第八夜┊十四「怪異を裁く神」
人議が終わり、議事録には土地神様の討伐が決定事項として記された。
僕は少し心配になって千鶴さんの様子を窺ったけれど、紙面をつけている上にマイナスな感情を封じられてしまっているせいで、表面上は会議室に入る前と何ら変わらないように見えた。
「名乗りを上げたのが裏目に出ましたね。あなたが思っているより、この場のみなさんは『檻紙千鶴』が大切なんですよ」
「はい、身に沁みました。私ももう少し、己が身の振り方というものを考えなくてはいけませんね」
「是非そうしてください。あなたは少々、自分の命と体を粗末に扱う節がありますから」
土地神様の件では意見が分かれていた二人だが、当人達に気まずさはないらしい。来たときと同じく若宮さんと連れ立って、千鶴さんが席から立ち上がる。
会議室から出て行く二人を追い掛けようかと僕も席を立ったところで、星蓮に呼び止められた。
「なあ」
振り向いた僕は、目元を赤く染めた彼の表情に、思わず息が止まりそうになる。
普段は確固たる意志を持って僕を見つめる星空のような瞳が、今は不安と困惑で揺らいでいた。
「おまえ、嫌だったのか? 土地神と争うの」
「えーと……」
なんと答えたものか。
言葉を探して視線を彷徨わせていると、入り口に残ってこちらを見ている若宮さんが視界に入った。
僕の土地神様に対する思想はちょっと複雑で、星蓮ならともかく、他の人にはあまり聞かせたくない。
「ごめん、その話はまたあとにしよう。……心配しないで。僕は星蓮が土地神様を食べてくれるって言ってくれたとき、嬉しかったよ」
「ならどうして……っ」
「僕も、星蓮が土地神様に食べられちゃったら嫌だから」
これは、嘘偽りのない本心だ。
土地神様は人間相手であれば、基本的には捧げられた贄以外を食べたりはしない。
元々は人を守るために乞い願われて生まれた神様だ。
土地神様にも自衛の本能はあるから、土地神様の命を狙って武器を手にするなら話は別だけれど、手当たり次第に人間を食い散らかしているわけではない。
贄を喰らい、その分の働きを示すと言う伝承も、人々が作り上げたもの。
土地神様が人命を対価に望んだわけじゃない。
けれど、相手が怪異なら話は別なのだ。
本来神々とは人間を裁くものだけれど、土地神様は違う。
土地神様は、怪異を裁く神様だから。
「危険」と判断された怪異は、土地神様に食べられてしまう。
人の領域を侵す者。命令に従わない者。己に歯向かう者。
かつて土地神様の領域に踏み入った星蓮が再び土地神様に立ち向かうのなら、今度こそ食べられてしまうだろう。
「僕も、君とは友達でいたいだけだよ」
僕の回答に、星蓮は納得したわけじゃなかったけれど、それでもその場での追求は飲み込んでくれたようだった。
✤
「牡羊座の鍵、カルタさんの遺品ですよね。あなたがあれを人に譲るとは思いませんでした」
遠ざかる背中に投げ掛けると、雛遊総司は足を止めた。
胡乱な瞳が振り返って、「なぜ知っている」と問い質す。
「カルタさんがご存命の時、神に選ばれたのだと誇らしげに見せてくださったことがありまして」
「……そうか。私はあの鍵の存在を、遺品として受け取るまで知りもしなかった」
総司さんは、そう答えて目を伏せた。
彼が娘である雛遊カルタを、怪異という危険分子から遠ざけようとしていたことは、子供ながらに分かっていた。
けれど雛遊カルタは、それを父親の愛だとは受け取らなかった。不幸なことに、彼女には十分すぎるほどの資質と才能があった。勤勉な彼女は努力も怠らず、父親に認められることを諦めてもいなかった。
しかし、雛遊総司は娘の努力からも才能からも目を背け、令嬢としての道を歩むことを強いた。
結果、彼らは心を通わせることのないまま、享年十八歳という短い生涯を終えてしまった。
「……あの少年はお前が見つけたのか」
「さあ、どうでしょう。私が見つけたのか、それとも私が彼に見つかったのか……。面白いですよね、彼。小手鞠カルタと云うそうですよ」
「小手鞠カルタ……」
雛遊総司は噛んで含めるようにその名を繰り返してから、「死者の名だ。良い名前とは言えないな」と呟いた。
「……あの子はなにか、困っていないか。普通の学校生活を送れているのか」
「本人に聞いてみたらいかがですか。肇さんの話では、怪異アレルギーをお持ちだそうで。一緒にいた怪異の星蓮君のおかげで、最近はクラスにも溶け込めているようですが」
そうか、と答えて暫く小手鞠カルタを目で追っていたが、やがて振り返った雛遊総司はいつも通りの厳しい顔付きをしていた。
「それで、お前はいつまで綾取当主を空席にしておくつもりだ」
「はぁ……、嫌ですねえ。これだからお年寄りは。綾取は雛遊と違って、必ずしも男が後継者と決まっているわけではない。ご存知でしょう? 私達は完全実力主義なんですよ。いろはさんの方が当主に向いている。本人に資質もあってやる気もあるのだから、いろはさんが当主を継いで然るべきでしょう」
「雛遊が何故、男児のみを後継者に据えているか判らんのか。お前はいろはがその腹に子を宿しても、最前線で戦わせるつもりか」
「……。奥様のことは残念でした。しかし、だからといって素質のある女性を全面排除というのは極端すぎますよ。いろはさんたちは守られることを望んでなどいない。守る側に立てる者です」
カルタさんにしたことを、うちの妹にまで強いるつもりですか。
あなたはカルタさんの言葉に耳を傾けなかったことを、悔いているのではなかったのですか。
私の言葉に、雛遊当主は無言を貫く。何度目かの溜め息が、夜のロビーに吸い込まれていった。
「まったく、確かなこと以外口にしないところは肇さんそっくりですね。しかし、いくら私を当主にしたかったからといって、他家の手続き書類にまで手を出すのはルール違反ですよ」
「書類?」
その反応に、私の方が首を傾げた。
「何も思い当たる節がない」といった総司さんの表情は、決して作られたものではない。
そもそも自分の言動に誇りと責任を持つ彼が、こんな風にとぼけたりはしないだろう。
「……あなたじゃないんですか? 私を当主にしたがる者の中で、綾取の書斎に出入りできて、秘密裏に書類を処理できる人なんてあなたくらいでしょう」
「もう一人いるだろう。お前のすぐそばに、お前を当主にしたがっていて、綾取にいくらでも出入りできるものが……」
呆れたように総司さんが答えて、もう会話は終わりだと言わんばかりに背を向けた。
威厳のある後ろ姿を見送りながら、神社に九尾の狐を宿した夜のことを思い出す。
——私はきちんと戸籍を外れるために必要な手続きを踏んで、面倒な事務処理も済ませたというのに。
——きっと反対する誰かが書類を捨ててしまったんでしょう。
——あんな手続きを二度も踏むなんて、私だって御免です。
あの夜、私の言葉に雛遊肇は何も言わなかった。
綾取の邸内に他人が侵入し、書類を棄損したという事実は、彼にとっては重大な事件だったはずなのに。
思えば、その犯人は私が事務手続きを嫌うことを知っていたはずだ。
一度書類を捨ててしまえば、私がもう一度そんな手続きをしようとは思わないことを知っている人間。
綾取の当主代理とも親しく、書斎にさえ監視をつけずに出入りできる人間。
そんなの、今思えば彼しかいないだろうに。
私は、一度たりとも肇さんを疑ったことなどなかった。
「……友人だと思っていた人に裏切られるのは、これで二度目ですよ。肇さん」
静寂の中、私の心に広がる喪失感が、薄暗い夜に溶け込んでいく。
庭の枝垂れ柳が風に揺れながら池に波紋を落とし、その揺らめく影が、まるで私の心を映し出しているようだった。
月が照らす迎賓館は、友への信頼を再び喪失した私を嘲笑うように、ただ冷たく輝いていた。