第一夜┊五「顔のない女」
彼女の筆は早く、完成にさほど日数は必要ないと思われました。
しかし完成間近になって、彼女の筆はひどく鈍ってしまったのです。
私の顔が、彼女にはどうにも描けないようでした。
「難しいのですか?」
「うるさい。少しばかりこだわっているだけだ。おまえごとき、この私が描けないわけがないだろう」
そう言いながら、彼女は何度も何度も同じところを塗り直していました。
私の、顔。
人間の、顔。
普段見慣れていないから、描き慣れていないから、だから難しいのでしょうか。
彼女はいつもしかめ面のまま、毎日この美術室を訪れては、キャンバスに向き合い続けました。
「なんだか、ひどく疲れて見えます。最近根を詰め過ぎているのでは」
「ふん。怪異が私に指図するな」
彼女はそう言って、椅子に乗っかっている私とキャンバスを交互に見つめながら色を混ぜ、筆に乗せていきます。
そんなに私を見つめても、彼女の目に映る風景と違って、輪郭のない私はただの濁った空気でしかないでしょうに。
そこにある顔を探すように、彼女は長い間私を見つめては、色を混ぜていきました。
鮮やかな赤、静寂の青、豊かな緑……。
それがぐちゃぐちゃの黒に成り下がっては色を捨て、また新しく色を作り直すことを続けて、幾つもの月日が流れました。
私たちには、もうあまり時間が残されていませんでした。
「そう心配せずとも、ここを出る前には完成させてやるよ」
彼女はそう言っておりましたが、それでは遅いのです。
私ははやく人の形を手に入れて、彼女に思い出を、友人と会話する楽しみを伝えなくてはならないのですから。
此処を発つ彼女が、次の場所では、人との間に正しい居場所を見つけられるように。
私は彼女を急かしました。何度も何度も「早く描いてください。私の顔を、はやく」と伝えました。
しかし彼女は聞き入れず、いつものように夕焼けを背に、腰掛ける私を見つめるばかり。
そして、秋から冬へと季節が移ろい始めたある日、彼女は美術室に来なくなりました。
✤
卒業を間近に控えた彼女の訃報は、生徒たちの間でさざめくように伝えられました。
多くの者が、彼女をさまざまな言葉で揶揄しましたが、どうやら彼女は人間に殺されたらしいということしかわかりませんでした。
それが誰の仕業であったのか、どうして彼女がそんな憂き目に遭ったのか、私にはわかりません。
——ただ、憎かったのです。
彼女を手に掛けた者が。
彼女が死んで、あんな風に嘲笑う人間たちが。
きっと彼女の遺体は、刻まれて海に撒かれたのでしょう。
彼女の生きた軌跡は、彼女の生家にも、人の思い出の中にも、どこにも残らない。
だから私は、彼女が描き続けたキャンバスに人間たちが触れたときに、彼らに災いをもたらしました。
彼女の生きた証を、この美術室に遺された絵を、どれ一つとして燃やさせてたまるものか、と。
何度も何度も訪れる人間を追い返すうち、この西校舎は立ち入り禁止となり、やがて校舎全体が破棄されることとなりました。
この地から離れられない私は、彼女の思い出と共に、消えゆくまでの長い時をここで過ごすことにしました。
しかし、どうしても名残惜しい。
完成させられなかった絵を、彼女が描き上げた私の姿を、なによりも私が見たかった。
そしてきっと、彼女も無念だったに違いないのです。
彼女は、約束を違えるような人ではなかったのですから。
だからどうか、顔を。私の顔を。
描き残されてしまったこの絵が、彼女の未練とならぬよう。
彼女が私のように、地に縛られた怪異となってしまわぬよう。
怪異とはこんなにも、侘しく、悲しく、胸が苦しいものだから……。
……ええ、本当は知っています。
彼女はいつでも、この絵を完成させることができたこと。
けれど彼女の絵は、その中に怪異を封じてしまうから。
彼女が描き上げたら、私は私ではなくなってしまうから。
だから彼女は、最後の日まで完成を待つつもりでいたのでしょう。
それまで、この夕焼けの中の会話を、私と過ごす時間を、
彼女はきっと、大切に……——。
✤
「だ、大丈夫か!?」
彼に声を掛けられて、目を覚ます。
どうやら僕は、アレルギーで失神してしまっていたらしい。
彼が真っ青な顔色で僕を覗き込んでいて、僕の方が思わず心配になった。
「大丈夫だよ。僕は美術室で顔を描いていただけだし……。君こそ、怪我はない?」
「はあ……。急に倒れるから、おまえの顔を取られたのかと思った……」
心底安堵したように、彼が大きく肩で息を吐く。
気を失っていたのは一瞬だと思うが、随分と心配を掛けてしまったらしい。
「顔無し女はいなくなったのか?」
「多分。俺はよくわからないけど、成仏したと思う。満足そうに笑ってたよ」
「そうか、良かった」
——遅くなってしまったけど、約束を果たせて。
微笑み返す僕に、彼は何か尋ねたそうな顔をしていたけれど、いつものように彼は深く踏み込むことはせず、「そろそろ帰るか」と手を差し伸べた。
「おまえって、結構な秘密主義だよな」
「……幻滅させたかな」
「いいや、みんなそんなものだろ。今日はおまえがあんなに絵が上手いって知られて良かったよ」
だけど、自己紹介で名前すら伏せるやつは初めてだったな、と言って彼は笑う。
出席番号十三番。「僕」の名前は、いまだにどこにも記されていない。
「友達の名前くらいは知っておきたいと思うんだけど、困るか?」
「いいや」
首を振って、彼を見つめる。
本当は無名のまま三年間を過ごすつもりだったけれど、不意に彼が「友達」なんて言葉を使うものだから、びっくりしてぶっきらぼうな返事になってしまった。
先ほど視た景色が蘇る。
逃げ込んだ先の美術室で、彼女たちが叶えた、友人とのひそやかな夕暮れの密会。
僕にも、許されるだろうか。
僕も、あんな風に友人と語らってもいいのだろうか。
冷たかった胸の奥で、わずかな鼓動が聞こえた気がした。
「それで? おまえのことは、雛遊って呼べばいいのか?」
尋ねる彼に、僕は「いいや」と答えて、片手を差し出す。
こんな僕を、「友人」だと言ってくれた彼に。
「僕は小手鞠。小手鞠カルタ。よろしくね」
——差し出した左腕が、じくりと熱を持った。
【読者様へのお願い】
「良かった」「続きを読みたい」と思っていただけましたら、フォローやブックマーク、広告の下にある「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」にして応援いただけると大変励みになります。
皆様の暖かい応援に日々救われています。
よろしくお願いいたします!