第八夜┊五「エントランスホールは騒々しい」後編
ふと、空気が変わったのを感じて顔を上げる。また誰か来たようだ。
ここからでは遠くてよく見えないが、どうやら男の人の二人連れらしい。
ざわざわとギャラリーが遠巻きに「総司様だ」「このような場にいらっしゃるとは、今夜の人議ではよほど重大な議題があるに違いない」「ご壮健そうで何よりだ。今やまともに三家を率いられるのは総司様のみよ」「今日はあの鬼子はお連れではないのだな」と色めき立っていた。
話を聞くに、二人の男のうち片方の名は総司というらしい。
彼らはざわめく周囲など歯牙にも掛けず、悠々と肩で風を切って正面の扉へと進んでいく。モーゼが海を割るように、人だかりがばっと道を譲って、一直線に通り道が開いた。
「しかしアンタも人が悪いなぁ……。坊っちゃん、今頃蔵で泣いてはるんとちゃう?」
「あれしきで泣き言を漏らすようならば、どのみち人議になど出せん」
四十手前くらいだろうか、やたらと精悍な顔付きをした男の人が先導し、一歩後ろを軽薄そうな若い男が付いて歩く。後者の男には、腰のあたりから黒い翼が生えていた。
「なんや、いつにも増して苛々してはるなぁ。欲求不満やろか。元気だしや、今度アンタも花街に連れてったるから」
「その下劣でやかましい嘴を閉じろ、鴉取。お前も焼き鳥になってテーブルに並びたいか」
——アトリ。
呼ばれた名前に、星蓮がはっとして顔を上げる。
雛遊先生が忠告していた名前だ。
「あいつ……、鞍馬山の鴉天狗だ」
「前に言ってた、三大怪異の?」
星蓮が二人に目を向けたまま頷く。
九尾の狐と並ぶ三大怪異。鞍馬山の鴉天狗と、大江山の酒呑童子。
どちらも家にいますよ、と言っていた雛遊先生の言葉は記憶に新しい。
雛遊家の式神を連れているということは、あの人も雛遊家の人なのだろうか。
だとしたら、精悍な顔付きをしたあの壮年の男は、年齢的に考えて雛遊先生のお父さんだろう。四十手前くらいに見えたが、雛遊先生とその姉である雛遊カルタさんの父となれば、少なくとも五十より上ということになる。
確かに総司と呼ばれたその男も、僕や雛遊先生と同じく、蜂蜜色の髪をしていた。
しかし先程、鴉天狗が口にしていた言葉が、魚の小骨のように胸につっかえる。
——『坊っちゃん、今頃蔵で泣いてはるんとちゃう?』
まさかとは思うが、坊っちゃんとは雛遊先生のことではないだろうか。
僕に掛かってきた、やけに焦った声の電話と、電波の悪い通信。
星蓮が聞いた、背後から忍び寄る無数の声。
……彼らは雛遊先生を蔵に閉じ込めて、一体何をさせているんだ。
「だ、だめだって!」
彼らの前に出て行こうとする僕を、星蓮が慌てて柱の影に引っ張り込む。
一言いってやらないと気が済まなかったが、もがいたところで腕力勝負では星蓮に勝てなかった。
鴉取と呼ばれた鴉天狗は「焼き鳥」と聞いて数秒は黙っていたものの、三歩も歩くと忠告を忘れたようで、再び軽口を叩き始める。
「未亡人は気軽に発散できへんくて大変やなあ。アンタはちょっとお固すぎるんよ。俺が遊び方を教えたるってなんべんも言うとるのに……。はっ、も、もしかして、もう勃たなくなってしもたとか!?」
一人で喋って大袈裟に驚くと、鴉取はとうとう男の肩に腕を回して同情し始めた。
対する男は呆れたように短い溜め息を一つ落として、用意してあったらしい札を貼る。
印相体で「勅令 私語厳禁」と書かれた矩形の紙に、鴉取は「ん"ーーーー!!」と唸り声を上げて、貼り付けられた口元から札を剥がそうと躍起になっていた。
「雛遊の家門において、誤った言葉遣いは看過できない。覚えておけ、『未亡人』は女性のみを指す言葉だ」
鴉取はしばらく七転八倒してもがいていたが、ようやく口を封じていた札を引き剥がすと「そんなん知っとるわ!」と勢い良く男に食って掛かった。
「……待て、怪異の気配がする」
男が振り向きざまに札を取る。迷いなく星蓮を睨んでいた男の視線がすぐ隣りにいた僕とも合って、再び肩が揺れた。
だが、怯んだのは向こうの方だった。
「カルタ……!?」
「はーいはいはい、もう時間やよ総司。いろはちゃんが頑張っておもてなししてくれはるんやから、寄り道せんと行こうな」
男はわずかな抵抗を見せたが、鴉取の力は随分と強いらしく、押し切られる形で二人も会場の中へと消えた。
扉が閉まった瞬間に緊張の糸が切れて、ぶわっと額に汗があふれてくる。
「はあ……。もう既にどっと疲れが……。とんでもねーな、人議。この距離で俺のこと見抜くのかよ……」
星蓮とともに、僕もへなへなと柱の陰でへたり込む。
こんな緊張感の中で食事を楽しめる気は全くしなかった。
若宮さんか雛遊先生、どちらでもいいから早く来てくれないかな、と祈るように入り口の橋へと視線を向ける。
ほとんどの招待客は既に会場の中へと進み、ホールに残る人影はまばらになっていた。
しかし入り口から、段々とさざめきが広がっていく。足音はしなかったが、三度誰かが入ってきたらしい。
——エントランスホールに、今日一番のどよめきが湧き上がった。
アボカドはカラスにとって毒性があるため、いろはさんが前菜から抜いてくれています。
アトリは鳥頭なので三歩歩くと忠告を忘れます。
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