第八夜┊二十二「千の鶴、一羽の鴉」
コントロールされた土石流は、場外に溢れ出す寸前で動きを止めた。
檻紙千鶴が生き埋めにされた今、観客を守るものは何もないと踏んでのことだろう。しかし、会場と観客の間を仕切る結界は、わずかの揺らぎも見せなかった。
すっかり沈黙した泥濘の中から、パキパキと音を立てて大きな氷の蕾が芽吹いていく。ゆっくりと花開いた中に、襲と千鶴の姿があった。
「すみません千鶴さん、私の失策です」
「問題ありません」
ぱたぱたと袖の先に付着した泥を払う千鶴を眺めながら、「総司さんもひどいことをする。お披露目の意味をわかっているんでしょうか」と襲が悪態をつく。
「まさか自分の式神ごと埋め立てるなんて。私たちじゃなかったら全員窒息してますよ」
「私を捕らえていた鴉取さんも消えてしまいました。こちらも分身体だったのでしょうか」
「厄介ですね。どこかで詠唱でもしているなら、次はこれより大きな術が飛んできますよ」
五行相剋、木火土金水。
環境に適した術は、威力を倍々に跳ね上げていく。
今この会場は、雪も砕石も土で覆い隠されてしまった。恐らく、次に飛んでくるのは土を養分にして成長する「木」の術。そしてその次は……。
「『火』が来る前に畳み掛けないとまずいですね」
襲が高台に渋面を向ける。雛遊総司は合理的な判断ができる人間だ。
火災で邸宅も身内も喪った檻紙千鶴の前で火を起こそうなど、人の心があれば考えないだろう。
だが、火を操る怪異などいくらでも存在する。手合わせですら火を前に怖気付くようであれば、そんな人間を檻紙当主の座には就かせておけない。
総司は必ず、火の術も撃ってくる。
「総司さんは私たちに『土』の術を見せました。次に何が来るかなど、容易に想像がつきます。私たちが『火』を阻止しようとするのも見え透いているでしょう。警告は一度で十分。私が総司さんなら、次は『木』と『火』を同時に撃ちます」
「そんなことが可能なのでしょうか。いくら術に長けた雛遊当主といえど、口はひとつしかありませんよ」
「ええ、常人では無理でしょうけれど、今この場に常人なんて一人もいませんからね」
肩を窄める様子に降伏の意思はないと判断したのか、一時静かだった会場に、再び声が響いた。
「主の名を借りて其に命ずる」
祓詞を読み上げる声は、聞き覚えのある式神のもの。
しかしその姿は一つではなかった。
いつの間にか、あちらこちらに点在していた鴉天狗が、口々に詠唱を引き継いでいく。
「寄り来るは花筵、木の葉の舞」
「大地を這い、天空を覆い、生命の鼓動を響かせよ」
「五行の木、花開き、実り、世を彩れ」
口を開いた者から即座に氷塊が貫いていくが、まるで間に合わない。
途切れることなく組み立てられる術式によって、ざわざわと草木が生い茂っていく。
「っ……! なんて数でしょう、これではキリがありません」
千鶴が四方八方から響く声をそれぞれ一弾で仕留めても、仕留めた数だけ式神は別の場所に現れた。
どれから始末すれば止められるのか。
どこを向けば本体がいるのか。
あちこちから聞こえてくる詠唱に、焦りだけが先に立つ。
「花と葉は灰と散り、神火を焚べる薪となれ。五行の木と火、一つに交わりて咆哮せよ」
高台で総司が別の詠唱を始めるが、構う余裕はなかった。
目の前の式神の相手で手一杯。それすらも処理が追い付いていない。
もう止まらない。止められない。——発動される。
「——顕現、『花樹界』」
「——融合、『煉獄樹海』」
「阿」、とか細い悲鳴を残して、檻紙千鶴の姿が火に呑まれていく。
一瞬ののち、灼熱の風が豪速で吹き抜けて、結界内の全てを焼き尽くしていった。
夜闇の中、仕切られた会場が直方体の形に眩く輝く。
外からはまるで、元々その大きさの照明だったようにも見えた。
「千鶴さん!」
伸ばした自分の手の先でさえ、橙色に蠢く炎に包まれて見えやしない。
だがこの豪火の中、少しの火傷も負わず無事でいられるということは、檻紙千鶴の結界が生きているということ。
彼女はまだ、自分を守ろうとしてくれている。
祈りを込めた指先に、仄かな冷気が触れた。
「燃ゆる枝に 霧氷かかる 朔風や……。『氷壁万仞』」
ほんの刹那にも満たない時間、冷気と熱気は拮抗してみせた。
しかしすぐに極寒の風が全てを踏み荒らし、炎の上から木々を凍て付かせていく。
燃え盛っていたはずの森は恐ろしい速度で薄氷に包まれ、やがて鎮火した。
氷の膜に覆われて、炭となった木々からは煙の一筋すら立ち昇ることはない。
すっかり姿を変えた裏庭に、「……いくらなんでもおかしいやろ」と鴉取が降り立つ。
「人の領分を超えとるよ。総司かて常人やない力を使うとるけど、人の領域から逸脱してるわけやない。みんなが足し算やっとるとこに掛け算持ち込むような力やけど、それでも式は成立しとる。けどアンタのそれは、みんなが算盤弾いとる上から『百万』って書いた札貼りつけとるようなもんや。それは式でも計算でもあらへん。この世のルールに則ってない力や」
「……それは俺たちが、伝承の力と呼ぶものだ」
鴉取の隣で、総司が諌めるようにその肩を引く。
こちらも常人ではないと言われるだけあって、何をどう抗ったのか、氷の被害を受けたようには見えなかった。
「猿と犬と雉が鬼を退治するような、秩序も法則も通用しない強大な力を、俺達は『伝承の力』と呼んでいる。文字通り、人々の口伝や伝承によって集められた力だ。それは信仰を持つ神々にさえも匹敵する。檻紙は土地神を信仰する神子だ。中でもお前は昔から、特段に信心深かった。土地神から多少の力を借り得ていても納得しよう。——だが、土地神が雪や氷を扱った歴史も伝承も存在しない。お前のそれは、一体何の伝承だ?」
総司の問いに、千鶴は小首を傾げて「さあ」と笑う。
「ぜひ当ててみてください、きっとすぐにわかります。……ところで、次は私たちの番ですね」
振袖を翻す千鶴の唇が、緩慢に言葉を紡いでいった。
かさねさんは伝えたはずですよ。
——続きはぜひ、お披露目の場で、と。
「さあ、えんとらんすほーるの続きといたしましょう」
鳥が翼を広げるように、白と黒の袖が揺れる。
凍えるような風が、足元を駆け抜けていった。