第七夜┊二「トレーディング・クッキー」
雛遊先生宅で一夜を明かし、無事に修復された寮室に戻ってきた僕らは、約束通り星蓮が作ってくれた朝食——炊き込みご飯と茄子の煮浸しに舌鼓を打っていた。
夏野菜で作られた朝食の御膳は、彩りも華やかでとてもおいしい。
「やっぱり僕は、カフェで食べるよりも君が作ってくれた朝食の方が嬉しいな。でも君は、毎朝料理するのは大変じゃない?」
「俺も料理は楽しいし、上達してる実感もあるから全然苦じゃない」
「そっか。調理全般を君に任せてしまってるから、掃除とか洗濯は僕が頑張るよ」
言ってる間に、新設された大型オーブンから、焼き菓子が焼ける甘い匂いが漂ってくる。
何か作っているのだろうか。これまで料理は和洋中問わず色々試していたようだれど、星蓮がお菓子作りにトライするのはこれが初めてのはずだ。
「チャレンジついでに、今回雛遊にはそこそこ迷惑をかけたから、お詫びの品にしようと思って」
「いいね。何を焼いてるの?」
「クッキー。抹茶とアーモンドとビターチョコの三種類を用意してる。味見してみるか?」
「食べたい!」
食い気味の返答に星蓮が笑って、丁度焼き上がった第一弾を皿に出してくれる。
キラキラと飾られた色とりどりのクッキーは、いろんな魚の形でくり抜いてあって、見ているだけで楽しくなった。
「美味しい……。前から思ってたけど、本当に料理上手だよね。お店出せるレベルだよ」
「まあ、塊肉をそのままお前に出してた時から比べれば、多少は上達したよな」
褒め言葉にも天狗になることなく、星蓮は粗熱を取ったものから順にラッピングを施していく。
焼き菓子の性だが、少量作るというのは難しいので、自分たちが食べる分を差し引いても幾らか余りそうだった。
「どうせならクラスの奴にも配るか。あいつらからもたびたびお菓子もらってるし」
星蓮が幸せな香りのするお菓子を鞄に詰める。受け取る皆の笑顔を想像して、僕らは月曜日とは思えないほど足取り軽やかに登校した。
✤
朝一で職員室に顔を出してみたものの、どうやら雛遊先生は他のクラスの朝補習に出向いているらしい。いくつもの本やプリントが積み上がっている雛遊先生の席は無人だった。
また昼休みにでも出直すことにして、僕らは一限の体育に合わせて着替えを済ませる。クラスメイトたちにお菓子を配るのは、体育が終わってからの方がいいだろう。
あの地獄の長距離走のせいで、「体力測定」という言葉が若干トラウマになりかけていたけれど、持久走が終わってしまえば後はそんなに難しいものではなかった。
「僕」はどうやら、持久力には難があるが、瞬発力の項目である反復横跳びや、短距離走はそこそこ得意なようで、平均よりもかなり高い数値を叩き出している。体力測定を通じて、自分でも何が得意で何が苦手なのか把握できるのは好都合だ。
「星蓮君、握力60kg!」
少し離れた場所で、記録係が驚いた声を上げる。
握力60kgってどれくらいなんだろう。凄いことなんだろうか。疑問に思いながら僕も試してみると、35kgだった。
「……君、もしかしてあれでも加減してる?」
「握力測定、難しすぎるだろ……。ちょっと指先で触れただけなのに平均を大きく上回ってるって言われたぞ。左右対称にするのに一番神経を使った」
星蓮にとっては、持久走よりもこういう細かい数値を平均内に収めるよう調整するほうが、骨が折れるようだ。
ほとんどの項目を好成績で収めた彼だが、敏捷性・瞬発力を測定する反復横跳びだけは、少しだけ僕のほうが数値が良い。
手加減の結果だろうと思いきや、「それは真面目にやったやつだな」と返される。
「俺は元々、あまり早く動いたり止まったりするのは得意じゃないんだよ。知ってるだろ」
ゆったりと星空を揺蕩うこと数千年。そのほとんどの記憶は欠落してしまっているが、身体に染み付いた速度感というものはなかなか抜けないのかもしれない。
彼が止まれなかったせいで(止まる気がなかったことの方が大きな要因だとは思うけれど)、土地神様の領域に入ってしまったことは僕も覚えている。
折角、万能な彼に優位を取れた項目があるのだから、なにか星蓮の助けになれたらいいのになと考えてみるが、僕の敏捷性や瞬発力が発揮できる場面はあんまり想像できなかった。
「おまえはそこにいるだけで十分俺の助けになってるから、それ以上何かを頑張ろうとしなくていい」
星蓮がそう言ってくれたので、僕は「そうだね」と小さく頷いて、それ以上考えるのをやめた。
やり慣れないことをするのは良くない。彼のために料理を頑張ろうと一念発起し、寮室の半分を炭にしたばかりの僕は諦めて肩を落とす。
——しかし意外にも、僕が彼の助けになれる日は、そう遠くはなかった。
寮に例の黒い虫が出たことで僕の敏捷性が遺憾なく発揮され、顔面めがけて飛んできたそいつを窓の外へと場外ホームランで打ち返し、部屋の隅で震えていた星蓮に感激されることになるとは、この時の僕らは夢にも思っていなかったけれど。
✤
一限からの体育で消耗しきったクラスは、気だるい雰囲気に包まれている。
その中で一人、絶えず話しかけてくる面々に笑顔を振り撒く少女だけは、疲れた様子をおくびにも出さずに明るい声で応じていた。
「よう、愛色」
星蓮に話し掛けられて、ぱっと愛色さんが笑顔を向ける。
彼女の応対がすべて演技であることを知る僕らとしては、体育のあとにこんな風に振る舞える彼女の底知れない気力と体力が、空恐ろしくもあった。
「おはよー、星蓮君。聞いたよー、握力60kgあるんだってね。すごいねー!」
「ああ、今日は調子が良かったみたいだ」
さり気なく受け流しながら、「甘いものはいける口か?」とラッピングされたクッキーを取り出す。
先日の告白騒動に続き、普段絡みのない僕らが愛色さんの席を訪ねただけでもクラスメイトたちは密かに視線で追っていたが、星蓮が愛色さんにプレゼントを差し出したことで、いよいよクラスがざわめき立った。
しかし前回同様、愛色さんは周囲の様子など我関せずで、差し出されたクッキーを笑顔で受け取る。
「えー、どうしたのこれ。可愛いー! 星蓮君が作ったのー?」
「余りもののお裾分けだ。貰ってくれると助かる」
「嬉しい。ありがたくいただくねー」
私も何かあったかなーと愛色さんが鞄をあさり、「じゃあ星蓮君にこれ、どうぞー」と小さなアトマイザーを渡した。
「ん? なんだこれ、ガラス瓶か?」
「アトマイザーっていうんだよ。要は香水。私とおそろい」
ざわめきを通り越して金切り声が入り始めた周囲をさしおいて、一際大きな悲鳴を上げたのは愛色さんの背後の席だった。「ちょっと待って!?」と出席番号四番、卯ノ花兎楽々が立ち上がって二人の間に割って入る。
「こよりとお揃い!? 嘘、うらやましすぎる。ねえ星蓮君、それ譲ってよー!」
「だめだよ兎楽々ちゃん、これは星蓮君にあげたものだから」
なだめる愛色さんに、「じゃあ交換!」と卯ノ花さんも鞄を漁る。
やがて出てきたのは、近所で有名なセレモニーホールの優待券だった。
「卯ノ花セレモニー……?」
「お葬儀屋さんだよ。兎楽々ちゃんのお家はすごく大きなセレモニーホールを経営しててね」
愛色さんが補足してくれるが、僕と星蓮はなおさら返事に詰まる。優待券をもらっても、今のところ僕らに葬儀の予定はない。
だが家業と聞いてしまった手前、突き返すのも難しく、使う予定のない香水よりは可能性があるかもしれないと思ったのか、星蓮はその交換に応じた。
飛び跳ねる卯ノ花さんの横で、「悪いな愛色、折角くれたのに」と星蓮がフォローを入れる。
「いいよー、あげた時点で星蓮君のものだから。こっちこそごめんね、気を使わせちゃって。クッキーはありがたくお昼にいただくね」
「おう、感想よろしくな」
会話は穏やかに締めくくられて、星蓮のクッキーは、香水からセレモニーホールの優待券へと姿を変えて行った。