第二夜┊一「陸を泳ぐ魚」
レースカーテン越しに差し込んだ、柔らかな朝日に瞼をくすぐられて目を覚ます。窓の外は快晴で、アルミサッシの隙間からは澄んだ空気がそよそよと流れ込んでいた。
昨日の出来事など嘘のように爽やかな目覚めだったけれど、あれが夢ではなかったということは、正面に飾られた一枚の絵が示している。
見渡す限り殺風景な寮室の中。
その白い壁の一面を、夕焼けを背景に佇む一人の少女の絵が鮮やかに彩っていた。
彼女は僕に気付くと、額縁の中から小さく手を振った。
『顔無し女』は、絵の中に封じられてしまっていた。
完成した絵に満足して、成仏してくれていたのなら良かったのだけれど、何事もうまくいかないものだ。
しかし彼女は絵の中をたいそう気に入っているようで、普段は描かれた姿のまま、花開くような微笑みを浮かべて腰掛けている。
……たまに、彼女が寂しそうに窓の外の夕焼けを眺めているのは、ここだけの秘密にしておこう。
「よ、起きたか。今朝は煮込みハンバーグだ」
「朝から重すぎるよ……」
起床の気配を察したようで、簡易キッチンからルームメイトが嬉しそうに声を掛けてくる。彼が嬉々としてテーブルに並べている大皿を横目に、僕はありがたさ半分、ゲンナリ半分で返した。添え野菜もなく、シンプルに挽き肉を丸めて煮込んだらしき料理の姿に、僕の起き抜けの胃はすっかり萎縮してしまっていた。
「食べないと元気が出ないだろ」
「ごめん、食べる元気も足りないみたいだ……」
もしかすると僕は菜食主義者だったのかもしれない。
黙々と二皿分のハンバーグを口に運ぶ彼の朝食風景を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思った。
あんな出来事に遭ってしまったけれど、彼は変わらず僕に接してくれている。
彼は大事なクラスメイトであり、ルームメイトであり、……そして、初めてできた友人だった。
今までろくすっぽ人付き合いというものに縁がなかった僕としては、時折くすぐったい気持ちにもなるけれど、彼のほどよい距離感と気遣いに、間違いなく安らぎを覚えている。
しかし前述の通り、僕は友達付き合いというものについて、全くの無知だったのだ。
彼はきっと「気にするなよ」と言ってくれるだろうけれど、「愛情は借り物。いただいたら返されませ」と厳しく教わってきた僕としては、彼の無償の温かさと優しさをただ享受し続けるわけにはいかなかった。
そして、困りごとはもう一つ。
「なあ、えっと……」
先を歩く彼を呼び止めようとして言葉が続かず、伸ばしかけた手が空を切る。
——僕は、彼の名前を覚えていないのだった。
始業式から一ヶ月。
真新しい気持ちも薄れ、クラスメイトたちの関心事は、すっかりゴールデンウィークの予定に取って代わられていた。
そう、一ヶ月だ。初対面からこんなにも日が経ってしまった今、クラスメイトであり、ルームメイトでもある彼に「そういえば君の名前なんだっけ」なんて聞けやしない。
始業式当日は、まさかこんな風にこのクラスで話し相手ができるなんて思ってもみなかったから、順繰り語られる個々の自己紹介なんて、右から左へと聞き流してしまっていた。
そんなわけで、僕は彼の名前を知らないことをなんとなく誤魔化し続けながら、今日に至ってしまったのである。
「なんか最近、様子が変じゃないか?」
「え? いや、そんなことはないよ。ほら、いつも通り元気いっぱいだ!」
挙動不審な僕を見咎めてか、ついに彼からそう切り出されて、僕は慌てて机の上の辞書を引っ掴む。
そのままダンベルのように上下させてみせると、「いや英和辞典なんて誰でも持ち上げられるだろ……」、と困ったように返されてしまった。
様子を見ていれば、いずれ誰かが彼の名前を呼ぶか、学生なのだから持ち物に記名くらいされているだろうと踏んで、彼の手元を盗み見すること今日で二週間。
何かが憑いているのではと疑うくらい、彼の名前は見事に誰にも呼ばれることはなかった。授業中に当てられる時さえ、出席番号で指される有り様だ。
彼は僕と違って社交的で、他のクラスメイトたちとも賑々しく談笑しているのに、「ねえねえ」「あのさ、」と話しかけられるばかりで誰も彼の名前を呼ばない。
彼の持ち物にしても同様で、名前が記入されているものを見つけることはできなかった。
「そろそろ誰か名前くらい呼んでくれよー……」
今日も今日とて、なんの成果も得られなかった僕は机に突っ伏する。
彼との会話はぎりぎり成り立ってはいるが、いつか名前を覚えてないことに気付かれるんじゃないかと思うと気が気ではない。
もともと気配りの出来る彼のことだ。僕が名前を覚えてないと知って怒ってくれるならまだしも、変に気を遣わせてしまうのは目に見えている。
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