第六夜┊八「吉兆の神獣と業火の車輪」
人に乞い願われて、私は生まれた。
瑞獣は、吉兆の証。
ただ見かけるだけで良いことが起こるとされ、危険も見返りもなく幸福を授ける、九尾の狐。
それが本来の、私自身が作り上げた伝承であった。
人に願われ、人に慶ばれる私は、昔から人が好きだった。
人に愛されるのが好きだった。
私は人々に願われるまま天を駆け、雨を恵み、作物を実らせた。
ふらりと気まぐれに現れた先々で、私は人々に歓迎され、あらゆる慶次をもたらした。
多くの人間が飢えと渇きから救われ、難病が治り、子宝に恵まれた。
見返りなどなくとも、人々の感謝と喜悦の声が、私の心と腹を満たした。
私は、それだけで満足だったのだ。
私はまたたく間に信仰を集め、九つの尾を持つ瑞獣の噂は、都を駆け巡るように広がっていった。
やがてその噂は、帝の耳にも届くことになる。
帝は霊験あらたかな力を持つ者を寄せ集めて、私を喚び出した。
召喚に応じ、対話するため女人の姿を取った私に、帝は愛を唄い、花を渡し、詩で口説いた。
私は彼の助けになれるのならばと、求められるままに頭を働かせ、吉事をもたらし、帝に敵対するものを失墜させるための策略を練った。
私は己の行動を、人と交流し、愛し愛されるためのものなのだと、人のために尽くすことが瑞獣として在るべき姿なのだと信じてやまなかった。
帝が、周囲が慶んでくれることが、私の世界の全てであった。
けれど彼の行動は、すべて私の力欲しさゆえであった。
瑞獣の絶大な支援を受け、やがて帝は都を掌握した。
人の頂点に立った帝は態度を翻し、用済みとなった私は驚くほどあっさりと捨てられた。
それだけでは済まず、帝はこの力が他の者に渡ることを恐れ、命からがら都から逃げ果せた私に、多くの祓い屋を差し向けた。
人間たちは執拗に私を追い掛け回し、矢で射抜き、槍で突き、刀で刺した。
三度目になる戦で、数多の矢に射抜かれて、長き戦いに心身ともに耗弱した私はとうとう石へと封じられた。
曰く、「狐は人を誑かす」「帝の乱心は狐のせいだ」と。
人々の口伝によって、私の伝承は書き換えられた。
——女人に化けて帝を誑かす、狡猾ですばしこい、不幸と病を招く九尾の狐。
石にされた私は、傷の癒えぬまま苦痛と懺悔にまみれた永年を過ごした。
……私はただ、人の役に立とうと、人に慶んで貰えればと、それだけを願っていたのに。
誑かされていたのは、果たしてどちらだったのだろうか。
✤
長い月日を経て、私の元を訪れた者がいた。
その者の真意は判らなかったが、彼は私の封印を解くと、滔々と持論を語った。
彼は私が復讐に溺れ、人々を喰い散らかすことを望んでいるようだった。
しかし私は、その者の言葉に耳を貸さなかった。
確かに私は人の欲につけこまれたが、それはひとえに己の未熟さゆえ。私が人の心を理解していなかったから起きたこと。
とうに帝は失脚し、既にこの世を去っている。今更その子孫と争う気など毛頭ない。私はその場を立ち去った。
私は疲れていた。幾千年前に負った傷は、今も癒えることなく全身を覆っている。
その上、私の脱走を知った今代の祓い屋たちは、すぐに私を追ってきた。
新たな傷を幾重にも上塗りし続けながら、私は小さな村へと逃げ延びた。
人目を振り切り、なんとか追手を撒いたものの、もはや変化する力さえ残っておらず、私はついに山の奥で力尽きた。
信仰を失い、腹を満たすことのできなくなった私は、ただただ弱り行くだけだった。
そんな私のそばを、一組の老夫婦が通り掛かった。
夜道の森は暗く、狭い道を踏み外せば、その下は底の見えぬ奈落であった。
こんな夜更けに押し通るような道ではない。近隣に住まう者ならば、この道が如何に危険かよくわかっていただろうに。
しかし彼らは引き返さなかった。
とおりゃんせ、とおりゃんせ、と彼らが唄い、震える足で夜道を進み行く。
「この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります」
子がいるのか、と薄れゆく意識の中で彼らの境遇を思った。
かつて幾つもの難産から子宝を授けた身だが、医者の足りぬ山奥の小村では、神の加護なく子供が七つまで育つのは奇跡に近い。
孫か、それとも預かった子か。家で待つ幼子のため、危険を顧みず夜道を進む彼らへ、死ぬ前になにか手助けがしてやりたかった。
私は彼らが道を踏み外さぬよう、点々と狐火を灯した。
青白い狐火は、灯せば足元を照らしてはくれるが、力を持った仙狐が近くにいることを知らしめてしまう。
伝承は書き換えられ、九尾の狐は今や瑞獣ですらない。
私は人々を愛していたが、いつの間にか人々に慶ばれる存在ではなくなっていた。
今の私は祓い屋どもに追われる身。彼らが然るべき場所に通報したなら、今度こそ命を落とすだろう。
けれど彼らは、その明かりに慶んで涙を流し、しきりに天へ謝辞を述べた。札を納めてすぐに私を見つけると、その有様に驚きながらも、近くで水を汲み、私に手当てを施した。
持っていた軟膏を全て私の傷に塗りたくり、追加の薬草を探して休む間もなく森を歩き回り始めた。
彼らは、夜の森に横たわる獣を悪しきものとして排することなく、温かい腕の中へと迎え入れてくれた。
そうして彼らが運んだ水が私の喉を潤し、彼らの感謝が、私の腹を満たした。
私は再び、人と親交を結んだのだ。
彼らの元で、私は少しずつ傷を癒やし、吉兆の伝承を取り戻していった。
昔に比べればささやかなものだったが、彼らが育てた作物は豊富に実を付け、子は健やかに育っていった。
私は彼らに何も言わなかったが、伝え聞く九尾の狐の話と実際の私の違いを知って、思うところがあったのだろう。「辛かったね」と老父が寄り添い、秋が深まると、老母が手編みのマフラーを私に巻いてくれた。
「ここが君の、安寧の地になることを祈っているよ」
二人の温かい手が、私の毛並みを撫でる。
荒屋の外では、秋の終わりを告げる冷たい風が吹き始め、赤や黄に染まっていた木々は徐々にその葉を落としていく。冬の気配がゆるやかに近付いていた。
✤
老夫婦の家は、村からかなり外れた場所にあった。
余所者らしい彼らは、山小屋を借りて住まわしてもらっているらしい。
裏手に造られた畑はさほど大きくなく、吉兆の力があってもそこで育つものだけで食い繋ぐのは無理があった。
老夫婦はあまり足が良くない。彼らには家から離れぬように言いつけ、私は青年の姿をとってはたびたび村へと出向き、米や鶏を買って戻った。
人の姿を借りていても、吉兆の力を取り戻しつつある私が瑞獣であることに変わりはない。
私が訪れ、買い付けのために会話を交わしたものたちには、後日それなりにいいことがあったようで、村での評判は鰻登りだった。
「おお、あんたか! 先週はあんたが買っていってくれたおかげで、あれからワカサギが大漁だったよ」
「今日は良い里芋があるぞ。魚屋ばかりじゃなくてうちにも寄っていってくれ」
「ほら、そろそろ米がなくなるんだろう。少し多めに入れておいたが、冬を越す前にまた来るんだよ」
「あんな村外れに住んでいないで、こっちに移り住んだらどうだい」
「有難い申し出だが、私は今の生活に満足している」
和やかに会話を締めくくり、私はいつも両手に抱え切れないほどの食材と反物を持って、村外れの荒屋へと帰る。その頻度は週に一度から月に一度とまばらではあったが、秋の間は彼らの畑が十分に実っていたことと、備蓄が十分であったこと、季節外れの雨が長く続いたことから足が遠のいていた。
本来ならば、もっと早く冬を越す準備をするべきだったのだが、私が再び村へと足を踏み入れたのは、それから二月が経ってからだった。
村は、変わり果てていた。
小さいながらも活気のあったはずの村はすっかり寂れ、手入れのされていないトタンがばたばたと風に煽られて、けたたましい音を立てている。
露店が並んでいた通りにも、人の気配はない。代わりにぽつぽつと、野生動物に食い散らかされたような腐肉が落ちていた。肉を口にしたらしい犬も、小路の先で斃れて蝿がたかっている。
村中に死臭が漂い、通りには動かなくなった人々が横たわっていた。
疫病が村を襲ったのだ。
私は絶望的な気持ちで村を歩いた。
そこかしこで聞こえるのは、苦しむ人々のうめき声ばかり。
そして道の先には、腐り切った死体を拾い集めながら進む、火車の姿があった。
「なぜ……、なぜ貴様がいる。この者たちは生前よく働き、病に臥せ、その末に亡くなったのだ。なぜこの者たちを地獄へ連れて行こうとする」
「自分の耳で直接聞いて回ると良い。まだ息のある者がいよう」
火車は焦げた轍を道に残しながら、村を進んでいく。
地獄などに連れて行かれてたまるものかと追い掛けようとした私の足を、誰かが弱々しく掴んだ。
「貴様は……、野菜売りの」
「どうして……、どうして奴らばかり……。ゴホッ、私にだって、子がいたのに……!」
すっかり痩せ細り、髪の抜け落ちた男は、しわがれた声で私を糾弾した。
妬ましい、妬ましいと繰り返しながら息絶えた彼の言葉で、私は全てを悟った。
彼らは、私が瑞獣であることに気付いたのだ。
そして村に留め置こうと、あの老夫婦がいなくなりさえすれば私が村に移り住むと思って、あの老夫婦を呪ったのだろう。
——人を呪わば、穴二つ。
神も怪異も視えぬような者たちが半端な知識で行えるほど、呪いは簡単なものではない。
まして老夫婦のそばには、私がいた。
気付かぬうちに呪いは跳ね返され、村人たちは自分たちが送った呪いをそのまま受けることになった。
彼らはこんな風に、あの老夫婦と子供が病に侵され、苦しんで死ぬことを望んでいたのだ!
もはや助かる見込みのない村人たちを前に、私は苦渋の決断を下した。
彼らの苦しみを長引かせるよりも、楽にしてやる方が慈悲深いと。
痛みにのたうち、終わらぬ苦しみにもがき、しかし体が動かぬ事がどれだけ悲惨で恐ろしいことか、石にされた私はよく知っている。
彼らは助からぬ。……助けられぬ。
この惨状を放置すれば、疫病は風に乗ってどこまでも広がり続けるだろう。
苦しむ者たちは変わり果てた姿をしていたが、中には世話になった顔も、見知った顔もある。
来世では、どうか幸福な人生を。
そう願いながら、私は息のある者を一人一人、介錯して回った。
そして最後、私は村に火を放った。
怪異に燃やされたと知れば、祓い屋連中から幾らかの見舞い金も出るだろう。
焼き払われた森がいずれまた芽吹き、木々のさざめきを取り戻していくように、ここにもまた新たな村が興されるかもしれない。
神々にしてみれば、人の時間などその程度のものだ。
多少崩れたところで、少しばかり手直ししてやれば、あとは勝手に修復されていく。
ああ、けれど私は人が好きだった。
人と永く連れ添い過ぎた。
新たに生まれ変わっても、それが元の村とは違うことを、あの人間たちは二度と帰ってこないのだということを、私は知ってしまった。
私は山小屋の前に、冬を越せるだけの食料を置いて去った。
恩を仇で返すことになった私には、世話になった彼らに合わせる顔がなかった。
それに、私がそばにいることで、またこうして争いの種となってしまうかもしれない。
私は、人に近寄るのをやめた。
何が吉兆の証しか。なにが神獣か。
病に侵された村一つ救えず、私に何の価値があろうか。
私がいるから、人々は欲に溺れて争い始めるのだ。
そうでなければ、あの都も、あの村も、平和で穏やかな場所であっただろうに。
私が村を去った後も、火車は私を追いかけた。それを突き放す気力さえなかった。
否、誰かにそばにいて欲しかったのかもしれない。私は火車を突き放せずにいた。
私の後悔と自責の念は、火車にとって絶好の餌だっただろう。火車は私に囁き続けた。
「お前の力は危険だ」「人々を助けようとしても、結局は傷つけてしまう」「孤独こそがお前にふさわしい」「人など親交を深めるものではない」「喰ってしまえ」「喰ってしまえ!」
火車がそういう怪異であることは判っている。しかしその言葉はあながち嘘ではないのではないか。
私は人と連れ添い、幾度失敗してきただろうか。国を傾け、封印から逃れて尚、村を一つ滅ぼした。
人々の口伝の通り、私は凶兆の獣なのではないだろうか。一時的に富を与え、あとからその何倍もの不幸をもたらす怪異なのでは。私はもう、零落してしまったのではないだろうか。
火車の言葉は、私の心を徐々に蝕んでいった。
✤
人に願われ、人に慶ばれる私は、昔から人が好きだった。
人に愛されるのが好きだった。
だから私は、もう人とは交わらぬ。
この身に背負った罪を濯ぎ、貴様らの手で祓われよう。
私はもう、私の力を求めて誰かが争うのは見たくない。
そう願った先で、少年らは私に新たな社へ宿れという。
——ひどく歪な、神の祀られぬ小さな若宮。
ここに巣食うものが何なのか、ここを建てたものが何を願ったのか、私は既に識っている。
だが、貴様は私に大切な花を譲ってくれた。ゆえに貴様の願いを聞こう。
貴様がここに住まう者たちの幸福を願うなら、ささやかながらその手助けを。
貴様が襲い来る怪異たちを恐れるのなら、その身を守る約束を。
貴様がその憐れな身の上を嘆くなら、来る運命からの解放を。
尋ねる私に、少年は困ったように私を見上げて、「どれもいらないです」と答えた。
「僕の望みは、あなたがここで安らかな日々を送ってくれることです」
——ここが君の、安寧の地になることを祈っているよ。
少年の言葉は、あの日の老父の願いと変わらなかった。
私が人々の幸福と慶びを求めるように、人々は私の安寧と休息を望んでくれる。
私はもう一度、人と交わっても良いのだろうか。
今度こそ、私は貴様らに変わらぬ慶びをもたらすことが出来るだろうか。
躊躇する私に「あ、でも、ここに住んでる人たちの幸福はちょっぴり願ってるかも」と付け足して、少年ははにかむように笑った。
「……承った」
自分の意思で誰かに付き従いはしてもずっと自由の身ではあった私が、少年に頭を垂れ、従属の儀式に手を触れる。
こうして私は、若宮神社に宿された。