第六夜┊七「誰が為に祓い、封じるのか」
茹だる暑さと蝉の声が頭を掻き乱す、そんな夏の日の夕暮れ時のことでした。
当時、私には可愛がっていた猫がいました。
出会った当時、その猫はダンボールに入れられた、典型的な捨て猫でした。
子猫というにはやや大きく、貰い手が付かなかったのでしょう。うちはペット厳禁だったので、近所の祠の影でこっそりと飼うことにしたのです。
二年ほど過ぎた頃でしょうか。
猫はすっかり懐き、愛らしく擦り寄ってくる姿に、私たちも幸せを感じながら日々接していました。
彼女は雌猫だったのですが、野良同然だったのでいつの間にか腹がふくれていました。もうじき子猫が生まれるのだと、それはそれは楽しみにしていたのです。
そんなある日の、学校からの帰り道。
いつものように世話をしに行った先で私たちが見たものは、血まみれの麻袋と、無惨に転がる死体でした。
可愛がっていた猫の変わり果てた姿に、まだ幼かった私は、呆然と立ち尽くすしかありませんでした。
それが、先日のお披露目で私に敗北した者たちの仕業であることは判っていましたが、既に失われてしまった命を前に、私にはどうすることもできませんでした。
可哀想に、一緒に世話をしていた妹は、あまりのショックに暫く寝込んでしまいました。
だから私は、その猫を一人で埋葬することにしたのです。
猫を飼っていたことは内緒でしたから、埋葬してやろうにも土を掘る道具がない。弓や剣ならいざ知らず、私がスコップなんてものを身内に強請るのは、あまりに不自然でしたから、仕方なく手で掘ることにしました。
祠のそばの土は固く、子供の爪では石に負けて、すぐにボロボロになりました。
それでも構わず続けていると、やがて爪が何枚か剥がれていく感覚があり、このままでは弓さえ引けなくなってしまうだろうということを、熱に浮かされた頭の片隅でぼんやりと察していました。
しかし、掘り進めるうちに、私は自分がわからなくなってしまったのです。
私は、なんのために弓を引くのでしょうか。
私は、誰を守るために弓を引くのでしょうか。
綾取は、三家の中で最も慈悲のない家門。
怪異は出会せば殺す。見かけたら殺す。疑わしきは殺す。
情状酌量の文字はなく、怪異の善悪など論ずるに値しない。
一瞬の迷いが、多くの人の死を招いてしまうから。
けれど、こんな仕打ちをする者たちを脅威から守るために、弓を引く必要があるのでしょうか。弱者を慈しむことのできない彼らこそ、怪異に袋叩きにされて然るべきではないのでしょうか。
世の中に、どうしようもなく愚かな者たちがいるのはわかっています。生かすに値しないような人間でも、私たちは守らねばなりません。罪人を裁くのは司法の仕事であり、私たちの仕事は、目の前の人間を怪異から救ってやることなのですから。
——そう、私は救ってやらねばならなかった。
私を妬んで、こんな小さな命に手を出した、彼らを。
手足をもがれ、何度も叩きつけられ、はらわたと共に子猫たちを撒き散らし、恨み辛みで怪異となってしまった、哀れな母猫の怪異から。
私は、加害者を守ってやらねばならなかったのです。
怪異となってしまった愛猫に矢を向けながら、私は自分を見失ってしまいそうでした。
祟りに対抗するには、心を強く保たないといけません。
どれほど強大な怪異でも、心が弱っていれば付け入られてしまいます。
私はいつも祟るものを相手にしますから、常に心を正しく保たねばなりません。そのすべも、きちんと心得ていたつもりでした。
けれどその日、私の心は揺らいでしまいました。
こんな卑劣なやり方で命を奪われた、母猫の怒りはもっともです。
どれだけ苦しかったことでしょう。
どれだけ悔しかったことでしょう。
私は、その祟りを受け入れてやるべきではないのでしょうか。
綾取家は祓い屋の先鋒。他の人間たちは家門のもと守ってやらねばなりませんが、その対象に自分まで含めなくとも良いのではないでしょうか。
仇を、討たせてやるべきではないでしょうか。
私がその祟りを受け入れようと、手を伸ばしかけた時。
——しゃらん、とどこかで神楽鈴の鳴る音がしました。
✤
「……」
失っていた意識を取り戻して、最初に五体を確認する。手足が問題なくくっついていることを確かめて、思わず息が漏れた。
束ねられていたはずの黒髪が戒めを失って、ぱさりと肩に掛かる。紙紐が限界を迎えたのだろう。どうやら、結界が最後の仕事をしてくれたらしい。
破魔矢で射抜かれた火車は祓われ、山林は完全に浄化されていた。
しかしあの程度の怪異に心を覗かれるなど、つくづく私はあの手の動物妖怪と相性が悪いようだ。
結界がなかったら、私は火車に道連れにされていたかもしれない。
「また、あなたに救われましたね」
真っ二つに裂けて、散らばっていた紙紐を拾い上げる。
「おりがみ」と平仮名で大きく名を書かれただけの紙が、あれだけの結界を張っていたなんて誰が想像し得るだろうか。
まだ「お」と「あ」がうまく書き分けられない彼女の字は、ぱっと見「おりがみ」ではなく「あいかゐ」だったが。呪印を刻むどころか、己の名前すら正しく書けていないというのに、その効力は絶大だった。
今朝も、私の隈取りを書くのだと張り切っていた《彼女》が、はみ出したその血で私の着物を大いに汚してしまったことを思い出して、くすりと笑う。
……さあ、そろそろ《彼女》のもとに帰らなくては。
よろめく身体をなんとか支えて息を吐く。また、返さねばならない恩が増えてしまった。
借りた恩を返すまで、私は死んでも死にきれない。
それに今頃、九尾の狐を相手に奮闘しているであろう彼らの前に、弱った姿を見せるわけにもいかない。
「手伝う元気はありませんから、私が着くまでに片付けておいてくださいね、肇さん」
手前勝手な独り言を呟いて、一人笑いながら、私は清らかな空気に満ち溢れている山道を下っていった。
✤
「……なんかムカつく気配がしたな」
山を駆け下りる雛遊先生から「チッ」と舌を打つ音が聞こえた気がしたが、僕は全力で聞こえないふりをした。
僕は今、雛遊先生に担がれている。
火車の断末魔から幾許もしないうちに、狐の遠吠えが聞こえたからだ。
野生の動物の声ではない。高らかで気高い遠吠えは、明らかに九尾の狐のものだった。
愛色さんと管狐がいれば、その遠吠えの意味も通訳してもらえただろうが、残念ながらこの場の三人とも、その意味を読み解くことはできなかった。
結果、僕らはそれを「急かされている」と判断して、今に至る。
「一般的には、狐の遠吠えは仲間に危険を知らせるものだけどな」
「その『仲間』が我々を指しているならまだしも、そうでない可能性がある限り、やはり急いだ方が良いでしょうね」
「でも、もし僕らを指していたなら、若宮さんに何かあったってことじゃないんですか?」
「残酷な言い方をしますが、あの人に何かあったなら、私達が行っても手遅れです。祓い屋は人々を怪異から守るためのもの。私一人なら確かめに行ったかもしれませんが、君たちを連れて危険は犯せません」
毅然と返されて、僕らはそれ以上なにも言うことができず、山を急ぎ下ることになった。
ちなみに、なんで僕が担がれているのかという疑問については、僕が先日の持久走でどれだけ惨めな姿を晒したのかを思い出してもらえれば、納得してもらえると思う。
「全く、封具もなし、依り代もなし。こんな状態で私に神格の封印を任せたんですから、後で怒らないでくださいね!」
雛遊先生が山上に向かって叫びながら駆け下りた先は、僕もよく知る白い社だった。
十年前に建てられた、死者を斎い込めるための若宮。
神の祀られていない、御座なしの神社。
「なあ、冗談だろ。ここに九尾を降ろす気かよ。怒られるどころじゃ済まないぞ」
自分の持ち家ならぬ持ち神社に、勝手に神獣を封じたと知ったら、若宮さんはどう思うのだろうか。
僕は怒られたことがないのでいまいちピンとこなかったが、星蓮は「お、俺は知らないからな」と雛遊先生から一歩後ずさった。
「神社そのものを依り代に見立てます。狐は元々神社にも祀られますから、相性は悪くないはずですし」
「神社との相性より、宮司との相性が最悪だろう……。神殺しと神獣だぞ」
「君たちだって、怪異アレルギーと怪異じゃないですか」
ぐうの音も出ない。
先生は「きっと仲良くやれますよ☆」とウィンクして見せたが、言葉の端々に若宮さんへの私怨を感じる気がするのは気のせいだろうか。
不意に茂みががさがさと揺れて、青い目をした白兎がぴょこりと顔を覗かせる。
餓者髑髏の時にも見た、雛遊先生の使い魔だ。
「そう、ご苦労。……綾取さんは無事みたいですよ。火車も問題なく祓えたようですから、私達はこちらに集中しましょう」
「なんだ。あんなこと言ってたくせに、ちゃんと確かめに行ったんだな」
う、と雛遊先生が言葉に詰まりながらも「そりゃ、あの人が仕留め損なっていたら、私たちは火車も相手しないといけませんし」と言い訳を並べ立てる。
「九尾の狐は、小手鞠君が呼べば来ると言ったんですよね? 君に九尾を降ろしてもらいます」
「それはいいけど、神社の結界はどうするんだ? 俺や九尾はこれがある限り中には入らないぞ」
「あ、そうでした……」
参道の入り口まで辿り着いたところで、雛遊先生が唖然とその無色透明な仕切りを眺める。
頑丈な結界は、人間には何の害もないものだから、すっかり忘れていたのだろう。
「星蓮君、こういうものは壊せたりしませんか」
「あーー、なんて言えばいいんだろうな。俺が一歩でも入ろうとしたら、結界も大きく損傷すると思うけど、俺たちからするとそれはルール違反なんだよな。これは『人に害成すものは立ち入り禁止』っていう立て看板みたいなもので、俺や九尾みたいな神に片足突っ込んでるようなやつは、人間がつくったこういう境界を意味なく侵犯したりしないんだよ」
「侵犯するとどうなるんです?」
「天罰が下る」
……天罰。
彼が大きな魚だったころ、土地神様が作った敷居をまたいだせいで、体が崩れてしまったことを思い出す。
彼があんな風になるのは僕も見たくないし、九尾の狐もきっと、この境界を越えようとはしないだろう。
使い魔の白兎も、足元でじっとその境界を見ているだけで、近寄ろうとはしない。
「おまえこそ、こういうの得意分野だろ。正しい手順で解錠すればいい」
「誰が張ったか知りませんが、他家の結界の開け方なんか知りませんよ」
「あ、それなら僕、多分開けられますよ」
けろりと返すと、二人が無言で僕を振り返った。
とりあえず、担がれていた肩からおろしてもらう。
普段はまあまあ足手まといな自覚はあるので、怪異絡みのことで僕が何かを手伝えるのは珍しい。
ちょっと嬉しい気持ちが僕の心を逸らせて、二人がどんな顔で僕を見ているのか確かめもせず、こんこん、と目の前の空間をノックする。
一見、何の変哲もない参道の入口だけれど、僕には《彼女》が作った境界線が見えていた。
「幾星霜の時を経て、いただいたものを返しに参りました」
参道の先、本堂にまで聞こえるように声を張る。
結界が微かに揺らめいて、続きを促すように僕を見た気がした。
二つ、羽合わせ妹背山
四つ、向き合い風車
藤の花を揺り飾り お客人が通られます
檻紙の名を錠前に
いざ 導かれませ 導かれませ
——しゃらん、とどこかで神楽鈴の鳴る音がした。
本堂の奥で何かが目覚めた気配がして、神社を覆っていた結界が、夜霧へ解けるように消え去っていく。
そんな僕の背後で、雛遊先生と星蓮が、こそりとお互いの顔を見合わせていた。
「……おまえは、あいつがどこの誰なのか知ってるのか」
「まさか。調べても何も出てこなかったと以前伝えたでしょう。私だって驚いていますよ。なんで彼にこんな事が出来るのか」
「あのへっぽこ宮司は? あいつなら何か知っているんじゃないのか。そもそも零落した神獣を祓えと言われていたあいつが、俺らを誘った時点でおかしかったんだ」
「ええ、普通なら考えられないことです。綾取さんは足手まといを嫌いますから。君たちのことを信用しているのでしょうけれど……」
「役に立つかどうか、って観点でだろ。それでも解せないのは、あいつが役に立つと判断してるのが、俺じゃなくてこいつだったってことだ」
怪異を見つける手段なんて無数にある。それこそおまえを呼んだ方が早いだろう。怪異アレルギーなんていう不確かなものをあいつが当てにするわけがない。
あのへっぽこ宮司は、こいつがいれば九尾が姿を現すとわかっていたんだ。
うしろで何やら言い合いをしている二人を「あの、開きましたけど……」と振り返ると、二人は揃って満面の笑顔を作って僕に向き直った。
「よーしよしよし。偉いぞカルタ、よくやった」
「さすがです小手鞠君。君のおかげで助かりました」
ごまかすようにもみくちゃに撫で回されて、なんだか二人で隠し事してるなーと不信半分、褒められた嬉しさ半分で半端に頬をふくらませる僕らの足元を、雛遊先生の白兎たちが駆け抜けていく。
十匹近い兎たちは、それぞれ咥えていたお札を神社を囲うように貼り付けると、煙のように消え去っていった。
一匹、迷子なのか逃げ遅れたのか、白兎が境内の真ん中できょろきょろと左右を見渡している。
「ほら、頑張れよエキスパート。あとはおまえの仕事だぞ」
「準備はできています。……小手鞠君、ここに九尾の狐を呼べますか。彼の名前は玉藻前。呼べば来ると言ったからには、近くにいるはずです」
教わった名前を復唱すると、消え残っていた一匹の白兎が、とことこと僕の前まで歩み寄る。
ぶわっと一瞬目の前が白く烟って、僕は一瞬目を覆った。
やがて青白い狐火とともに姿を現したのは、山上でも見た、ゆたかな白金の尾を持つ大きな狐だった。
「……使い魔に混ざってたのかよ。おまえ、神獣に神獣を封印させる手伝いさせてたのか」
「私の胃が限界なので、それ以上言わないでください」
あの兎はさっき綾取さんの様子も見に行かせた子なんですよ、と雛遊先生が口元を覆う。
あーあ、と星蓮が頭の後ろで腕を組んで、けたけたと笑った。
「不敬」
「もう本当に、あの人からの依頼は金輪際絶対に受けないからな!」
乱れた口調で若宮さんを罵ってから、雛遊先生が印を結ぶ。
九尾の狐はひどく穏やかに、僕らを見つめて座していた。
天より降り 九つの尾を持つ者よ
若宮の社に名を結び 神籬に身を宿されよ
千代を経て尚 解けぬ契約の証となりて
この地が御身に 安寧をもたらさんことを
「神獣、玉藻前様。どうかこの地で鎮まられよ」
略式の準備と祝詞では、神獣を従わせることなど出来はしない。
あとは本人の選択に身を任せるのみだった。
祈るような雛遊先生の視線をかいくぐって、九尾の狐が僕の前に伏せる。
茶トラの猫の時と同じように、九尾の狐は擦り寄るように、僕に頬を寄せた。
まるで、遠い記憶を懐かしむかのように。
✤
招かれた白い社は、神のために建てられたものではない。
本堂には既に、違うものが巣食っている。
境内を一瞥して、私は招かれざる客であることを感じ取っていた。
もしも焚き上げられた呪符や呪言が私の自由を縛るものであったなら、或いはそれが吉兆の力を独占せんとするものであったなら、私はここから立ち去っていただろう。
私は罪を犯した。祓われるならば抵抗しないが、この身を新たな禍根の種とされることだけは耐え難かった。
けれど、告げられた祝詞は温かかった。
私の前に立つ少年は、見慣れぬ儀式を前にして、おろおろと私や周囲を交互に見渡している。
その不安げな瞳は、この儀式が私を苦しめるものではないのかと、ひとえに私の身を案じているようだった。
「この地が御身に 安寧をもたらさんことを」
『——ここが君の、安寧の地になることを祈っているよ』
……嗚呼、そうだ。
あの村で最初にかけられた言葉も、斯様に私の安らぎを願うものだった。
私は少年の肩に頭を預けて、目を閉じた。