第八夜┊二十八「星屑を呑む魚」
「いつかあなたにも、名前をつけてくれる人が現れるといいですね。名前は素晴らしいものですよ。ここに居てもいいのだと、名を呼ばれるたびに実感できます」
千鶴さんはそう言って、自分の名前を愛おしむように指を合わせて頬を染めた。
千の鶴。檻紙の名字と合わせたそれは、きっとこれからたくさんの幸せが訪れることを祈って付けられた名前なのだろう。
やはり、千鶴さんは怪異になってしまったとしても、今の生活の方がずっと幸せなんだろうな、と心の底で思う。
——名を付けられることもなく、年を数えてくれる者もおらず。暗い座敷牢にひとり閉じ込められていた過去を思えば。
僕はその光景を知らない。けれど、ずっと聞いていた。
未だ見ぬ姉が、母に蔑ろにされる声を。
暴力を振るわれる音を。
それらの光景を千鶴さんが覚えていないというのは、むしろ救いのようにも思えた。
「牡羊座は、なにか私とお話したいことはないですか?」
「そうですね……、結界ってどうやって作るのか、教えてもらえないでしょうか」
「結界ですか?」
藤色の瞳が大きく瞬く。
星蓮の話では、どんなに簡単な結界でも十一次元の空間を計算して構築しなくてはいけないらしい。算術に慣れた千鶴さんのことだ。一体どれほど難しい方程式が飛び出すのかと、胸中で身構えた。
「そうですね……。牡羊座も怪異と関わりの多い境遇のようですし、身を守るすべは持っておくべきでしょう。折り紙も九尾さんにあげてしまわれたようですし、特別にとっておきの術をお教えします」
「お願いします」
千鶴さんは暫く考え込む素振りを見せたあと、「こう……、ぎゅっとして」と目の前で祈るように指を組む。
僕も倣って、同じように指を組んだ。
「しゅっ、として……」と言いながら千鶴さんが両手で三角形を作る。
向かい合う僕も三角形を作った。
「しゃらーん! です」
千鶴さんがぱっと両手を広げる。
……以上で終わりらしかった。
「……ぎゅっとして、しゅっとして、しゃらーんですか?」
「はい。牡羊座は飲み込みが早くて助かります。かさねさんたら、これではわからないと仰るんですよ」
千鶴さんがほっとしたように頬に手を添える。
僕はこの説明を聞いた時の、若宮さんの反応をぜひとも見てみたかった。
「えっと、総司さんとか千鶴さんみたいに、呪文を唱えなくていいんですか?」
「呪文、ですか」
あれを呪文というのかどうかも定かではないけれど。できれば僕も、なにか格好いいことを言いながら格好いい技を出したい。年頃の男の子というのはそういうものなのだ。
期待する僕に、「呪文というより、『お祈り』でしょうか」と千鶴さんが返す。
「きっと、やってみたら何を言えばいいか自ずとわかるはずですよ。でも、本当に困った時以外は使わないでくださいね」
「これって、なにか危ない術なんですか?」
「危ないことはないのですけれど……。緊急時のお助け魔法、とでも思っておいてください。回数制限があるわけではありませんが、あまり何度もお呼びたてするのも申し訳ないですし」
「お呼びたて?」
誰を呼ぶのだろうか。
それとも、これは「お祈り」の術だから、単に祈る先を「お呼びたて」していると呼称しているだけだろうか。
よくわからないものは仕方がないのでそれとなく流していると、「ちなみに、普通の結界はこうです」と千鶴さんが木の棒で地面に長々と式を書き始めた。
ぎっちりと詰まった数式が20行を超えたあたりから、だんだんと頭の片側が痛くなってくる。
そんな僕らの目の前を、ものすごい勢いで星蓮の身体が横切っていった。
吹き飛ばされた先でぶつかった大樹が、何本も根本から折れていく。
数メートル先でようやく止まった星蓮の制服は、ボロボロに破れてしまっていた。
「か、かさねさん。いけません、やりすぎです」
「手加減できる相手じゃないんです。すみませんが手足の一本くらいはご容赦ください」
星蓮の様子を見て非難の声を上げる千鶴さんに、若宮さんが答える。こちらもかなり息を乱していて、立派な濡羽の羽織がところどころ裂けていた。
「いてて……。あーもう、ちょこまか動き回りやがって。逃げるんじゃねーよ」
「無茶を言わないでください。私はか弱い一般人ですからね。一発でもあなたの拳を受けたら死んでしまいます」
「なーにがか弱い一般人だ。俺の体をここまで蹴っ飛ばすやつが一般人なわけあるか」
星蓮が粉々になった木の皮を肩から払って、じっとりと若宮さんを睨む。
どうやら蹴り飛ばされたらしい。鴉取の時といい、若宮さんもなかなか足癖が悪いようだ。
起き上がった星蓮がとんとんと爪先で地面を蹴ってコンディションを整え直す。
次の瞬間には、もうその場にいなかった。
さっと避けた若宮さんの顔のすぐ横を、空振った星蓮の拳が通り過ぎる。
星蓮だって運動神経はいい方だと思うけれど、あれで「のんびりした怪異」と称されるのだから驚きだ。ここにいるのはつくづく、生きるステージが違う人たちばかりらしい。
少年の腕から放たれた一撃とは思えない威力に、大気が悲鳴を上げて八つ裂きにされる。五百トン分の体重を乗せられた拳は、それ自体が自然の摂理に反していた。
重い一撃はしっかり回避されたはずなのに、カマイタチのように若宮さんの髪をはらりと一房切り落とした。
「踏み込み過ぎですよ。そこからどうするつもりです?」
鞘から微かに覗いた刀身が光る。
星蓮の拳を受け流しながら振るわれる一閃は、どこまでも冷徹で迷いがなかった。