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第八夜┊二十九「星屑を呑む魚」

星蓮せいれん……っ!」

「駄目です、危ないですよ!」


 手を伸ばす僕を千鶴ちづるさんが引き止める。

 若宮さんの言う通り、踏み込みすぎたらしい星蓮せいれんは、その攻撃をかわしきれなかったようだ。

 振り抜かれた刀の切っ先は、まっすぐに星蓮せいれんの首へと向かっていく。


 ……全てが、スローモーションのように見えた。

 地面に書かれた30行超えの術式を読み解く。今からこの演算をしていたら間に合わないだろう。

 無駄を全て省いて簡略化された方程式を、頭の中で再構築する。


 海の中に沈んだように、周囲の雑音が耳から遠のいていった。

 時間も、気圧も、重力も、全てが僕の手の中で数値と記号に置き換えられていく。

 やがて導き出された一つの解は、大きな魚の形をしていた。


「Ψ(x,t) = ∫∫∫ ξ(r,θ,φ,T,P,ω) * exp(-i(Et-p⋅x)/ℏ) d³x」


 ガツン! と高らかな音が響く。

 折れた刀の先端がくるくると円を描きながら落下して、僕らの目の前で地面に突き刺さった。

 結界に弾かれて折れてしまったのだろう。伸ばした指の先で星蓮せいれんを囲う透明な盾は、いつか眺めた星空のように、きらきらと輝いていた。


「……千鶴ちづるさん、あなたまで敵に回すつもりはないのですが」

「いえ、それは私の結界ではありません。牡羊座アリエスが……」


 若宮さんが最初に星蓮せいれんから目を離して、僕を見た。

 次に、千鶴ちづるさんと星蓮せいれんが僕に視線を向ける。


 教わった30行超えの式を元に、一行に凝縮して再構築された結界の基本方程式。

 しかし発動速度を重視するあまり、いくつか必要な式が抜けてしまっていたようだ。

 僕はそのきらめく結界に、リーマン曲率テンソルによる結界強度と、安定性条件を加えていく。


「det|R_μν - ½Rg_μν + Λg_μν| > κ₀……」


 強度と安定性を付与された結界は、さらに強固な壁となって星蓮せいれんを覆った。

 これなら、少なくとも若宮さんに斬り付けられることはないだろう。


「おまえ……」


 びっくりした顔をしてこちらを見ている星蓮せいれんより先に、若宮さんが動いた。

 すかさず持ち替えられた弓がこちらを向いて、矢が放たれる。

 僕を抱き止めていた千鶴ちづるさんが、今度こそ自分で結界を張ってそれを防いだ。


「落ち着いてください。牡羊座アリエスに怪我を負わせたら私たちの負けです。彼は敵ではありません」

「結界術師と治癒士は最初に命を狙われます。自分を守らずに他人に結界を施すなど自殺行為。覚えておいてください」


 若宮さんの叱責は僕に向けられたものだったが、「ごめんなさい。最初に教えなかった私の失態です……」と千鶴ちづるさんがしおれる。

 そっか、自分にも付与しないといけないのか。学習した僕は、同じ方程式で自分と千鶴ちづるさんも覆った。


「この強度で同時に二つの結界を張りますか……。こんな演算ができるのは千鶴ちづるさんだけかと思っていましたが、君もなかなか狂った頭脳をお持ちのようだ」

「それ、褒めてるんですか?」

「褒めていますよ」


 さらりと返す若宮さんの背後から、星蓮せいれんが両腕を振り上げる。

 若宮さんは振り返ることもなくそれを避けて、大きく距離を取った。


「セオリーに従うなら結界術師から排除するべきなんですが、お披露目ひろめのルールのせいで手も足も出せませんね。さて、どうしたものか……」

「すぐに悩まなくていいようにしてやるから、一秒だけじっとしてろ」


 距離を取ったばかりの若宮さんに、星蓮せいれんが詰め寄る。

 刀が折れてしまった今、弓を持つ若宮さんには近距離戦闘の方が有利だと判断したのだろう。

 這い寄る大きな鯨の影に、若宮さんが息を吐いて懐から小刀を取り出した。


「信頼と過信は別物ですよ。総司そうじさんがいたら0点を言い渡されていたでしょうね」


 千鶴ちづるさん、と声に出さずに若宮さんの唇がかたどる。

 途端、星蓮せいれんを厳重に覆っていた結界にヒビが入って、はらはらと藤の花びらのように霧散していった。

 距離を詰めようと飛び込んでいた星蓮せいれんは、急には止まれず足をもたつかせる。目を狙って突き出された小刀から、なんとか上半身をよじって逃れていた。


「徹底的に無駄を省いて発動速度を重視した式、お見事です。しかしそれは解錠も容易である諸刃もろはの剣。……牡羊座アリエス。人を守りたいと願うのならば、一秒たりとも結界を剥がれさせてはいけません」

「は、はい!」


 千鶴ちづるさんに教えられた通り、即座に星蓮せいれんを守ろうと再計算するが、構築するそばから結界が散らされていく。

 僕が立て直すより、千鶴ちづるさんの解錠の方がはるかに速いようだった。


 そして今度は若宮さんが、薄氷のような結界に覆われる。

 肉眼では捉えられないほど、どこまでも薄く透き通った結界は、しかし複雑な条件分岐がいくつも課された牢固なものだった。


 あれを解かないと、星蓮せいれんがいくら殴り付けても若宮さんは無傷だろう。

 だけど解錠より先に、僕は星蓮せいれんを守り直さなくてはならない。再計算に追われ続けて目が回りそうだった。これが実戦での、結界術師の立ち回りなのだろう。

 

 何度張り直しても、式が完成する前に千鶴ちづるさんによって解かれてしまう。

 僕が星蓮せいれんの結界に四苦八苦している間に、若宮さんの結界は五重になっていた。


「六華晶 天地結びて 盾なりや……」


 さっと足元に霜が下りて、星蓮せいれんの進路を塞ぐように氷の蔓が伸びる。

 解錠と張り直しを繰り返しながら、さらにこんな妖術まで扱えるなんて、本当にすごい。

 息を切らす僕に、「牡羊座アリエス、あなたが向き合わなくてはならないのは、計算式ではなくて、目の前のお友達ですよ」と千鶴ちづるさんが囁く。


「あなたが守らなくては、星蓮せいれんさんは死んでしまいます。目を突かれれば視力を失い、耳を落とされれば聴力を失うでしょう。手足の先でも、彼から失われていいものなどないはずです。——想像してください。彼が殺されるところを。その悲しい未来を覆すために、自分が何をすべきかを」


 千鶴ちづるさんの言葉に、大きな魚が僕の目の前で崩れていった時の姿が思い起こされた。


 ぶわっと、全身が総毛立つ。

 星蓮せいれんに欠けていいところなんてない。

 髪の先一筋だって切り落とさせない。


 ξ(r,θ,φ,T,P,ω) = α₁T² + α₂P³ + α₃ω + α₄g + α₅V +

    β₁∇²T + β₂∇P + β₃rot(ω) +

    γ₁∂T/∂t + γ₂∂P/∂t + γ₃∂ω/∂t……


 基礎構造にいくつもの条件を加算していく。

 重ねられた多次元パラメータによって作られた堅牢な結界は、解錠も破壊も今までよりずっと困難なはずだ。


 これは星蓮せいれんのために作られた、彼だけの術式。

 表題——。


「『星屑を呑む魚(pisces)』」


 明確にイメージを持って再構築された結界の中の星蓮せいれんは、オーロラの中をたゆたう魚のようだった。



結界を張ってみたい!という方のために、小手鞠カルタの計算式を残しておきます。

強度の高い結界については、更に条件分岐などの式が追加されていきます。


// パラメータ

三次元空間座標(x,y,z)、時間(t)、気温(T)、気圧(P)、風速ベクトル(ωx,ωy,ωz)、重力(g)、体積(V)


// 単位及び補足プロパティ

T: 気温 [K]、P: 気圧 [Pa]、ω: 風速ベクトル [m/s]、g: 重力加速度 [m/s²]、V: 結界体積 [m³]、κ₀: 結界安定性閾値、α,β,γ: 結合定数、Λ: 妖力密度定数、ℏ: 修正プランク定数


// 結界構築の基本方程式

Ψ(x,t) = ∫∫∫ ξ(r,θ,φ,T,P,ω) * exp(-i(Et-p⋅x)/ℏ) d³x


// リーマン曲率テンソルによる結界強度

R_μνρσ = Γ^α_μσ,ρ - Γ^α_μρ,σ + Γ^α_βρΓ^β_μσ - Γ^α_βσΓ^β_μρ


// 結界の多次元パラメータ

ξ(r,θ,φ,T,P,ω) = α₁T² + α₂P³ + α₃ω + α₄g + α₅V +

β₁∇²T + β₂∇P + β₃rot(ω) +

γ₁∂T/∂t + γ₂∂P/∂t + γ₃∂ω/∂t


// 結界の安定性条件

det|R_μν - ½Rg_μν + Λg_μν| > κ₀

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