第七夜┊三「バイス教授」
星蓮から渡してもらった優待券を眺めながら、昼休みの廊下を歩く。僕らは雛遊先生を探して、再度職員室に向かっていた。
数枚綴りになっている優待券はパンフレットも兼ねているようで、質の良い紙には小綺麗なホールや、いかにも高級そうな食事処の写真が連なっている。
温泉やレストランの優待券も付いているが、高校生男子二人でセレモニーホールのレストランに行くのはさすがにハードルが高すぎた。
「あ、おい危ない……」
「わっ」
前をよく見ていなかったせいで、星蓮の注意も虚しく、人にぶつかってしまって尻餅をつく。
す、すみませんと慌てて顔を上げた先で、こちらを覗き込んでいる真っ黒のペストマスクと目が合った。
黒いレザーのシルクハットに、ゴーグル付きのペストマスク。長いローブに覆われて、頭の先から足の先まで黒一色の男は、髪の色も肌の色も窺い知れない。
もちろん顔もわからないが、この学校でこんな頓珍漢な格好をしている人間を、僕は一人しか知らなかった。
「バイス教授……」
「小手鞠、廊下で余所見とは何事だ」
抑揚のない声だが、それが「比較的機嫌がいい時」の声色であることを知っている僕は、ほっと胸を撫で下ろす。
バイス教授は雛遊先生同様、教科は受け持っているが担任クラスはない教師だ。担当教科は理科。
一介の教師でありながら、その横柄な態度と高圧的な口調が「先生」ではなく「教授」と呼ばれる所以である。
本来の専攻は、生態進化や細胞分化を扱う生物学者らしいが、昨今の人員不足でバイス教授が物理、化学、生物の理系三科目全てを受け持っている。
服装からして常人ではないのだが、専任科目の優秀さゆえに、この格好を含む「ちょっとばかり逸脱した言動」の全てが黙認されているようだ。
物理と化学の授業では極端にテンションが低くなるものの、生物の話になると途端に饒舌になる、ちょっとマッドな生粋の研究者。生物学好きが転じて医師免許まで持っているらしく、保健医がいないときは代わりに診てくれたりもする。
一切外国訛りのない日本語をべらべらと喋っているので、バイスという名前を本名だと信じている生徒はほとんどいない。
一説では、優位性のない説教ばかりしてくるからバイス先生なんだとか。
その他にも、「悪徳」を英語にした「VICE」なのでは、という声も稀にだが存在して、僕は「惜しいな」といつも心の奥底で思っている。
……僕は、彼の名前がドイツ語由来であることを知っていたから。
「接地時に左手を付いたな。挫傷の可能性がある。見せてみろ」
「だ、大丈夫です。大したことないので」
ぱっと立ち上がって二歩下がる。足りない気がしてもう一歩下がった。
バイス教授は突然三歩分の距離を取られたことなど意にも介さず、床に散らばったセレモニーホールの優待券を拾い上げる。
「葬儀の予定でも?」
「ないですないです。貰い物です。ていうかそれは僕のじゃなくて星蓮のです」
隣に立つ星蓮を全身で指し示すが、バイス教授は僕から視線を外すことなく、「顔色が悪いな。現在の体調と今朝の基礎体温は?」と尋問を重ねてきた。
「大丈夫です。元気です。今朝の基礎体温はErr-です」
「Err-は体温ではなくエラー表記だ。直ちに電池を買い替えたまえ」
そこまでの応酬でようやく満足したのか、バイス教授は黒い嘴を星蓮に向ける。
ペストマスクを被っているせいで顔が見えず、面がそちらを向いていても、視線は僕を捉えたままなのではないかと、僕は背筋を正したまま凍り付いていた。
「星蓮、この優待券を俺に譲る気はないか」
「交渉次第では考えてもいい」
バイス教授はローブから木箱を取り出すと、中に収められていた金属製の棒を星蓮に差し出す。
何かの道具だろうか。鈍色に光る棒の先端は、ゆるやかな傾斜とともに鋭利に研ぎ澄まされていた。大きな耳かきのような形に近い。
「それは?」
「骨膜剥離子。名の通り、人体から骨膜や粘膜を剥離させるときに使う手術具だ」
うわ、いらねえ、と星蓮の表情が雄弁に物語る。
他人の骨膜を剥がす可能性と葬儀を行う可能性なら、まだ葬儀の方が確率が高いだろう。
交渉の余地なしと判断したらしい星蓮に、バイス教授が「それから」と言葉を付け足す。
「交換に応じるなら、小手鞠の小テストに五点を加点してやる。加点があれば赤点を免れるだろう」
「良いぜ、交渉成立だ」
さらっと星蓮が手のひらを返して、骨膜剥離子を受け取った。
人体についてはもちろんだが、バイス教授はこういう「他人の動かし方」についても精通しているので、なお性質が悪い。
手に入れた優待券を光に透かして満足気に眺めながら、「この優待券を手にするために、いくらの投資が必要か知っているか」とバイス教授が問う。
僕に聞いたのか星蓮に聞いたのか分からなかったが、押し黙る僕の代わりに星蓮が「さあな、高くても五千円とかじゃないか?」とおざなりに返した。
「卯ノ花グループの株主優待は、最低百株、約五十万円からだ。覚えておくと良い」
優待券を片手でひらひらと棚引かせながら立ち去るバイス教授に、「え、あの優待券そんなするのかよ」と星蓮が時間差で呆然と呟く。
それにしても、九尾の狐の吉兆はもう効果切れなのだろうか。でなければ、よりにもよって校内で一番会いたくない人にぶつかるはずがない。
明日は朝一で若宮神社にお参りに行こうと固く心に誓う僕を、星蓮が心配そうに覗き込んだ。
「おまえ、あいつのこと嫌いか?」
「え?」
「変な顔してる」
星蓮に指摘されて、僕は今どんな顔をしていたのだろうかと両手で頬をこねる。
バイス教授は校内一苦手で会いたくない人物だが、嫌いかと言われるとわからない。どちらかと言えば、バイス教授に対する僕の感情は、「嫌い」ではなく「怖い」だ。
「……生物の点数、あんまり良くないからかな」
「ああ、たしかによく呼び出されてるよな。あいつ、生物になると高校生の出題範囲を軽々飛び越えてくるからなー。あんまり気にするなよ」
星蓮に励まされて、僕らはそそくさと来た道を戻る。
雛遊先生には、また放課後に会いに行こう。
……バイス教授がいるとわかっている職員室に向かう勇気は、残念ながら僕にはなかった。