第八夜┊十八「千の鶴、一羽の鴉」
雛遊当主にして三家総帥である雛遊総司と、「神殺し」綾取襲の対面に、会場は一瞬の静寂ののち、盛大に湧き上がった。
異色の組み合わせだ、勝敗の予測などつくはずもない。
この手合わせは、どちらが勝っても伝説的な結果を残すだろう。
彼らをもっともよく知る自分たちですら、こうして意見が分かれているのだから。
グラスを置いて、自分と反対の陣営に賭けている綾取いろはを横目で見やる。
彼女が信じているのは、総司の勝利なのか、それとも双子の兄の敗北なのか。
どちらにせよ、彼女はもう顔を伏せてはいなかった。
硝子のような瞳でじっと、食い入るように会場を見下ろしている。
「お前との手合わせは初めてだな」
「ええ、念願叶って嬉しい限りです。やっとあなたの肩の荷を一つ降ろして差し上げられる」
ほう? と目を細める総司の姿は高圧的で、無関係のこちらまで胃が痛くなるような緊張感が走った。しかし襲さんは手を打ち鳴らして、「今日は、あなたから『最強』の称号をいただきに参りました」と笑う。
会場は再び、一瞬の静寂と、先ほどよりさらに大きくなった怒号と歓声に包まれた。
まるでテイクアウトでも受け取るような朗らかな宣言に、私は思わず緩んだ口元を押さえ、いろはさんは隣で盛大に呆れかえる。
「随分と大きく出たわね」
「実際、襲さんに対抗できるのは、あなたと父くらいですからね。父に勝てば、祓い屋最強を名乗っても誰も異を唱えないでしょう」
「あら、あなたは最強の一角に肩を並べる気はないの?」
「私は既に負けていますから」
肩を竦めてみせると、いろはさんはつまらなさそうにグラスを傾けた。
祓い屋の敵は怪異であって、人間ではない。祓い屋内での順位付けなど、本人たちの満足以外に意味はないのだが、人間というのはどうにも一番というものにこだわりたがる。
ここで襲さんが父に勝てば、彼はまた一歩、当主就任に近付くだろう。
それが本人の意思とは正反対の道だったとしても。
「かさねさん、絶対に手を出してはいけませんよ」
「わかりました」
張り詰めた空気の中で、鴉取から少しも目を離すことなく檻紙千鶴が背後の主人に語り掛ける。
なんということのない、小さな「約束」。
けれどその約束が、今の彼らにとっては命綱なのだろう。
彼らのつながりをなんとなく察してしまって、胸が痛んだ。
いろはさんの『糸』はどんな些細な音も拾う。二人の会話は、二人に最も近い席の観衆にすら聞こえなかったはずだが、張り詰められた糸を伝って、このバルコニーには筒抜けだった。
彼女自身の耳の良さも合わさって、いろはさんの前で内緒話など不可能だ。
頼むから余計な話をしてくれるなよ、と心の中で祈る。
「あんな宣言をしておいて、開幕早々で斃れたりしたら綾取の名折れだわ。せめて時間いっぱいは持ち堪えてくれないかしら」
「鉄壁の守りを誇る檻紙さんなら、勝てなくとも負けることはないでしょう」
千鶴はさておき、襲はどうかしらね、と投げやりな返答を受け取りながら、眼下の会場を見下ろす。
どちらも慎重派だ。数秒の睨み合いが続いていたが、重い緊張感の中で先に動いたのは雛遊総司だった。
「総司〜。俺もうこの緊張感に耐えられへん。吐きそうや……。先に手ぇ出したらあかん?」
「つくねにされたいなら行ってこい」
「ひえぇ、それミンチになっとるやん。しゃーない、もうちょいここで雪でも眺めとくわ」
はあ、と総司が額に手をやる。自分の式神の方が堪え性がないことに気付いたのだろう。諦めて矩形の札を手に取った。
「其に命ずる。寄り来るは羽音、節足の軍勢。岩間より湧き出で、我が下に集え。——勅令、『百鬼夜行』」
季節外れの雪が舞い散る中、唱えられた祓詞と共に地面が唸りを上げ、敷き詰められた黒砕石の間に無数の亀裂が広がる。蜘蛛の巣のような亀裂から立ち昇る黒煙は、降り積もった雪を溶かしながら、まるで生き物のように蠢いていた。
煙とともに地の底から這い出した巨大な蜘蛛や百足の怪異が、複眼をギョロギョロと動かして、檻紙千鶴を眼球に捉える。狭い会場にひしめくように、おぞましい数の怪異たちが次々と湧き出していった。
「沢山いますねえ」
千鶴さんは楽しそうに笑って「あーん」と口を開けると、その場で何かを口に含んだように薄い唇を閉ざす。ガリガリと何度か固いものを噛み砕く音がして、やがてごくりと嚥下した。
無数の怪異は、「会場」として張られた結界に呑み込まれるように、バキバキとその身体を見えない力によって押し崩されると、瞬く間に消え去っていった。
「ええ、今ので全部消しはったん? そんなことできるん?」
「いや、消失ではない。……お前、怪異を取り込んだな」
総司の言葉に、千鶴さんは微笑みで返す。
……怪異を食らうのは、より上位の怪異のみ。人間は怪異を食べたりしない。
檻紙千鶴を名乗る彼女を目の当たりにした時から、頭の片隅にチラついていた予感が徐々に大きくなっていく。どくどくと心臓が早鐘を打った。
できればその真実は、綾取いろはには聞かせたくない。
「小手調べは結構ですよ。総司さんもお年でしょう。お互い、あまり出し惜しみせずいきませんか」
年寄りを慮るような襲さんの言葉に、総司の眉間の皺が深くなる。
「はー、怪異より怪異してはるなあ。あれで生者ってほんまやろか」
「随分と急いているな、対局を長引かせたくない証だ。襲も短期決戦型だが、今の檻紙は輪をかけて長時間は保たないらしい。持久戦に持ち込めばそれだけで事足りるだろうが、……折角の場を白けさせることもないだろう」
乗ってやろう、と総司が再び札を取り出して手印を結ぶ。
「其に命ずる。寄り来るは滝つ瀬、岩礁と荒波。その身は山脈を成し、息吹は嵐となりて地を震わす。荒ぶる神よ、深淵より目覚め、我が眼前にその神威を示せ。——顕現、『八岐大蛇』」
断末魔のような咆哮が、呼応するように響き渡った。