第八夜┊二十一「千の鶴、一羽の鴉」
結界の再生速度が、著しく落ちている。
熱風が駆け抜けたかと思えば吹雪が追走し、じめじめとした湿気に覆われたそばから乾気が満ち溢れた。総司の札によってころころと変わる気候の変化に加え、召喚され続ける怪異たちが延々と檻紙千鶴に向かっていく。
それらを処理しながら再計算に追われ続ける彼女は、明らかに疲弊していた。
……押されている。このまま防戦一方では、すぐに限界が来るだろう。
「千鶴さん」
「はい」
切迫した声で短い返答を寄越す千鶴さんは、額に浮かんだ汗を拭う暇もないようだ。
「私は、絶対に手を出さないと約束しましたね」
「……ええ、はい。そうですね」
たったそれだけで、檻紙千鶴は意図を汲んだ。納得してはいないようだったが、憮然とした顔でそれでも片手を振り下ろす。
それまで襲を猛攻から守るために幾重にも張り直されていた結界が、その動作で全て消え去った。
「うわ、ちょちょちょ、体張った反則狙いか!?」
目を狙ってクナイを振りかざしていた鴉取が、慌てて体制を立て直そうと体を捻る。
その横っ面を、若宮襲が思いっきり蹴り飛ばした。
弾き飛ばされた先で、狙って建てられた氷の柱に鴉取の身体が激突する。間髪入れずにガシャリと重たい音を立てて、落下式の氷の檻がその中に鴉取を捕えた。
「約束通り、手は出していませんよ」
「……悪者みたいですよ、かさねさん」
確かに「手」は出していないけれども。
物言いたげな千鶴をよそに、蹴り飛ばしたことで乱れた足元の裾を直して、襲はいつもと変わらない笑顔を向けた。
「目の前をうろちょろと飛び回られているのに、無抵抗でいるのは耐え難くて。次からは別の約束にしましょう」
さて、と檻のそばまで寄って、中の鴉取に視線を向ける。
千鶴も疲弊しているが、こちらもこちらで限界だったようだ。鴉取の腰から生えた立派な羽の片方は、折れてボロボロになってしまっている。
初撃の氷弓が効いていたのだろう。でなければ、いくら想定外の不意打ちとはいえ、最速を誇る鴉天狗が蹴り飛ばされたりするはずもない。
「冷凍チキンになりたくなければ、降参してしまった方が良いですよ」
朗らかな提案に、はぁ、と鴉取がわざとらしい溜め息をこぼす。
それは絶対不利な状況から出る諦めの溜め息でも、敗北感による悲しみの吐息でもない。
呆れと、怒りを吐き出したものだった。
「人間っていうのはな、有利な状況ほど油断するんや。勝利を確信しはった時、相手の無力化に成功した時……。総司やったら絶対に、この状況で俺に近付いたりはせえへんかったよ」
聞こえてきた声は、檻の中ではなく、すぐ背後からだった。
ばっと振り返るより早く、鴉取が檻紙千鶴の首に腕を回す。
「っぁ、分身……!?」
「総司と俺を前にすると、みぃんな同じことを考えはるんや。俺は総司みたいに瞬時に百の戦略を思いつく頭もあらへんし、酒吞ちゃんみたいに怪力なわけでもない。『最速の怪異』。けれどそんなもん、誘い込んで追い込んで捕まえてしまえばええって。総司や酒吞ちゃんには勝てへんくても、俺ならどうにかなるやろって。どいつもこいつも、判子押したみたいに同じようなことばーっか考えよる。——俺が何年総司と一緒にいると思うとるんや」
ぎり、と腕に力が込められて、千鶴さんが苦しげに喘いだ。
「なんで総司がアンタらを俺に任せたと思う? どうして挟み撃ちが有利なこの状況で、総司がここにおらんのやと思う? それはな、総司が俺一人で十分やと判断しはったからや」
鴉取の言葉に、目だけで総司の姿を探す。
雛遊総司は、いつの間にか六メートル近い岩石の高台を築き、その上からこちらを見下ろしていた。
——五行。それは万象を司るもの。
土は水に、雪に、氷に必ず克つ。
渦巻くように飛び回る無数の札に囲まれて、雛遊総司が手元に残る最後の一枚を空へと還す。
「他の誰でもない、総司が俺の速さを認めてくれた。やから俺は速さでは誰にも負けへん。翼が折れようが、手足がもげようが、アンタの蹴りなんて当たるはずもないんよ。それでも俺が蹴られてやったのは——、会場の隅っこで固まっとるアンタらを、この中央まで呼び寄せるためや」
「しまっ……——」
何が起こるのか理解して、捕まったままの檻紙千鶴に手を伸ばしたけれど、もう遅い。
「其に命ずる。寄り来るは土煙、岩屑の渦。峰々より滑り落ち、全てを飲み込め。五行より土、律動に乗り、猛り狂う大地の怒りをここに示せ。——勅令、『土石奔流』」
ぐらぐらと土が、岩が、津波のように高く高く吹き上がって大口を開ける。
土石流の激浪が勢い良くその場の三人を呑み込んで、グシャリと潰れた。