第八夜┊十六「数学的構造体」
お披露目の会場は屋外だった。
枝垂れ柳の合間から覗く月が、夜の庭園に淡い薄明かりを落としている。
会場となった裏庭は、表の庭園のような風情のある池も橋もなく、敷き詰められた黒砕石だけが広がっている。丁寧に均された地面がかえって、ここが整地し直した場所なのだと知らしめていた。
恐らく以前のお披露目では、この庭の地形が荒れるほどの何かがあったのだろう。
さて、平坦に広がるばかりの庭だが、今は各辺四百メートル程度の正方形に仕切られている。
仕切られている、というのは壁や柵があるわけではなく、千鶴さんがその形に結界を張っているというだけだ。
今回は神社の結界とは違い、人も怪異も通り抜けできる。恐らく見物人に危害を加えないよう、無機物や飛来物だけが遮られる仕組みになっているのだろう。流れ弾で観衆に怪我をさせたら洒落にならないし。
「人間も式神も自由に出入りはできるけど、試合中にあの枠から出たら失格なんだってさ」
「へえ、お相撲さんみたいだね」
「そういう戦略もアリなんだろうな。相手を押し出すことも視野に入れるか」
逆におまえは押し出されないように気をつけろよ、と星蓮に念を押される。
確かに、人間を攻撃することは禁止されているけれど、怪我を負わせずに場外に追いやることは可能だろう。
「僕だけが外に出されても、失格になるんだね」
「ああ、ペアの両方が枠内にいないといけないみたいだ。それにしても、檻紙とはいえこんな大きな結界を張れるなんてな。しかも複雑な条件分岐付きで」
「それってすごいこと?」
少しでも千鶴さんのことが知りたくて、ついでに出来れば褒めて欲しくて、わくわくしながら尋ねる。星蓮はそんな僕に笑い掛けつつ、「ああ、凄いぞ」と期待に応えてくれた。
「結界って、要は数学なんだよ。雛遊が札や術具を使って作る、擬似的な障壁とはわけが違う。気温、風向き、重力、質量、地形……あらゆるものを計算して現実の織り目を操作する、複雑な数学的構造体なんだ」
「ふうん? いわゆるX軸とY軸だけの平面な壁じゃないってこと?」
「形も平面じゃないし、強度も硬度も条件によって変化させてる。例えばあの国語教師がおまえを守ろうと思ったら、電話ボックスみたいに直方体の結界を張るだろう。おまえはその中にいれば助かるけど、そこから少しでも出たら危ない。でも檻紙千鶴がおまえを守ろうと思ったら、ありとあらゆる選択肢がある。おまえが急に走り出したとしても、その動きをあの人は式にして、表面積や空気抵抗や相手からの攻撃を演算して、全ての時間軸でその結界を維持できる」
「頭おかしくなりそう。縦幅と横幅と奥行き以外の計算は習ってない」
星蓮は笑いながら、「XとYとZだけじゃ計算できないな。一番単純な結界だって、少なくとも十一次元の空間を計算する必要があるし」と答える。
十一? 僕が知っているのは三次元までだ。そこに時間軸を加えた四次元が存在するとは聞いたことがあるけれど。
一体なにがどうして、あと七つも次元が増えるのだろうか。
XとYとZを求めるだけで教科書にあれだけの厚みが必要だというのに。
「ええっと、つまり?」
「おまえの姉さんは、ちょっと人間離れしてるくらい頭が良くて、数学が得意ってこと」
ものすごく納得した僕に、「おまえも出来るはずなんだけどなあ」と星蓮がぼやく。
いつの間にか、若宮さんと千鶴さんは入場を終えて、仕切られた結界の一辺のそばで待機していた。
観客から好奇の視線が注がれるが、二人がそれを気にする様子はない。
「数学、得意だろ?」
「習ったことはできるけど、十一次元とかは無理だよ」
「おまえの姉さんに習ってみたらいいかもな。俺も、おまえが自衛の手段を持てるなら推奨したい。人間生活の制約の中じゃあ、今日みたいに、俺がおまえを守れないこともあるって痛感したし」
鴉取のことを言っているのだろう。星蓮の横顔は笑ってはいるが、うっすらと影が落ちている。あれから何も言ってこなかったけれど、エントランスホールでの一件は、よほど堪えたみたいだった。
「九尾の狐のとき、神社で結界を解いてただろ? 結界を解くには、その数学的構造を理解して、逆関数を適用する必要があるんだ。簡単に言えば、あの時のおまえは、檻紙千鶴が立てた複雑な術式を理解して、それに答えを返したんだよ」
多少齟齬のある噛み砕き方なのだろうが、姉が出した問題を僕が解いたというのは、僕にとって嬉しい言い回しだった。ちょっと得意になって、「じゃあ千鶴さんに、結界のつくりかた聞いてみようかな」なんて答えて頬を掻く。
「そろそろ始まるみたいだな。俺らは最後に申し込んだから、一番最後に手合わせするらしいぜ。それより先にあの二人が誰かに負けたら戦わずじまいだけど」
「僕らの番まで、きっと千鶴さんは負けないよ」
「だといいな。まああのノンデリ宮司も付いてるし、そう簡単には負けないだろ」
開始の笛を聞きながら、「ところで」と星蓮が続ける。
「おまえ、姉さんに勝ちたいんだよな?」
「勝ちたい」
「それって、俺がおまえの姉さんを倒すってことだけど、大丈夫か?」
という星蓮の問いは、派手な音を立てて散らされていく挑戦者たちによって「……大丈夫そうだな」と自答されていた。
——まるで天災のようだ、というのが僕の率直な感想だった。
ドーンと大きな地響きが響くたびに、たくさんの人影が宙を舞っていく。
一組あたりの持ち時間は十五分らしく、それを超えると自動的に挑戦者側の勝ちらしいのだが、残念ながら挑戦者である彼らが会場の中に踏みとどまれている時間は、十秒にも満たないようだった。
見る限り、若宮さんと千鶴さんはスタート地点から一歩も動いていない。
退屈そうな若宮さんとは対照的に、千鶴さんはふんわりと袖を翻して手印を結んでいる。
千鶴さんが腕を振るうたびに、結びつけられた鈴と鎖がそれぞれ不協和音を奏でていた。
何回か繰り返されてヤケになったのだろうか。
順番待ちをしていたはずの人間も式神も、まとめて千鶴さんに向かっていく。
もはや二対二の体裁も成していないが、人海戦術なのだろう。人間を傷つけてしまったら一発でアウトなはずだけど、千鶴さんは丁寧に式神だけを攻撃しているようだった。
もはや、吹き飛ばされているのが岩塊なのか式神なのかもわからない有り様だ。あれでは相手が何人いたところで変わらないだろう。
「あの鎖とか燭台って、力を抑えるものなんだよな……? 間違っても力を増幅させたりはできないんだよな?」
「出来ないな。正しく制限されてアレだ。どうなってるんだお前の姉さん。あれなら土地神とも渡り合えるだろ……」
呆れ返る星蓮に、「えへへ」と顔が綻ぶ。
千鶴さんの実力を友人が認めてくれるのは、自分が褒められるよりも嬉しかった。
「檻紙の力は土地神様から授かるものだから、土地神様相手には使えないのかも」
「おまえ、何も知らない割に檻紙のことは詳しいよな」
「一応、僕も檻紙だから」
とはいえ、誰かに教えてもらえたわけではないので、聞き齧った程度の知識だけれど。
僕の回答に星蓮が目を細める。そういえば、僕が自分の生まれについて言及するのは初めてだっただろうか。
でも千鶴さんが僕の姉であると明言したのだから、必然僕も檻紙であることは判っていたはずだ。
「……俺の中で、おまえの家系図がよくわからないことになってる。あの国語教師とは血縁じゃないのか?」
「雛遊先生? うーん、僕も自分の親戚が誰かとかはよく知らないから……。僕が知ってるのは、僕が檻紙の人間だってことだけ」
「……なるほどな。おまえのこと、姉さんは知ってるのか?」
「ううん、僕のことは誰も知らない」
今度は嘘だった。
僕のことは、バイス教授だけが知っている。
だけど僕は、どんなに些細なことであっても、星蓮と教授に関わりを持って欲しくなかった。
だってあの生物学者が、人魚の肉に興味を持たないはずがないのだから。
それ以上答えられることがなくて、僕らは黙って目の前の光景に視線を戻す。
広がる惨状に、「俺、勝てるかなあ……」と星蓮が珍しく自信なさげに呟いていた。