第七夜┊五「真相にはまだ遠い」
やけに長く感じた一日を終えて、ようやく迎えた放課後。
もしかすると、まだ職員室にバイス教授がいるかも……と腰の重い僕に、「小手鞠君」と雛遊先生が廊下から顔を覗かせた。
「ホームルームは終わりましたか? あれから寮室に不具合はないか、念のため君たちに確認を……」
朗らかに話しかけてくる雛遊先生に駆け寄って、ひしとしがみ付く。
急に抱き付かれた雛遊先生は「!?」と驚いた顔をしていたが、なんだかんだ姉によく似た顔の僕を邪険にしないことは知っているので、今だけはこの顔の効果に甘えさせてもらう。
「……えっと、何かありましたか?」
「あの理科教師にいじめられてな」
「なるほど……」
ぶつかったのは僕だし、会話した内容だけを鑑みれば、バイス教授は僕の体に異常がないか尋ねただけなのだが、それらを考慮しても雛遊先生に「なるほど」と言わせしめてしまうのが、バイス教授のバイス教授たるところだった。
きっとこういうのを、日頃の行いというのだろう。
どちらも担当科目に対する熱量は引けを取らないが、日々の応対や生徒への態度だけで言えば、「雛遊先生」の対義語が「バイス教授」に当たる。
今は雛遊先生の柔らかな口調と態度、そしてこのタイミングで自ら出向いてくれる間の良さに、心の底から安心した。
「寮はお陰で問題ない。以前より快適になった。これは礼だ、食え」
無言でひっついている僕の代わりに、星蓮が質問に答えてクッキー缶を差し出す。雛遊先生は僕にしがみつかれたまま、「これはどうも」と両手で缶を受け取った。
本日のメインである雛遊先生へのプレゼントは、贈答用に使われるような大きくて華やかな缶の中に、クッキーがぎっしりと詰め込まれていた。
配布用のラッピングとは気合いも見た目も異なっている。雛遊先生がキッチンを修理してくれたことに、星蓮も少なからず感謝しているのだろう。
「君が作ったんですか?」
「毒見は済んでるから安心しろ、ただの詫びの品だ」
雛遊先生は「ありがとうございます。勿論いただきますよ」と受け取って、その場で抹茶のクッキーを一枚、口に運んだ。
「……君は多才ですね。小手鞠君に料理のできるルームメイトがいてくれて、本当に良かったです」
「俺もそう思う」
頷く二人を交互に眺めて、なんとなく距離の近い二人にむくれる。僕が怪異と仲良くしているときの星蓮も、こんな気持ちなのだろうか。
とはいえ、もしも星蓮も僕と同じくらい料理ができなかったら、毎日が命の危機だったかもしれない。そう考えると、つくづく星蓮がいてくれてよかった。
「いや、おまえと同じくらい料理ができないやつもなかなかいないだろ……。あれもあれで一種の才能だぞ」
「ええ? 若宮さんも似たような人に会ったことあるって言ってたし、それなりに沢山いるんじゃないか?」
言い返す僕に、「似たような人?」と雛遊先生が聞き返す。
そこには「小手鞠君と同じような破壊活動をする人が他にもいるのか」という意味合いと、「綾取さんに知り合いが!?」という二つの驚きが混じっていた。
「以前、お米を炊こうとして屋敷を半壊させた友人がいるって言ってましたよ。雛遊先生は、その人とお知り合いじゃないんですか?」
よほどインパクトのある出来事だったのだろうか。
雛遊先生はすぐに得心がいったようで、「ああ、檻紙さんのことですね」と即答した。
「彼女は私たちの幼馴染でしたよ。少し変わったところもありましたが、可愛らしい人でした」
どこか懐かしむように、雛遊先生が目を細める。
若宮さんも「可愛らしい人」と評していたので、どうやらそれが「檻紙さん」に対する共通認識らしい。
人から伝え聞く彼女の話は新鮮で、なんだか自分が褒められたようなくすぐったい気持ちになる。
だから、「亡くなってしまったのが残念です」とそのままの声音で続けた雛遊先生に、僕らは思わず「え?」と聞き返した。
「亡くなったって……」
「綾取さんから聞かなかったんですか? もう十年も前の話ですよ。ほら、例の火事で」
——今なお残る凄惨な火事の跡地。
使用人と女主人を巻き込み、名家『檻紙』を一夜にして灰にした大火災……。
「あの火事で、檻紙当主と、一人娘だった千鶴さんが亡くなってしまって……、檻紙の血は途絶えてしまいました。未だに名家御三家なんて言われていますが、今はもう、雛遊と綾取の二家しか残っていないんです」
雛遊先生の言葉をうまく咀嚼できず、ぼんやりと見上げている僕に代わって、星蓮が「辻褄が合わないな。あの宮司が度々口にする《彼女》っていうのは、そいつのことじゃなかったのか?」と腕を組む。
「誘引の血を持つ友人っていうのは、別の人間の話か?」
「いいえ、誘引の血を持っていたのは檻紙家だけですよ。『檻紙の血は、昔から怪異にひどく好まれる』と綾取さんも言っていたでしょう」
「ならやっぱりおかしいだろ。九尾の時の隈取りはどうした」
「隈取り? 綾取さんが顔に引いている、妖払いの印のことですか?」
「普段は妖払いだが、九尾の狐を捕まえるためにって、この前は誘引の血で隈取りしてただろ。あんなに強く香って……」
雛遊先生が黙る。つられて星蓮も口を閉ざした。
遺灰というならまだしも、十年も前に死んだ人間の生き血を使うことなんてできないだろう。
なんとなく嫌な予感が汗となってじわりと染み出し、僕らの背を伝っていった。
「……君たちが、何の話をしているのかわかりません。確かに誘引の血は、怪異には甘く香って誘き寄せると聞きますが、私には違いがわからないのでなんとも……。何かの聞き間違いではないでしょうか」
「そんなわけあるか。あの隈取りのせいでどれだけ俺の頭が鈍ったと思ってる。火車や九尾にも間違いなく影響があったはずだ」
「ですが、檻紙さんはもう、……亡くなっているんですよ」
同じ言葉を繰り返されて、星蓮が再び黙る。
今度は僕が、代わりに口を開いた。
「本当に?」
「え?」
「本当に亡くなったんですか? その人の死を誰かが目撃したんですか? 何かの間違いじゃないんですか?」
必死に訴える僕の言葉を、雛遊先生は即座に否定することはしなかった。
言われた言葉を受け止めて、その可能性について真剣に熟考してくれているらしく、顎に手を当てて考え込んでいる。
「……屋敷は全焼で、当時中にいた人間で生き延びたのは、火を放ったと自己申告した綾取さんだけでした。のちの調べで焼け跡から出たご遺体の数と、当時屋敷にいたはずの人数の整合が取れ、全員死亡の判定がなされました。とはいっても、ご遺体はひどい損壊具合でしたから……。顔はおろか性別もわからない有り様だったようです。そしてそのご遺体の中に、間違いなく子供の焼死体が一つ、混ざっていました。状況証拠で、そのご遺体が一人娘である檻紙千鶴だろうと判断され、今に至ります」
壮絶な火事であったということは話の端々で聞いていたが、遺体の判別さえつかないほどの凄惨さだったとは思っていなくて、指の先が冷えていく。
さすがの星蓮も、その状況で檻紙千鶴が生きているとは考えていないようだったが、しばらく考え込んだ末に「なんでそいつらは、逃げなかったんだろうな」と口にした。
「かなり大きな屋敷だったんだろ? 勝手口だって一つじゃなかったはずだ。使用人の数もそこそこいたはずなのに、火の手が回るまで全員が逃げ出さなかったのか?」
「……」
私は、と雛遊先生が口を開きかけたが、やがて続きを諦めたように言葉が立ち消えて、賑々しい放課後の空気の中へと霧散していく。
しばらく経ってから、雛遊先生は言葉を変えたらしく「逃げられなかったんだと、思っています」と答えた。
「逃げられなかった?」
「これはあまり公になっていない話ですが……。多くの遺体は、勝手口や正門に折り重なるように積み上がっていました。外に逃れようと出入り口に殺到したのでしょう。……しかし、逃げられなかった」
雛遊先生が、もう誰も残っていない教室の引き戸を開ける。
扉という障壁が取り払われて、雛遊先生は何の問題もなく廊下から教室へと歩を進めた。
僕たちの常識では、扉が開けば外へ出られる。
けれど、檻紙家では……——。
「三家はそれぞれ、血筋に宿った特徴的な力をもって、人々を怪異から守ります。雛遊が怪異の封印と使役を受け持つように、檻紙は治癒と、——結界を司る家でした」
綾取が祓い、檻紙が守り、雛遊が封じる。
三家の力は人々を守るためのものだけれど、それはあくまで、力が正しく行使された場合に限る。
もしも檻紙の人間が、燃え盛るその家から誰一人逃すまいと思っていたのならば……。
「……所詮は憶測です。今さらあれこれ妄想したところで、真実は誰にもわかりません。衝撃的な事件は人々に悪い妄想を掻き立てさせる。私も例外ではなかったようです。怖がらせてしまってすみません。どうかこの件は忘れてください」
雛遊先生はぱっと笑顔を貼り付け直して、「ああそういえば、人議が次の日曜に決まりましたよ。おいしいご飯が食べられるといいですねえ」と明るい話題にすり替えた。
星蓮もその配慮に乗っかって、彼らは口の上だけで温かい会話を繰り広げる。
そんな僕らを嘲るように、窓枠を走る三尾のネズミが立ち止まって赤い目を向けた。
爛々と輝くその瞳は、神殺しと呼ばれる若宮神社の宮司を彷彿とさせる。
——九尾の狐を封じたあの夜、僕は思ったのだ。
九尾の狐は、悪意から村に火を放ったわけではない。だけど人々を守りきれなかった罪悪感と自責の念が、言い訳の言葉すらも彼から奪ってしまったのだろう。
もしかすると、若宮さんもそうなのではないだろうか。
本当は、檻紙の家を燃やす気なんかなかったのでは。なにかの事故か、あるいは怪異のせいで火がついてしまったのかもしれない。
だって若宮さんは、あの火事のことを悔いていると、はっきり答えたのだから……。
「——君の友人は賢いが、人の心というものに気を払い過ぎるきらいがある。他人の善悪を測ろうという時に、『はい』か『いいえ』で答えられる質問では役不足でしょう」
縋るような僕の視線の先で、若宮さんは笑顔を向けた。
いつもと変わらない、分度器で測ったような、左右対象の微笑みで。
あの日の朝、星蓮は確かに確認した。
『おまえは火事のことを悔いているか』と……。
「後悔? ええ、とても後悔していますよ。——もっと早く、あの家を燃やしておくべきだったと」
そっと僕だけに告げられた声が、あの夜の記憶を思い起こさせる。
音を立てて崩れていく屋敷。漆塗りの天井。
肉の焼ける匂いが充満し、べたべたと脂が纏わり付く。
温かな家庭の気配は屋敷と共に崩れ去り、人も物も思い出も、等しく灰燼へと帰していった。
這い寄る灼熱と、けたたましい悲鳴の数々。
切って、開いて、溢れ出す液体から僕を掬った、手のひらの熱。
そうしてあの夜、僕を火事の中から連れ出したのは、黒づくめのローブに身を包んだ、ペストマスクの男だった……——。
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