第八夜┊十五「彼女の涙は誰も知らない」
人議も終わり、典雅の間の喧騒からも逃れ、月光に照らされたバルコニーへと足を踏み入れる。
主催代理の専用席であるその場所には、白絹のチャイナドレスに身を包んだ先客が、お付きの神獣と共に夜風に髪を揺らして佇んでいた。
「いらっしゃい、肇さん。——総司さんにも困ったものね、人議の参加者を蔵に閉じ込めるだなんて。会食にも姿を見せないし、間に合わないかと思ったわ」
「ええ、なんとか急場はしのげました。いろはさんにご助力いただけたおかげです」
「助力だなんて。私は迎えを送っただけよ。蔵のお片付けには一切手を貸してないわ」
大変だったでしょう、といろはさんがハンカチーフを取り出して、スーツの裾についていた汚れを払ってくれる。
「シャツの乱れ具合からみて、動物系の怪異がざっと百二十匹ってところかしら?」
「惜しいですね、二百はいました」
「呆れた。全然惜しくないじゃない。二百もいてこの程度の土埃で済むなんて、やっぱり式神使いは強いわね。私だったら着替えなしでは済まないわ」
「ご謙遜を。それこそいろはさんなら、お召し物に砂粒一つ付けることなく祓えるでしょうに」
そう答えて、汚れ一つない彼女の白練のドレスに目を落とす。
濡羽の黒が檻紙の証なら、清らかな白練は綾取の証。
何者にも汚されない、強さと誇りの象徴だ。
「すみません、いつも父がご迷惑を」
「身内の問題で迷惑を掛けているのはお互い様だわ。総司さんがこんな暴挙に出るなんて意外だったけれど。口論でもしたの?」
「ええ、まあ……。襲さんのお披露目に参加する気はないとつい口を滑らせたら、軟弱者だと顰蹙を買ってしまって」
「ああ、無理もないわね。兄のお披露目で参加自体にトラウマを持ってしまった人は多いもの。困ったものだわ」
頬に手を添える彼女と恐らく同じ光景を思い浮かべて、苦笑いをこぼす。
脳裏に蘇るのは、いつまでも色褪せない古い記憶。
——若干七歳にして、式神すら連れていない一人の子供に、現役の祓い屋総勢五十名が敗れることとなった綾取襲のお披露目は、多くの者に痛烈な劣等感と屈辱を植え付けた。
あの時の震え上がるような光景に比べれば、二百の怪異を相手にすることなど造作もない。
「いろはさんは参加しないんですか? 雪辱を果たすチャンスですよ」
「残念ながら、今回の相手は襲じゃないもの。檻紙当主に勝とうだなんて、それこそ単身で土地神に挑むようなものよ。誰も勝てるはずがないわ。でなければあの兄が、千鶴をお披露目になんて出すものですか」
いろはさんはそう言って、バルコニーの欄干に撓垂れ掛かる。
お披露目の会場が一望できるこのバルコニーは、絶好の観覧席だろう。
「私はここから、あの子が身の程知らずの阿呆どもを薙ぎ倒していくさまを眺めて楽しむことにするわ」
「では、ご一緒させてください」
バルコニーのソファ席に腰掛けて、アイスペールに入れられていたシャンパンの栓を抜く。手近なグラスに注ぎ入れると、小気味いい音を立ててピノ・ノワールの芳醇な香りが広がっていった。
グラスを手渡されたいろはさんが、優雅な所作でそれを掲げて、静かな夜に乾杯の合図を送る。
「ところで、襲とは随分と親しげだったけれど、私にはその態度を崩さないつもり?」
「親しくしていた覚えはないんですが……」
「あら、無自覚? あなたたち、まるで女子高生みたいだったわよ」
いろはさんの瞳に見つめられて、先程のやり取りがふと思い起こされる。
——私たちも、うっかり壊してしまっても捨てないように気を付けましょうね。
——うっかりで人議の鍵を壊す奴があるか。
——おや、いけませんよ肇さん、すぐそこに壊してしまった人が座っているんですから。
人議では断じてあの男との会話に興じていたわけではないのだが、傍からみれば確かにそう捉えられても仕方ない。授業中にやたらと話し掛けてくるやつのせいで、自分まで怒られているような気分だ。俺は頭を抱えた。
「あ、あれは……」
「襲が五月蠅いのはいつものことだけれど、私の前ではあんな風に、昔のあなたを見せてくれることはないもの。少しばかり妬けてしまうわね」
「見栄を張っているだけですよ。当主代理に嫌われたくはありませんから——」
「駄目よ白沢」
主人に諫められて、俺の首へと伸ばされていた手が止まる。
神獣「白沢」は、殺意の籠もった瞳を一度のまばたきで包み隠すと、ぱっと繕った笑顔を向けた。
「失礼、うちのお姫様を『代理』呼ばわりする不届き者がいた気がしてね」
「席を外しなさい。客人への無礼は許さないわよ」
「あはは、ごめんごめん。それじゃ俺は退散するから、楽しい夜を過ごしてね」
白沢は耳元の飾り紐を揺らすと、ひらひらと片手を振る。
軽薄というより酷薄で、笑顔というにはあまりに冷え切った視線が、じっとりと俺に無言の警告を残していった。
「ごめんなさいね、神獣の躾がなっていないみたい。総司さんにでも教わろうかしら」
「十分躾けられていますよ。主人想いの良い式神です。私こそ失言でしたね」
俺の言葉が終わる前に、派手な音と悲鳴が響いて、眼下の会場が土煙に覆われる。
お披露目が始まったのだろう。初っ端から威勢の良いことだ。
薄白く烟っていてよく見えないが、会場からは爆発音のようなものが連続して響いている。……彼らは一体何をしているのだろうか。
「いい気味だわ。会場で千鶴のことを悪く言っていた者たちなんて、みんなやっつけてしまえばいいのよ」
囃し立てるような口ぶりだが、綾取いろははバルコニーの欄干に顔を伏せたまま、お披露目の会場を見下ろす気配はない。
耳だけは確かに会場の音を拾っているようだが、疲れてしまったのだろうか。
「……そのように顔を伏せていては、檻紙さんの勇姿が見られませんよ」
声を掛けても、彼女は微動だにしなかった。
具合が悪いのかもしれない。立ち上がり掛けたところで、小さな小さな呟きが、お披露目の歓声に紛れて耳に届いた。
「あの子が生きてて、本当に良かった……」
ぱたぱたとこぼれ落ちていく雫が、バルコニーの白い床を灰色に染めていく。
身近な者を一人、また一人と見送るたび、綾取いろはの肩には重責ばかりが積み重なっていった。
綾取家当主代理、人議主催代理。——それらは元々、彼女の両親が受け持っていたもの。
生まれた時から天才の兄を持ち、いつ何時も比べられ続けながら、彼女は必死に努力してここまで来た。
その過程で、彼女の幼少期を支えた檻紙千鶴の存在は、どれほど大きかっただろうか。
たった一人の幼い友人を、兄の放火で喪ったと聞かされた彼女が、どれほどの苦しみと絶望をその胸に抱いていたのだろうか。
旧友が生きていたと知って。
兄が旧友を殺していなかったと知って。
今、彼女はどれほど安堵していることだろうか。
大人でも持て余す仕事の数々を、威風堂々とこなし続ける彼女の背は、まだこんなにも幼く頼りない。
綱渡りのような毎日を、それでも彼女は前だけを見て、これまで歩いてきたのだ。
声を殺して泣きじゃくる当主代理の、そのか細い肩をいたわるように、私はそっと上着をかけた。