第八夜┊十七「夏の夜に雪降り注ぎ」
肇さんから借りたハンカチーフをしとどに濡らして、ようやく顔を上げた頃には、混沌とした光景が広がっていた。
試合会場には、明らかに三十名以上の人間とその式神が立ち入っている。
そもそも二対二がルールだ。お披露目の挑戦者は申し込み順に番号が振られていたはずなのだが。一も二もない乱闘騒ぎに「礼節も何もあったものじゃないわね、あの人たちには矜持というものがないのかしら」と頬をついて毒を吐く。
多人数でかかればなんとかなると思っているのならば、なんともおめでたいことだ。
「入退場は白沢が管理してくれていると思ったのだけれど」
「前座はまとめて片付けた方が早いと踏んだのでしょう。檻紙さん達には許可を得ていたようですよ。あちらも退屈を嫌う人たちですから、利害が一致したのでは」
「なら仕方ないわね。それで、そろそろ前座は終わりそうかしら?」
酒を片手に立ち上がると、孤軍奮闘していた黒い紙面の女がこちらを見上げる。
つい彼女に向かってグラスを揺らすと、檻紙千鶴も嬉しそうに片手を振った。
彼女の動きに合わせて、手首に結ばれた鎖と鈴が金属質な音を立てる。記憶はないはずなのに、無邪気に振る舞う千鶴の一挙一動がかつての彼女と重なって、また目頭が熱くなった。
「雪……?」
そんな私の隣で、最初に天候の異変に気が付いたのは肇さんだった。
急激に下がりゆく気温に、それまで騒がしかった会場がしんと静まり返る。まだ夏も盛りのこの時期に、夜とはいえ雪など降ろうはずもない。
けれど空からは、霞のかけらのような白い雪が、ふわりふわりと舞い降りていた。
「——冬夜人形劇、表題『雛遊』」
檻紙千鶴が謳う。
祝詞でも祓詞でもないそれは、言葉の通り、彼女が付けたただのタイトルなのだろう。
雪でできた兎たちが、降り積もった地面から芽吹くように生まれては、ぴょこぴょこと駆け出していく。
まるい尻尾を振って走っていく兎の姿はなんとも可愛らしく、場内外の全ての人間が、足を止めてその兎を眺めていた。
雪兎は可憐な見た目で挑戦者たちの足元に擦り寄っていく。そのうちの一匹を、式神が訝しげに持ち上げると、兎はぱたぱたと耳を揺らし、——大きな破裂音を残して爆ぜた。
最初は愛くるしい見目に、なんだなんだと身を乗り出していた観客達も、それが自爆する術式だと気付いて悲鳴を上げる。
爆発音と叫び声がすぐさま伝播して、華やかに湧き立っていたはずの会場が、あっという間に阿鼻叫喚の地獄と化した。
「……よかったですね、前座はもう終わりそうですよ」
「あれ、あなたの兎の模倣よね。爆発していたけれど」
「私は兎に自爆を命じたことなんてありませんからね。……九尾を封じるときに召喚したのを見ていたのでしょう。檻紙さんはずっと神社にいたようですから」
見ていたからといって、模倣できるものでもないのだが。
大体、檻紙に物を生み出す力などない。彼女達は結界と治癒を司る、守護の家系なのだから。
そんな彼女が、自分を守りこそすれ、相手を倒さねばならないこのお披露目で一体何をするのかと疑問ではあった。若宮かさねが付いているのだから、自衛手段の一つや二つは教わっただろうと踏んではいたものの……。
十年という歳月は、彼女を見知らぬ何かに変えてしまったようだった。
「四十八番の場外逃走を確認した。もう入場しても問題ないな」
大半の式神が再起不能となり、残った者たちもとうに結界外へと退避してしまっている。
すっかり荒廃した会場へ、それでも足を踏み入れようとする男は、背後に軽薄そうな鴉天狗を連れていた。
「どうぞどうぞ。四十九番、雛遊総司さん。少々お足元が悪くなっているようだから気を付けて」
審判と案内係を兼ねた白沢に通されると、鴉取は対面する二人に指を突きつけて、「アンタら、誰に許可を得て雛遊の名を騙ってんねや。雛遊の名は高く付くで!」と声を張る。
先程まで死んだように静まり返っていた会場が、次の挑戦者を知って再び湧き上がった。
「あらまあ、困りました。お金を取られてしまうのでしょうか」
「名字を口にされただけで金を取れるなら、私たちは今夜だけで億万長者ですよ。今からでも取り立てにいきましょう」
会場の怒号にも屈することなく、二人はマイペースに歓談している。
ルールを無視してまで前座を手っ取り早く片付けたのはこのためか。相変わらず抜け目のないことだ。
確かに、有象無象とはいえ四十八人とまともに向き合っていたら、その後に控えている総司さんの相手など出来やしないだろう。
「まさか、総司さんがお披露目に出られるなんて。肇さんは知っていたの?」
「いえ、私も驚いていますが……。檻紙さんが当主を継ぐと宣言されていましたからね。三家総帥として実力を測っておきたいと思ったのでしょう」
まったく、どこまでも仕事一辺倒な人だ。
感嘆と呆れ半々で息を吐きながら、「あなたはどちらが勝つと思う?」と尋ねる。
「……難しいですね。身内贔屓を抜きにしても、父と襲さんが戦略で争うのなら、さすがに父が勝つと思います。しかし、動かされる駒が鴉取と檻紙さんならば、鴉取に勝ち目はないでしょう」
「武力の襲と支援の千鶴、どちらも本来の資質とは真逆のことをしているんだもの。特に指揮能力の差は、駒の力不足を補って余りある。私は総司さんに賭けるわ」
「では、私は檻紙さんと襲さんに賭けますね」
氷を削る隣の男に、「それで、勝ったら何をしてくれるのかしら」と悪戯っぽく笑いかける。
生真面目な彼のことだ。賭けるというのは言葉の綾で、こんな挑発には乗ってこないだろうと思っていたけれど、意外にも「あなたが勝てば、叶えられる範囲でなんでも一つ言うことを聞きます」と答えて空になったグラスに酒を注ぎ入れた。
「……言ったわね?」
確認するように目を向けると、雛遊肇はこくりと頷く。
酔っているのだろうか。
普段はこんな迂闊なことを言う人ではないのに、今夜はやけに楽しそうだ。
その横顔が珍しく本心から笑っているように見えて、綾取いろはは高鳴る胸をアルコールで強引に押さえつけた。