第六夜┊九「新たな伝承」
封じられた九尾の狐は、いつの間にか青年の姿を取っていた。
口元だけを覆う狐面に、毛並みと同じ白金の髪。
身に纏う絹の羽織や袴はいかにも高級そうな光沢を放っていたけれど、首元にはその厳かな雰囲気に似つかわしくない、山羊毛のマフラーが幾重にも巻き付けられている。手作り感のあるそれは、老母が編んでくれたというものだろうか。
「神の御座無し神社ではあるが、神使として勤めよう。……私はいつでもここで待つ。困り事があれば頼るが良い」
改めて誓約するように、九尾が僕に語り掛けてくれる。
山上で聞いた時と同じ、落ち着いた静かな声だった。
そんな僕らの背後でぼそりと「願い事、『キッチン直して』って言っとけば良かったんじゃ」と呟く星蓮にハッとしたけれど、そんなことをいまさら付け足すのも決まりが悪い。
それにお願いしなくても、これで当初の予定通り、キッチンは修理してもらえるはずだし。
「願われたところで、壊れた物は私には直せぬ。しかし私と縁を結んだからには、近々吉事があるだろう」
吉事って何? とこっそり星蓮に尋ねると、「良い事」と端的な答えが返ってくる。なるほど。近々良い事が起こると言われると、やっぱり嬉しいものだ。
どんな良いことがあるのかなと夢想して頬を緩ませる僕の横から、「吉事を呼ぶ神獣の神使、神社としては願ったり叶ったりですね」と小一時間ぶりに聞く声がして、僕らは三人とも固まった。
忘れていたけれど、僕らは無許可で若宮さんの神社に神獣を宿してしまったのだった。
「よう、遅かったな家出宮司」
「……肇さんと楽しくお喋りできたようでなによりです」
面のような笑顔を向けられて、雛遊先生がさっと顔を背ける。「家出」という言葉に思うところがあったのだろう。若宮さんの身の上を勝手に語ってしまったことに、少なからず負い目を感じているようだ。
「あの、すみません。許可なく神社に九尾の狐を……」
「構いませんよ。よく働いてくれそうでなによりです。それにここは万年人手不足でしたから、私としても助かります」
神様専門の祓い屋と聞いたばかりだったから、なんて言われるかドキドキしていたけれど、拍子抜けするほどいつも通りの若宮さんだった。
やっぱり、そんなに恐ろしい人には思えないんだけどな、と独り言つ。
他人の手で寮室に勝手に怪異を増やされて、しかもそれを事後報告されたら、少なくとも星蓮は激怒するだろう。僕だってちょっと嫌かもしれない。
そう考えれば、若宮さんっていつもなかなかに寛容な対応をしてくれているんじゃないかと思う。
そんな僕の脳内会議をよそに、若宮さんは「良かったですね、肇さん」と顔を背け続ける雛遊先生を見やった。
「なにがですか」
「『いい加減、式神の一つでも用意したらどうですか!』でしたっけ。ほら、これで式神の用意もできました」
「お、お前、神獣を伝書鳩扱いするつもりか!?」
呼び出した時の文句を空で繰り返す若宮さんに、雛遊先生はみるみる青くなって「絶対に俺のところには送るなよ」と念を押す。今更だけど、二人は本当に旧友だったらしい。
学校では物腰の柔らかさで評判の雛遊先生が、若宮さんの前ではたびたび口調も態度も崩れているのを、今日だけで何度目撃したことか。
「先生って、本当は『俺』って言うんですね……」
躊躇いがちに投げ掛けた僕の言葉に、雛遊先生がぐるりと振り返る。声を上げる間もなく両肩を掴まれて、「違います小手鞠君。私は品行方正な国語教師です。どうか今日のことは悪い夢だと思って忘れてください」と据わった目で言い切ると、そのまま僕の両肩を揺さぶった。
別に一人称が「私」から「俺」に変わったところで品行方正さは失われないが、残念ながらその他の言動は品行方正とは言い難い。
「品行方正な国語教師は生徒をそんな風に揺らさねーよ」
ぐわんぐわんと前後に揺すられて目を回している僕を、星蓮が先生から引き剥がしてくれる。よかった、もう少しで中身が出るところだった。
問題の発端でありながら、わちゃわちゃと言い合いをしている僕らを他人事のように無視して九尾の狐を検分していた若宮さんだが、「ああそうだ」と何かを思い出したように改まって僕らへと向き直る。
「当人が望んだこととはいえ、腐っても三大怪異。九尾の狐を封じた件について、人議が開かれるでしょう。功労者の君たちもぜひご参加を。人魚の肉には劣りますが、そこそこの料理が振る舞われますよ」
「ひとはかり? そういえば、七番籤にも書いてありましたね」
七番籤という単語に、若宮さんの口角が上がり、反対に雛遊先生の顔が顰められた。
「人議自体はただの退屈な会議です。祓い屋の代表が集まって、今後の方針などを決める戦略会議のようなものとでも思っておいてください。ただ、そこへ出席できる者は限られていましてね。ほとんどの招待客は、人議を名目に、会議室の外で飲み食いするだけの賑やかな宴会ですよ」
若宮さんの説明に合わせて、雛遊先生がアンティーク調の鍵を取り出して見せてくれる。どこかの錠に差し込むようなものではなく、鍵をかたどっただけのインテリアのようだ。真鍮の鍵には、「Ⅹ」の文字と西洋風の天秤があしらわれている。
「人議の出席者は、それぞれこういった鍵を持っています。神が認めた者に与えると謂われていますが、真偽の程は定かではありません。鍵は譲渡も奪取も認可されていて、その時の持ち主こそが出席者というルールで成り立っています」
「じゃあ、おまえからそれを奪い取れば、俺もその会議に出られるわけだ」
「そういうことになりますね」
雛遊先生は苦笑しながら「綾取さんも言った通り、怪異や神々に対する方策を決定する場でありながら、その実情は混沌としています。鍵を奪って参加したところで面白くないですよ」と答えてくれる。正面の若宮さんが、平べったい目で取り出された鍵を見つめた。
「あなた、いつもそれを持ち歩いているんですか」
「ええ勿論……。え、持ち歩いていないんですか?」
「そんな骨董品、人議以外で使う場所もないでしょう」
「いや、だからこれを盗まれでもしたら会議の参加権に関わるんですよ」
「あんな退屈な会議、他人に任せられるならそれに越したことはないでしょう。今回は用があるので参加しますが、鍵を欲しがるほど熱心な参加者が現れたら、私の鍵をお譲りしますから教えてください」
「何てことを言うんですか……」と頭を抱える雛遊先生をよそに、「そういえば、それに似たような形のものを見たことがあるな」と星蓮がポケットを漁る。
やがて取り出されたのは、雛遊先生が見せているものと何ら変わらない、シルバーブロンズの鍵だった。持ち手の装飾だけが異なっており、泳ぐ魚のモチーフと「Ⅲ」の文字があしらわれている。
「第三席……、魚座の鍵ですね。長らく空席だったはずですが……」
「一体どこでこれを?」
「こいつに俺の肉を喰わせた時かな。目の前でこれ見よがしに光ってたから、とりあえず貰っておいた」
「あの巨大なナマズの怪異のときの?」
「僕」が再起不能な傷を負ったときのものだろう。
当の僕は意識がなかったのでまったく知らなかったが……。
若宮さんと雛遊先生は興味深そうにその鍵を眺めて、顔を見合わせた。
「肇さん、これまで怪異が人議の出席者に認められた例はありましたっけ」
「前代未聞ですが、小手鞠君を助けた瞬間ということですから、人間の味方であると神が判断したのでしょうか」
「そもそも、この鍵の管理者が本当に神なのかどうかも怪しいものですけれどね。神だとして一体どこに祀り上げられた神格なのやら。まさか土地神じゃないでしょうね」
土地神という言葉に、僕と星蓮がそれぞれ微かな反応を寄せる。
僕らにしてみれば切っても切れない縁だ。無反応で聞ける話ではない。
「若宮さんは、土地神様をご存知なんですよね?」
「ここ一帯の界隈の中で、存在を知らない者はいませんよ。もっとも、信仰しているかどうかは別問題ですが」
口ぶりからして、若宮さんは土地神様の存在は知っているものの、信仰しているわけではないようだ。いつか土地神様を喰おうとしている星蓮が「珍しく気が合うな」と口の端を上げた。
「雛遊先生も土地神様を信仰していないんですか?」
「申し訳ありません。私の席次は天秤座、絶対中立の立ち場ですから、私的なコメントは差し控えさせていただければと……」
困ったように眉を下げる。こちらもどうやら、積極的に信仰しているわけではないらしい。
黙りこくる雛遊先生の代わりに、若宮さんが苦々しげに口を開いた。
「土地神なんて名前がついてますが、生贄を求めて人を喰うものを、私は神とは呼びません。土地神を信仰しているのは檻紙家くらいのものでしょう。檻紙の血は、昔から怪異にひどく好まれる。あの家は代々、生贄として土地神に当主の命を差し出してきました。しかし、檻紙の犠牲の元に成り立つ平和など、認められるものではありません」
若宮さんが言葉を切って、隣で口を閉ざしている雛遊先生に宣告するように睨め上げる。紅い瞳がぎらりと挑戦的な光を放った。
「九尾の狐の件で発言権も得ましたし、今回の人議では土地神の討伐を議題に挙げます」
息を呑んだのは、雛遊先生だけではなかった。
思わぬ宣告に星蓮と僕も固唾を吞む中で、「今回、九尾にこだわっていたのはそのせいですか……」と雛遊先生が額に手をやる。
「その議題を挙げるための功績、そのための人議ということですね。会議なんて興味もないくせに、今回に限ってどうして籤を使ってまで私に人議の日時を尋ねるのかと疑問に思ってはいましたが……」
「別に功績なんかなくても、その鍵を持っていれば会議に参加はできるんだろ?」
「参加権はあるのですが、開催日時を教えていただけないんですよ。私は人議の主催代理と折り合いが悪くてね」
「おまえ、本当に全方位から嫌われてるのな」
容赦のない言葉に若宮さんが苦笑する。
確かに、九尾の狐を封じた功労者ともなれば、その主催代理とやらも若宮さんを呼ばないわけにはいかないのだろう。
そういう意味では、九尾の狐が若宮神社に宿されることまで、若宮さんの計算のうちだったのかもしれない。
「私が皆さんから嫌われているのは確かですが、主催代理はことさら私を憎んでいましてね。……肇さんから聞いたでしょう。その人とは家業の後継者争いをしているんですよ。私はとうの昔に候補から降りたというのに」
じゃあ、人議の主催代理というのは、雛遊先生が言っていた、「綾取家の当主代理」と同じ人なのだろうか。
手元にある情報が少ないのもあるが、当主代理、主催代理と聞くと……。
「そいつもそいつで、どこでも代理ばかりだな」
心の中の声を、星蓮が代読してくれる。
話を聞いている限り、その人も代理になりたくてなっているわけではないらしいから、なんだか複雑だ。
「ええ。楽師、綾取家当主代理、人議主催代理……。肩書きは様々ですが、どれも一人を指すものです」
働き者ですよね、と言って若宮さんが肩を竦める。
一つだけ、今初めて聞いた肩書きがあった気がしたが。
楽師というからには、楽器を演奏する人なのだろうか。
あれこれ代理を担っているから、書類仕事に長けた弁護士みたいな人をイメージしていたが、その一言が加わったせいで急に人物像が揺らいでしまった。
「件の火災で、我々は多くの優秀な人材を一度に失いました。それでも三家が面子を保てているのは、彼女がいろんな不在の穴を埋めてくれているからでしょう」
「えっ、彼女?」
当主代理というから、てっきり男の人かと思っていたけれど。
さらに人物像がわからなくなってしまって尋ね返す僕に、若宮さんは「ええ、双子の妹なんです」とあっさり告げた。
「「ふ、双子!?」」と僕と星蓮の声が綺麗な二重奏を奏でる。
「おまえみたいな奴がもう一人いるなんて、想像したくないな……」
「ふふ。期待に添えなくて残念ですが、二卵性双生児ですので、ちっとも似ていないんですよ」
「あなたが家出なんてしているから、綾取家の跡継ぎ問題が終わらないんです。あの人も忙しい身分でしょうに……」
雛遊先生はどちらかといえば妹さん派のようで、その当主代理さんを擁護すると、若宮さんに恨みがましい視線を向けた。
「失礼ですね。私はきちんと戸籍を外れるために必要な手続きを踏んで、面倒な事務処理も済ませたというのに。きっと反対する誰かが書類を捨ててしまったんでしょう。あんな手続きを二度も踏むなんて、私だって御免です」
「おまえたちの兄妹喧嘩は知ったことじゃないが、そんなに気難しい奴なら、鍵を持ってたところで俺みたいな怪異を人間の会議には入れてくれないよな? おまえたちの方針とやらはともかく、土地神の討伐については話を聞きたい」
「彼女は気難しいというか……、いえ、確かに気易しくはありませんが……」
雛遊先生が言葉を濁す。その続きを引き取るように、若宮さんが「彼女は私と違って、丁寧で、繊細で、美しい人ですよ」と答えた。付け加えて、「彼女にないのは、男を見る目くらいでしょうか」と雛遊先生を見る。
当の本人は全く素知らぬ様子で「そうなんですか? あの人が悪い男に引っ掛かったなんて話は聞いたことがありませんが」と素直に驚いた表情を見せていた。なるほど、脈ナシらしい。
「参加の意思があるようでなにより。鍵さえあれば彼女は入場を拒めないでしょう。その辺りの仕事はしっかりしている人ですから、どうぞ安心してください」
その「仕事がしっかりしている」という主催代理に、憎まれているという理由で開催日時を教えてもらえない前例が目の前にいるのだが。
僕らは不安な気持ちを抱えつつも、前例本人を前にそれを口にすることはさすがに憚られて、口を閉ざした。
✤
もう夜も遅いからと、肇さんが二人を引き取って帰って行った。
教師と一緒ならば、門限を破ったことについてもとやかく言われることはないだろう。
さきほどまで賑やかだった境内は、人気を失って虫の声ひとつしない。
静かな社で会話が終わるのを座して待っていた九尾の狐が、許可を求めるように「宮司殿」と仮初めの肩書きを呼んだ。
「あなたが賢い神使で助かりました」
「余計な世話だったかと心配したが、その様子ならば間違っていなかったようだな」
パチン、と九尾が指を鳴らすと、本堂を覆っていた妖術が解ける。
途端に漂う、咽せ返るような甘い甘い花の香りは、頬に描かれた隈取りよりも遥かに濃い。九尾が機転を利かせて本堂を覆い隠していなければ、あの好奇心旺盛な少年たちはこの扉を開けていたかもしれなかった。
「中の《お嬢さん》にもご挨拶を?」と尋ねる九尾に、必要ありませんよと答えて、施錠された扉に手を掛ける。
開かれた本堂の中には、異様な光景が広がっていた。
三面の壁一帯には、所狭しと護符が貼り付けられている。厚みが出るほど貼り重ねられたその中の何枚かは、既に剥がれて紙吹雪のように宙を舞っていた。
怖気立つほど無数の鎖に繋がれて、一人の女が中央で両腕を吊られている。
女を囲うように、四つの燭台がそれぞれ宙に浮かんで、異なる高さで炎を揺らめかせた。
少女と女性の間のようなその女は、伏せていた瞼を開いて来客を見やる。
藤色の冷たい視線が一身に注がれるが、扉を開いたのが狼藉者ではなくこの若宮の主だと知ると、その帰還を喜ぶように柔く微笑んだ。
「もうじき人議が開かれます。お披露目が終われば、あなたは新たな伝承を手にするでしょう」
その身に力を集めれば、きっと誰も太刀打ちできないほどに強大な力を手にできる。
——あの土地神さえも超越する力を。
「やっとあなたを自由にしてあげられますね、千鶴さん」
名を呼ばれて、彼女を繋ぐ鎖がじゃらりと揺れる。
燭台の光に妖しく照らし出されて、女の口元がゆったりと弧を描いていった。
【読者様へのお願い】
「良かった」「続きを読みたい」と思っていただけましたら、フォローやブックマーク、広告の下にある「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」にして応援いただけると大変励みになります。
皆様の暖かい応援に日々救われています。
よろしくお願いいたします!