第八夜┊十九「千の鶴、一羽の鴉」
唱えられた呪文によって、会場全体が深い霧に包まれていった。
地面が振動し、湧き出した水が足元を濡らしていく。霧の中から時折覗く頑丈な鱗は、月明かりを受けて黒緑色に反射している。
ざりざりと、地面を何かが這い回る音が其処彼処から聞こえてきた。
「あーらら。総司ぃ、ちょっとサイズオーバーやないの?」
「問題ない」
どうせ、檻紙がすぐに食らいつく。
主人の返事に、鴉取は仕方なく腕を組んで待てを継続する。
「八岐大蛇が飲み込まれたら、すぐに檻紙の娘を追撃しろ」
「なるほどなー。ほんま、アンタに悪いこと考えさせたら随一やで」
やがて霧が晴れ始めると、威圧的な眼光を放つ巨大な頭部が姿を現した。
八つの首は雲を突き破るほどの高さまで伸び、上空から蛇特有の瞳孔がこちらを見下ろしている。
同じ数の尾は狭苦しい結界全体を埋め尽くし、張られていた防護壁をいくつか砕いた。息を吐くたびに毒気が立ち込め、会場内に残っていた雪が黒紫に変色していく。
圧倒的な存在感と畏怖の念を呼び起こす八岐大蛇の出現に、会場は凍りつくような静寂に包まれた。
「まあすごい、本物でしょうか」
「十中八九、投影されただけの偽物だとは思いますが、総司さんの術なら本物と遜色ないでしょう。蛇は寒気に弱いですから、あなたの力は有利に働きます。あまり気を抜かず……」
説明を聞き終える前に、檻紙千鶴が口を開け、先ほどと同じように飲み込んだ。
ごくん、と喉を鳴らすと同時に、八本あった首のうち三本が根本から食いちぎられて、切断面から黒紫色の粘液を吹き出す。
「……っ!」
途端、口元を押さえて座り込む檻紙千鶴に、襲は慌てて駆け寄った。
「ああ、だから拾い食いはいけないと言ったでしょう。八岐大蛇は猛毒を持ちます。すぐに治療を」
「させるわけないやろ!」
ぱっと目の前に現れた鴉取が、檻紙千鶴の頭めがけて足を振り下ろす。
襲が帯刀していた鞘に手をかけるが、「残念、もう治ってしまいました」と千鶴が顔を上げた。
眼前に迫っていた鴉取を微笑みで迎えて、片手を横に薙ぐ。
凍てついた柱が、足元から串刺しにしようと怒涛の勢いで追い掛けてきたが、その速度は己の比ではない。鴉取は素早く身を翻して後退した。
「いくら治療が専門言うても、その速度で治るんはおかしいやろ。アンタほんまに人間なん?」
「氷霜機械弓、表題『かさねさん』」
鴉取を無視して、背後の襲を庇うように両手を広げる。
呼び声に従って、檻紙千鶴の背後にずらりと一列、氷で作られた巨大な機械弓が並んだ。
あと一歩踏み込めば、その首に手がかかるという位置にいながらも、しかし鴉取は迷うことなく総司の隣まで退避する。いかなる局面でも深追いは厳禁だと、総司には普段から厳しく躾けられていた。
「ほう、祝詞も上げずに物を生み出すか」
「な〜総司、なんや嫌な予感がする名前が聞こえてきたんやけど、俺を助けてくれる予定ってあるん? アンタは結界に守られてんけど、俺は普通に撃ち抜かれるんやで。わかってはるよな?」
「躱せ、自分の身は自分で守れ」
無茶言わんといてや! という叫びと同時に、千鶴が腕を振り下ろす。
全ての機械弓が、ガチャンと大きな音を立てて矢を装填した。
「東雲に 消ゆる星影 またひとつ……。晨星落落」
機械弓が真上に向かって一斉に氷の矢を連射していく。
やがて、豪雨のように降り注ぐ銀の雨は、檻紙千鶴の前方一帯にある全てを更地にしていった。
「あ……、アカンアカン!!」
轟音とともに、会場一帯が土煙に覆われる。
しばらく静かになったあと、ゆっくりと薄れていく土煙の奥で、すっかり荒れ果てた庭園会場がその姿を現した。
「生きているか、鴉取」
「三回くらい死んだんちゃうん……。ここはどこやろ、天国やったらもう総司にこき使われんでええなぁ……」
「喜べ、まだ此岸だ」
倒れたまま穏やかに夜空を見上げていた鴉取が、「あああ」と自分の頭を掻きむしる。
「嫌や嫌や、俺もう帰るわ! 何が悲しゅうてこんなところで妖怪大戦争に巻き込まれなあかんねん。俺はいろはちゃんがご馳走用意してくれはる言うたからついてきただけやん。このメンツで俺だけがまともなんおかしない? この中で怪異なの俺だけやよな? アンタらの方が人でなしやん!」
「元気なようだな、もう一度行ってこい」
「アンタの血は何色や!! 見てみぃ、俺の自慢の翼がこんなにボロボロになってもうて……」
ぐすぐすと足元で鼻を鳴らし、駄々をこねる鴉取から視線を外して、対峙する二人に目を向ける。
一時的に毒こそ受けたものの、未だ無傷で佇立している二人は確かに厄介だった。
その上、襲に至っては弓も刀も抜いていない。
「それで? 俺を犠牲にして小手調べは終わったん? これで終わってない言うたら夢枕に立って、毎晩耳元で新作のフラペチーノをフルカスタムで吹き込んだるで」
「ああ、概ね掴めてきた」
足元に散らばった氷の欠片を手に取る。
大きな鏃だったそれは、地面に突き刺さって砕けたものだろう。
「なるほど、これがそこの襲に対するお前のイメージか。……お前、空想力だけで式を組み立てているだろう」
「空想力? 術式には正確な手順が必要やろ。アンタみたいにあらかじめ一部を札に書いておいたりして多少の省略はできても、あんな風に好き勝手改変できるもんなん?」
「あの女は、空の色も、空気の冷たさも、感じ取るもの、思い描くもの全てを即座に方程式として組み立てる。公式に当て嵌める必要がないのだ」
話がちゃうやん、と鴉取がその顔を絶望一色に染める。
「そんな化け物相手にどないするん。綾取の坊ちゃんは攻撃一択、対して檻紙は防御しかできへんって話やったやろ。攻守どちらか一方やったら俺は速さで勝てるけど、両方盤石じゃあ打つ手なんてあらへんよ」
「ふん、完全無欠なものなどこの世に無い。鉄壁の守りと無数の攻撃手段、それらを正しく駆使して式を組み立て続ける脳と目。さぞ消耗することだろう。結果を急ぐわけだ」
「……やはり気付かれますか」
襲が顔を曇らせる。
檻紙千鶴の実力が未知数だったからこそ、雛遊総司は慎重を期した。
だが、無数の小型怪異への対処も、大型怪異への対処も、接近戦への対応も既に見られている。
——そこに、大した違いがないことも。
「鴉取、死角に入れ。あの女には目が二つしかない。そして反応速度も敏捷性も下の下。この俺を前にしてお前を索敵する余力はないだろう。ひたすら死角から狙い続けろ」
「ええけど、どこから狙っても結界に阻まれるんとちゃうん?」
「脳のリソースは有限だ。目の前の対策に追われれば、必ず綻びが出る」
総司が懐から札を取り出す。
二十枚近い札には、印字されたようにきっちり正確に刻み込まれた文字が踊っていた。
「死角から、襲を狙え」