第一夜┊四「顔のない女」
✤
どうしたものかな、と独りごちながら一歩下がる。
目の前では、また顔無し女が柱に激突していた。
こんなのんびりしたやつ、朝まで追いかけられたって捕まることはないだろう。しかし、この寒気はいただけない。このままでは、彼が風邪をひいてしまう。
夜の大冒険はこんなに長丁場になるはずではなかったのだが、閉じ込められるとは誤算だった。
ちらりと彼を視線で追う。ちょうど四つめの扉を開いたところで、「KEEP OUT」と書かれたテープで厳重に覆われた扉など、彼にはまるで見えていないかのように通り抜けていく。天井から下がる吊り看板には「美術室」と書かれていた。
……もうそろそろいいだろうか。思っていた展開とはズレてきてしまったし、彼も随分と怖い思いをしているようだ。
かわいそうなことをした。こんなはずではなかったのに。
短剣を握って、女に向き直る。
刺されることを恐れない様子からして、どうやらこいつは切りつけても無駄なようだ。
ならば……。
「おい! こっちを見ろ!」
背後から掛けられた声は、きっと顔無し女に向けられたものだったのだろうが、あまりの剣幕につられて俺も振り返る。
美術室から顔を出した彼は、両手でキャンバスを掲げていた。
キャンバスには、こちらを向いて座る女生徒が描かれている。だが、かつては丁寧な色使いで描き上げられたであろうその一枚は、やけに色褪せてしまっていた。そんなキャンバスの中央で、夕焼けを背に眩しい笑顔を向けている少女の笑顔は、向日葵のようにそこだけ色付いて見える。
乾ききっていない絵の具がなお瑞々しさを増して、嬉しそうに語りかけてくる少女の表情は今にも動き出しそうだ。
彼が描いたのだろうか。肖像画と目が合って、俺は一瞬反応に困る。
だが彼は、動きを止めた顔無し女に自分から近寄ると、そのキャンバスを彼女に差し出した。
「見つけたよ、君の探していたもの」
先程の剣幕とは打って変わって、彼が掛ける声は驚くほど優しかった。
……どんなにいい女でも、怪異はダメだと言っていたのに。
顔無し女は、描かれた顔をじっと見つめると、徐々にその姿を霧のように消していく。
消えゆく瞬間、かすかに見えた真っ白な顔には、淡く薄紅を引いた口元が映っていた。
「嗚呼、良かった。やっと描き終えられたのですね……」
✤
彼女は、絵を描くのが好きでした。
視える彼女は教室に居場所がなく、いつも美術室にこもっては、独りで絵を描いていました。
緋色が舞い散る桜の木。
錦鯉の踊る夏の池。
中秋の名月と、月明かりに照らし出された芒。
初雪の降り積もった、枯れ木と石造りの庭……。
この校舎の怪異であった私は外に出ることは叶わず、窓の外の景色すら、窺い知ることはできません。
私は、彼女が映し描く絵で季節を知りました。
彼女の繊細な筆使いが、白いキャンバスの中に無数の花を咲かせていくのが好きでした。
「あなた、人は描かないのですか?」
ある日、うっかり彼女に声を掛けてしまったのは、彼女があまりにも寂しい絵を描いていたから。
誰もいないのに揺れる、夕暮れの中の無人のブランコ。
彼女は無口でしたが、彼女の描く絵はひどく雄弁でした。
彼女の寂しさが、人を恋しく思う気持ちが、その絵からは痛ましいほど伝わってきました。
「私は好きなものしか描かない。ゆえに人は描かないのだ」
彼女は、怪異である私に気付いていながら、気にも留めずに返事を寄越しました。
「しかし、あなたは人がお好きでしょう」
「好きなものか。あのような分からず屋ども。誰があいつらを守ってやっていると……」
べしゃ、と筆先が乱暴に水入れにつけ込まれて、透明だった水を赤く濁らせていく。
その様子すらも、私にはいとおしく見えました。
彼女の手ずから色付けられるものは、キャンバスも、筆入れの水も、私には変わらず美しかったのです。
「襲われていたから助けてやったのに、この私を魔女だとさ。ふん、ならばあのまま食われてしまえばよかったのだ」
「成る程、祓い屋のご息女なのですね」
「なんだ。気付いていなかったのか」
筆先がパレットから新たな色をすくいとって、帆布のキャンバスに乗せていく。
流れるように描き出されていく風景が、命が、たまらなく輝いて見えました。
「どうして、私のことは放っておかれるのです?」
「おまえはなんにもしていないだろう。年がら年中、私の絵を眺めているだけではないか」
「私はこの西校舎から動けないのです。校舎を建てるときに、下敷きにされてしまって」
「ふうん。おまえ、元は兎か鳥だったのか」
「わかりません。もう自分が何であったかも忘れてしまいました」
「なら、私が描いてやろうか」
自分の姿形も思い出せず、己の輪郭さえ縁取れない影のような私に、彼女はそう言ってくれたのです。
とても嬉しかった。
舞い上がるほどの喜びでした。
私は、彼女の絵に魅せられていました。
彼女の指先から生み出され、色付けていただけるのなら、それがどんな姿でも構いませんでした。
それになにより、彼女は言っていたではありませんか。
彼女は、好きなものでなければ描かないと——。
「希望はあるか」と問う彼女に、私は彼女と同じ学生服の姿を所望しました。
彼女は少し困ったように首を傾げていましたが、すぐに「いいだろう」と頷いてくれました。
私には、わかっていました。
彼女に人間の友人がいないこと。
彼女が、心の奥底ではそれを求めてやまないこと。
だから私は、彼女に人間の姿の私を求めたのです。
私が人の姿をいただければ、形だけでも彼女に人間の友人を作ってやれる。
放課後に友人と美術室で語らう、わずかばかりの思い出を、彼女に残してやれる。
きっともうすぐ、私を置いてここを卒業していく彼女に……。
彼女が祓い屋であったことは、彼女の口から聞くまで知り得ませんでしたが、「御三家」と呼ばれる祓い屋が怪異からひどく恐れられていることは、私の耳にも届いていました。
筆を扱う、雛遊。
怪異を封じ、従え、意のままに操る人形使い。
彼女の苗字がきっとその家系のものであることは、絵筆を握る指にたこができていることから、なんとなく察しがつきました。
しかし雛遊家は絶対的な男系家系。女児はどれほど優れていようと、家門の一員と見なされない。
同じ墓に入れることすら忌避され、雛遊家の女の死体は海に撒かれるのだと、彼女はキャンバスに向かいながら毒付いておりました。
家の中にも居場所はなく、学び舎にさえ居所はなく。
そんな彼女の、わずかばかりの支えになれるのならば、それより幸福なことはありません。
彼女に描いてもらえるなら、彼女の絵の中に封じてもらえるなら、私はそれでも良かったのです。
例えその絵が持ち帰られずとも、この美術室に永劫置き去りにされるとしても。
ほんの少しの間、この西校舎で彼女と肩を並べて語らえる存在になれるのであれば……。