第八夜┊七「花の香りに誘われて」後編
「……へえ。アンタら、綾取とも知り合いなんやね。ますます総司には会わせられへんなぁ」
「言っておきますが、そこの星蓮君は『鍵持ち』ですよ。普段ならいざ知らず、人議直前に鍵持ちを襲撃するような番狂わせ、いろはさんが知ったらさぞお怒りでしょうね」
まあ、既に柱もこの状態ですし、隠し通すのは無理でしょうけれど。
にっこりと若宮さんに微笑まれて、鴉取は「はぁ、そこの子ぉは怪異やろ? 人を殺して鍵を奪ったんなられっきとした討伐対象やよ」と立ち上がる。
「いろはちゃんかて、『招待客に紛れ込んでた怪異を討伐しとったら、うっかり柱傷つけてもうたわ』って言やぁ分かってくれはるやろ。そもそも傷付けたんは、俺やのうてそこの子やけど。それよりも、綾取のアンタが怪異をかばってることの方が問題と違うん?」
「肇さんから聞いていませんか? 星蓮君が持っているのは空席だった魚座の鍵。彼は正当な継承者だ。——いずれにせよ、ここであなたが彼らを害せば『雛遊は式神を使って人議の参加者を襲わせた』と噂になるでしょうね。そして、その責任を問われるのはあなたではない。三家総帥である総司さんが、一介の式神のせいでどれほどの汚名を着せられることになるのやら……。私としてはようやく上の席が空いて万々歳ですけれど」
楽しそうに語る若宮さんを睥睨しながらも、鴉取が両手を上げる。
軽薄そうに見えたが、主人の名に傷が付くと聞いて戦意を収めたのだろうか。その手に握られていたはずのクナイはいつの間にか無くなっていた。
「はー、降参降参。アンタと口喧嘩してもしゃーないわ」
「判っていただけたようでなにより。あなたなら勿論ご存知でしょうが、会場内での私闘・乱闘は厳禁ですからね。可愛い妹が用意してくれた宴を台無しにされては堪らない。……続きはぜひ、お披露目の場で。張り合いのない相手ばかりで退屈ですから、楽しみにしていますよ」
「お披露目に参加するかどうかは総司が決めることやけど、俺かていろはちゃんが用意してくれはった会食の場を乱すつもりはあらへんよ。外は外、内は内。会場内では仲良うしてな」
最後の言葉は僕らに向けると、鴉取はぱっとその場から消えた。随分と足の速い怪異のようだ。
若宮さんが細く長い息を吐いて、僕らを見る。
迎賓館の薄暗いライトに照らし出され、長い黒髪を肩に流した若宮さんは、いつもの人を食ったような笑顔ではなく、どこか物憂げな表情を浮かべていた。
「……こんばんは。いろいろと訊きたいことはありますが、肇さんは一緒じゃないんですか?」
「急用が出来たから勝手に行ってくれってさ」
「そうですか。肇さんにも困ったものですね。君たちから絶対に目を離さないようにと言っておいたのに」
「あの、助けてくれてありがとうございます。でも雛遊先生は、総司さんって人に閉じ込められてるみたいで……」
僕の言葉に、若宮さんは「なるほど」と短く頷いて、握っていた刀を鞘に戻す。若宮さんの手が空いたことを確認すると、傍らの女の人が預かっていたらしい煙管を若宮さんに返していた。
見慣れない煙管からは、薄白い煙が螺旋を描くように立ち昇っている。若宮さんが女性物らしき椿柄の半幅帯を締めているのも相まって、白黒の着物に身を包んだ二人は、まるで浮世絵に描かれた美人画のようだった。
一方の式神は黒い紙面で顔を隠してはいるが、いつか隣町の焼け跡で出会った、あの首輪の女性だろう。今日はあの首輪こそしていなかったが、彼女を見間違うはずもない。
声を掛けるか悩む僕に彼女も気付いたようで、若宮さんの後ろから嫋やかに微笑むと、唇の前で人差し指を立てる。
あの日、僕に会ったことを黙っていてくれということだろうか。
あんな首輪を嵌められていた彼女が、自由に外を闊歩できる身だとは考えにくい。
彼女の意図を汲んで「はじめまして」と頭を下げると、彼女も同じ角度で礼をした。
「おい、未成年の前だぞ。さっさと火を消せ、このノンデリ宮司」
星蓮が煙管の煙に咎めるような視線を向ける。
しかし式神の彼女は星蓮の言葉を呑み込めなかったようで「のんでり?」と尋ねるように若宮さんを見上げた。若宮さんはそれに応える形で、「ノンデリカシーのことですよ。気を遣えない人、という意味です」と自らへの悪口を解説させられている。
「私もどちらかと言えば嫌煙家なのですが、これは香炉の代わりでして。ニコチンなどは含まれていませんからご安心ください」
この薫香は、誘引の血の効果を打ち消すものなんです。
こちらの千鶴さんは、こういった調薬が得意なんですよ、と若宮さんが傍らの女性を紹介する。
——治癒に精通した、誘引の血を持つ女性。
そしてつい最近聞いたばかりの名に、星蓮が紙面で顔を隠した女性を見つめて、その名を繰り返した。
「檻紙千鶴……」
「おや、ご存知だったのですか。肇さんは本当にお喋りですねえ」
「この誘引の血の匂いはそいつのものか」
「ええ、彼女の体質でね。その場にいるだけで怪異を惹き付けてしまうんです。流血なんてしようものなら、この十倍は強く香りますよ。今日は薫香があるので君も平気だと思いますが、この火を消したら大変なことになるのは想像がつくでしょう。鴉取にも効くならとうに火を消していたでしょうが、なにせ鴉は鼻が利きませんから」
一通り説明し終えると、「雑談はこの辺りにして」、と若宮さんが僕に何かを差し出す。
「君の顔は、一部の人間にとって少々刺激が強い。雛遊の皆さんに顔を知られる前に対策したかったのですが……。二次被害を防ぐためにも、これをつけておいていただけますか」
若宮さんが差し出してきたのは、「雛」と書かれた黒い紙面だった。若宮さんの肩越しにこちらを覗き込んでいる式神も、そっくりの紙面を顔に貼り付けている。
そちらには旧字体で「靏」と書かれていて、彼女の隣に並ぶとなんだか親鳥と雛鳥のようだ。
悪くないなと紙面を受け取ると、千鶴さんが軽やかに若宮さんを飛び越えて、僕の手を取った。
「よろしければ、私が結びましょう」
やはり聞き覚えのある声に、「お願いします」と答えて受け取ったばかりの紙面を渡す。
千鶴さんの指がごそごそと僕の後頭部で紙紐を結んでいたが、しばらくすると「できました」と声をかけてくれた。
「では、私たちは先に参ります。少々騒がしくなるかもしれませんから、三百を数え終えるまで、中に入ってはいけませんよ」
紙面の上から柔らかい手がくしゃりと僕の前髪をひと撫ですると、先に立った若宮さんの三歩後ろを追うようにして、「靏」の式神も会場の中へと吸い込まれていった。
「……また妙な奴に好かれてるな」
「あの人はそういうのじゃないよ」
「おまえ、いっつも『そういうのじゃない』じゃないか」
浮気を疑われる旦那さんってこんな気持ちなのかなと思いながら、胡乱な視線を向ける星蓮に「本当にそういうのじゃなくて」と苦笑いを浮かべる。
彼女の残した甘い甘い花の香りが、振り返る僕の紙面をふわりと揺らした。
「あの人は多分、僕のお姉さんだから」
幕間「折り鶴の恩返し」にて、初対面のはずの首輪の女に「僕」がやたらと好意的な反応を示していたのも、トレーディング・クッキーの最後で檻紙千鶴が本当に死んだのかと食い下がっていたのも、彼女が姉だったからですね。