きっと発破をかけた本人も、ここまで効果があるとは思っていなかっただろう。
それくらい、星蓮が死んでしまうイメージというのは、僕の中で耐えがたいものだった。
秒を追うごとに研ぎ澄まされていく集中力。
高ぶっていく感情と相反するように、冷え切った思考。
この試合を望み、嫌がる星蓮を無理やり引っ張り込んで戦わせたのは僕だ。
だから僕には、彼を全ての傷から守る義務がある。
これまで漠然と思い描いていた「星蓮に傷付いて欲しくない」という願いが、「絶対に傷付けさせない」という確固たる決意へと塗り替えられていく。
再計算。再計算。再計算。
幾重にもパラメータを付与され、ダミーの式も混ぜ込まれた術式は、とっくに小刀では破壊できない強度に達していた。
それまでリードしていた千鶴さんも、解錠の計算に追われ始める。
今のうちに、千鶴さんが張った結界を、今度は僕が解かなくてはいけない。
ちら、と僕を見やった星蓮が、どこか怯えたような顔をしていた気がしたけれど、構う余裕はなかった。
若宮さんに掛けられた五重の結界は、洗練されていながらも複雑な式だった。
けれど僕はもともと、構築よりも解錠のほうが得意なのだ。
「二つ、羽合わせ妹背山
四つ、向き合い風車
藤の花を御魂に刻み 末の子供が通ります
檻紙の名を錠前に
道阻むものを取り除かれませ」
祝詞とともに適用された逆関数によって、若宮さんを保護していた結界が、雪解けの水のように地面に滴っていく。
けれど最後の一枚が解け落ちる前に、千鶴さんが再び結界を重ねた。
星蓮の結界を解くことより、若宮さんを守ることを優先したのだろう。切り替えるタイミングは絶妙で、絶対に結界を剥がれさせてはいけないと言うだけはある。
しかし、解けかかった結界に気付いたからだろうか。紅い瞳がギロリと僕を向いて、明確に敵意を刻んだ。
「やはり元を断ち切らないとキリがない。怪我を負わせずとも、君の意識を落とすくらい——」
「はーい、全員そこまで」
迫る若宮さんと僕の間に割って入って、男が両手を広げる。
案内役と審判を兼ねているらしい黒髪の男は、エントランスホールでいろはさんと一緒にいた人だ。
「神獣『白沢』……。なぜ止めるんですか」
「うちのお姫さんからお披露目の審判を預かってるからね。ここでは俺の言うことは絶対。——挑戦者は失格。若宮かさねとその式神の勝利をもって、総計五十戦の手合わせを終了とする」
「な、なんで……!」
唐突な終了宣言に抗議しようとして、はっと気付いて星蓮を見やる。
気まずそうな顔でこちらを見ている彼は、仕切られた会場の結界より、一歩外へと踏み出していた。
自分から場外に出たのだろうか。
……どうして。失格になると知っていたはずなのに。
「おまえ、自分が今どうなってるか判ってるか……?」
「え……?」
星蓮に言われて、口元に滴る汗を拭う。
やけにぬるついたそれに視線を落とすと、手が真っ赤に染まっていた。
「わっ……」
「あら……。過集中と脳疲労でしょうか。出血はただの鼻血のようですが、脳の過負荷は行き過ぎれば後遺症を残します。中断は妥当でしょう」
少し診せていただけますか、と千鶴さんに言われるがまま、簡易的な診察をされる。白沢さんも東洋医学に詳しいらしく、二人は僕の脈拍や血圧を測った後、いくらか話し合いながら不思議そうに首を傾げていた。
やがて白沢さんに「脳のダメージは大丈夫そうだね」と結論づけられる。
「どうやら君の脳は、檻紙のお嬢さんに負けず劣らずの高スペックみたいだ。その気になればもっと高水準な計算も並行してこなせるだろうけど、君、これまで意識的に頭を使わないようにしてきたんじゃない? 臓器っていうのはいずれにしたって、日頃使ってないものを急にフル稼働させたら何かしら不都合が起きるものだよ。胃もたれならぬ脳もたれってところだね」
脳もたれなんて言葉は初めて聞いたけれど、一般人にもわかりやすく説明してくれる専門家というのはありがたい。
意識的に頭を使わないようにしていたことを指摘されてドキリとしたけれど、幸いにしてそれ以上の追求はなかった。
そんな僕の横から「ですが、」と千鶴さんが心配そうに口を挟む。
「脳というのは未だ解明されていない物も多い箇所。安全をとって、少し休まれた方がいいでしょう。どこか風通しの良いところに座って、水を飲んでください。会食の場に戻るのがいいかもしれませんね」
「診察も終わったことだし、全員退いてくれるかな。君たちのせいで、やっと綺麗になったばかりの裏庭がとんでもない有り様だ」
「千鶴さんの結界のおかげでこの範囲で済んだのですから、むしろ感謝していただきたいくらいですけどね」
「ああ、檻紙のお嬢さんには感謝してるよ。まかり間違っても君に述べる謝辞はないけどね」
いろはさんの神獣だけあって、こちらもしっかり若宮さんのことが嫌いらしい。
人議を経て結構な人数に出会った気がするけれど、若宮さんのことを嫌っていないのは、もしかして千鶴さんだけなんじゃないだろうか。
「あーあ。地形もすっかりガタガタだし、こんなに木を生やされたんじゃ庭師に頼むわけにもいかないじゃないか」
白沢さんは変わり果てた裏庭の姿に大きく肩を落とすと、古びた巻き物を両手に広げた。
合わせて、白沢さんの足元に金に輝く陣が描かれていく。
中国語のような言葉で巻物の中身を読み上げると、会場を覆っていた木々が逆再生するように、どんどん小さくなっていった。
……もしかして、時を戻す呪文なのだろうか。
だとしたら、これはかなり凄いことなんじゃ。
「なに? 見せ物じゃないんだけど」
元の姿に戻っていく裏庭を背に、金色の瞳がじろりとこちらを睨む。
僕らは白沢さんに急き立てられて、人の減った会食の場に戻ることにした。