第八夜┊二十四「千の鶴、一羽の鴉」
「まあ。ようやく本気になってくださったのですね。そんなにも式神の命を大切にしていらっしゃるなんて、やはり総帥様は式神使いの鑑。しかし先程お試しになった通り、私に火は……」
語りかけていた言葉が途切れる。
それまで黙っていた襲が千鶴の前に踊り出て、鞘のまま鋭い斬撃を受け流した。
不意打ちを弾かれて宙を舞う鴉取の両手は、クナイで柄ごと貫かれている。
寒さで刀を握れない手に、自らクナイを刺したのだろう。
「これにも反応できるんか。綾取の坊ちゃんも、つくづく人間やめてはるよなぁ」
「あなたもその環境でよく動く。手を出さないと約束してしまったのが悔やまれます。次はぜひ真剣でお手合わせを」
「アンタらとは二度とやりたないわ。もうそんな気ぃ起こさへんように、今夜の一回で叩きのめしたる!」
再び刀を構える鴉取は、総司が祓詞を唱え終えるまでの時間稼ぎだろう。言葉を交わさずとも、双方の意図を汲んで動ける連携力と戦術は、確かに対複数戦で圧倒的有利を誇る。
もしも彼らに敗因があるとすれば、——檻紙千鶴が何の伝承から力を得ているのか、見抜けなかったことだろう。
そして総司が対策を施すよりも、千鶴の術の発動の方が早かった。
「常闇に 氷刃きらめく 鶴の舞」
渦巻く冷気は、これまでよりずっと強大なものだった。
千鶴の背後で、観覧車のように巨大な円を描きながら回る氷柱は、どんどんその鋭さと大きさを増していく。
先の機械弓の比ではない。
吹き荒ぶ吹雪が強風となって、足を踏ん張っても檻紙千鶴に吸い寄せられていった。風の音がノイズとなり、お互いの声も聞こえにくい。
この強風と低体温の中で、あんなものが射出されたらひとたまりもないだろう。
「む、無理無理! 総司、あんなの無理やって。撤退撤退!」
「もう少し粘れ」
——降雪に氷、雪女か? いや違う。一体何の伝承だ……?
総司が必死に頭を巡らせる。雪を降らせ、氷を扱う伝承はそう多くはない。
何の伝承か分かれば対策の立てようもあったが、ここまで来ても解き明かすことはできなかった。
雪女であれば、あの業火に抗うことなどできなかっただろう。
ということは、伝承そのものが雪や氷なわけではない。
「……季節か!」
「ご名答。これは冬にまつわる伝承です」
しかし、もう遅い。
準備を終えた無数の氷刃は、横殴りの吹雪をものともせず、二人へ向かってまっすぐに放出された。
総司が札を並べ、その一つ一つを狙って撃ち落としていくが、目も開けていられないほどの吹雪に邪魔される。圧倒的な質量と速度に、間に合わないと悟った鴉取がその体を抱えて退避した。
ドン! と爆発するような地響きが鳴って、鴉取は総司を抱えたまま地面に叩きつけられる。
凄まじい風圧に、翼と背中をガリガリと削られながら地面を転がっていったが、場外に弾き出される寸前でなんとか踏みとどまった。
「っく……」
「無事か、鴉取」
自分を庇って倒れ伏している式神に声を掛ける。
残っていた翼もあらぬ方向に折れ曲がり、黒く艶やかだった羽根は抜け落ちて、そこかしこに散らばってしまっていた。
振り返った先では、既に檻紙千鶴が二撃目を打ち込もうと手をかざしている。
「……総司。あの人は死んでないだけで、もう人間じゃあらへんよ。……あれは怪異や。あいつら、人間を生者のまま怪異に変遷させはったんや……」
忌々しげに言い残して、鴉取が腕の中で目を閉じる。
生命活動の限界だろう。気温は既に、氷点下50度に達していた。
鶴の名を冠した、冬の伝承。
檻紙千鶴が生者のまま怪異に身を落としていたことは、人議で顔を合わせた時から判っていた。——だが。
「人の心と形を保ち、人の世を守るために命を賭せる者を、俺は『人間』と呼ぶ」
顔を上げ、千鶴に向かってそう答えると、腕の中の式神を包むように札を貼っていく。
防御も攻撃も捨てて集中してやれば、結界のうちの一つくらいは解錠してやれるだろう。
……加温を遮断する結界。
それさえなくなれば、力尽き果て、眠りに就いた鴉天狗を温めてやれる。
勝ちを捨てた雛遊総司に、檻紙千鶴は少しだけ驚いて、自分の頬に手を添えた。
「こんな私を、人と呼んでくださるのですね」
——人ならざる力を使い、怪異を呑み込む私を、それでも人と認めてくださるのですね。
独白とも問い掛けともつかない千鶴の言葉に、総司は式神を救命しながら答える。
「お前も何度か危ぶまれたはずだが、この試合中一度も、観客を守る結界を揺るがすことはなかった」
会場と観客を仕切る、直方体の結界。
それは大立ち回りによる流れ弾から、観衆を守るためのもの。
業火に焼かれ、計算に追われ、数多の怪異を相手にしていても、その結界だけは最後まで保たれた。
「ええ。だってそれは、みなさまの安全を守るためのものですから。檻紙は人を守ります。それが私に課せられた、最初にして最大の使命です」
千鶴の言葉に、息を吐く。
それだけ判っていればいい。
檻紙が焼け落ち、綾取は当主不在。三家を率いるため、ずっと一人で戦ってきたが……。
最初に若宮かさねが宣言した通り、確かに今夜、肩の荷が一つ降ろされた。
「これだけ戦闘に秀でているならば、直ぐに実戦でも活躍できるだろう。使えるものは使わせてもらう。それに、お前が今代の檻紙当主を名乗るならば、叩き込まねばならないことが山程ある。音を上げるなよ」
「ふふ。不束者ではございますが、ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。——それでは今夜は胸をお借りして、白星を頂戴いたしますね」
檻紙千鶴は静かに笑って、祝詞を上げた。
一つ、開いて折羽鶴
三つ、水面に瓜の蔓
五色の反物、願い込め
あなたに機を織りましょう
きいこばたん。きいこばたん。
「手織機、『雲中白鶴』」
朝日のような光を感じて、総司はふと空を見上げる。
遥か頭上では、氷に透けた白鶴が自由と解放を喜ぶように空を飛んでいた。
そして……——。
少しの猶予も、微かな隙間も、僅かの慈悲もなく。
会場の上空から、無数の氷柱が降り注いだ。
✤
いつかのカフェで、若宮かさねは少年らに説いた。
『童話の怪異、それも『人魚』となれば、その力は私たちにも匹敵するほどの強大なものとなるでしょう』と……。
——それは約束の物語。
あなたが約束を違えなければ、私はここで恩を返し続けましょう。
ですから、決して中を覗いてはいけませんよ……——。
怪異——『鶴の恩返し』。
月夜に照らし出された衆目の中、その怪異はようやく産声を上げた。