第八夜┊二十三「千の鶴、一羽の鴉」
「あれ、なんか怒ってはる?」
千鶴から距離を取りながらも、「あの人、怒りは封じられとるはずやんな?」と尋ねる鴉取に「エントランスホールの件とはなんだ」と総司が聞き返す。
「エッ」と上擦った返事が鴉取の喉から絞り出された。
「あんなところで牡羊座を凌辱するからですよ」
「エッ」
笑顔とともに送られた襲の補足に、再び鴉取から声が上がる。先ほどよりもさらに甲高い声だった。
挙げられた牡羊座の名に、総司の眉がぴくりと吊り上がる。
「……鴉取、後で詳しく話を聞こう」
「俺、ここから生きて帰れても、結局命なさそうやなぁ……」
諦めたように空を仰ぐ鴉取の目から、ほろりと一粒涙が落ちる。
そんなやり取りをよそに、呼び込まれた風が千鶴の長い髪を揺らした。
「雪の花 月影揺らぐ 静寂や……」
檻紙千鶴が目を閉じ、深く息を吐く。
その吐息は白い霧となって周囲に広がっていった。触れたら凍るような冷気であることは感じ取れたが、既に全てが凍てついた後だ。霧が凍らせるものはもう何もない。
「なんや、不発かいな? 怯えて損したわ」
「奴らはこの局面で無駄撃ちするほど愚かではない。慢心は命取りだ、気を引き締めろ」
時間差で効果を現す術だろうか。
総司はすかさず周囲に気を配ったが、何の変化も見られなかった。
「何の術かもよう分からへんこの霧の中で、アンタは下手に動くなって言うやろうけど……。檻紙ちゃんが疲弊しとるうちに叩き込んだ方がええんとちゃう?」
「それも一つの手ではある。お前がこの霧に臆せず突き進めるというのなら、採択しよう」
総司は鴉取の肩を叩くと、勇気付けるようにその背を押した。
「行け。お前も伝承の力を見せてやれ」
「ちょ、適当なこと言わんといて! 無理やって知っとるやろ、鴉天狗に何ができると思うてんねや!」
鼓舞する主人を振り返って叫ぶ。九尾の狐や酒呑童子と違って、鴉天狗に華々しい伝承はない。
せいぜい子供をさらったとか、羽団扇を片手に空を翔けたとか、——多少剣の心得があるとか、その程度だ。
今のところ戦闘に加わる様子はないが、若宮かさねは武芸の達人。
弓と刀だけで零落した神々を屠る「神殺し」。
……その腰に帯刀されている鞘に、先ほど指を掛けていたことは知っている。
雛遊家の式神なら、どんな相手でも勝って当然。
これで万一、綾取襲に剣でも負けたら目も当てられない。
嫌やわぁ、と呟きながら柄に手をやって、——鴉取は足を止めた。
「……なあ、なんか寒ない?」
「周囲の凍結が見えないのか。ここを夏だと思うな」
「いや、そうやのうて……、なんか、さっきよりも……」
鴉取が総司を振り返る。呼気が白い。歯が噛み合わずガチガチと鳴った。
指の先が痛んで、刀がうまく握れない。
そうじ、と助けを乞うような言葉の背後で、檻紙千鶴が笑んでいた。
「冬眠世界」
謳うような声が響く中、月の柔らかな光が凍てつく空気を銀色に染め上げる。
白い霧の一粒一粒が、宝石のようにキラキラと輝いて見えた。
「細氷……! 莫迦な、そんな気温ではないはず……」
「ええ、かさねさんと総司さんは結界に守られていますから、体感は6度くらいでしょう。冷蔵庫くらいの温度ですね。対して、鴉取さんのいる本当の外気温は、現在氷点下20度。空気中の水蒸気さえも凍り付き、こうして視認できるほどの気温です」
細氷、ダイヤモンドダスト。
大気中の水蒸気が極寒のために結晶化し、その小さな氷の結晶が空中を舞って輝く現象だ。
その絶景は、氷点下を大きく下回らないと観測できない。
温度計の水銀柱は急速に下降していった。
息を吐くたびに白い靄が立ち込め、皮膚を刺すような寒気が全身を包み込む。
空気さえも凍りつく白銀の世界で、無数の微細な氷の結晶が月光を受けて煌めいていた。
幻想的なダイヤモンドダストの光景が広がり、世界は静寂の中で輝きを増していく。
「氷点下40度になれば、空を飛ぶ鳥さえも凍死して落下するでしょう。……さて、鴉取さん。あなたは何度まで耐えられますか?」
微笑む千鶴に、「成る程、結界と妖術の組み合わせか。考えたものだ」と総司が新しい札に字を綴る。
書き終えた札は火を灯されて、鴉取の周囲に灰を散らした。
「だが、気温くらいこちらも操れる。お前が何をしたところで……」
「そ、総司……っ、寒い……」
ガタガタと震える傍らの式神を、総司が驚いて見下ろす。
たった今温めてやったはずだが、護符は少しも効いていないようだった。
「ふふ、結界というのは何も、攻撃を防ぐだけではないのですよ。鴉取さんの周囲から、外的要因による加温を全て遮断しました。いくら火を焚べ、湯を張り、鴉取さんを抱き締めたとしても、その温度は鴉取さんには伝わりません。……ああ、また一段と冷え込んできましたね」
耳を掠める北風に、鴉取は自分の体を抱き込んで膝をつく。
カラスは元々寒さに強い。ゆえに冷え込むまで気付けなかったのだろう。
既に氷点下は30度を下回っているようだった。
いかな伝承の怪異といえど、鴉天狗は動物怪異。
檻紙千鶴が告げたように、氷点下が40度を下回れば生命活動を停止するだろう。
自分の式神の命に、残り僅かなタイムリミットが課されたことを知って、総司の眉間に皺が刻まれる。
「耐えろ」と短く指示すると、新たな札を取り出した。