第六夜┊六「零落した神」
「俺たちからすれば最悪の存在だけど、人間の世界では『綾取』は名家のはずだろ。なんで当主を嫌がるんだ? 他人に顎で使われる方が嫌だろうに」
「彼は家出中の身でしてね。綾取さん……、襲さんと、もう一人の当主候補で長いこと後継者争いをしていまして。綾取家はすっかり二分されてしまったんです。そういう面倒事が嫌いな人でしたから、襲さんはさっさと後継者候補から降りて若宮姓を名乗り、現在はもう一人が綾取家の当主代理となっています」
確かに若宮さんは「面倒事が嫌いな人」という言葉を体現したような人だ。家出したというのも頷ける。
「でしょうね」と僕が返すかたわら、星蓮が「当主代理? 対抗馬が降りたのに、なんでまだ『代理』なんだ?」と僕の後ろに半身を隠したまま尋ねた。
「大人というのは頭の固い者の集まりなんですよ。本人の意志などさておいて、襲さんを当主に、と推進する連中があまりにも多い。本人がいくら若宮を名乗っても、神社を建てただけで姓を変えることはできません。襲さんは未だに立派な当主候補、ゆえにもう一人も当主『代理』なんです」
「取り残されて当主の仕事を継ぎながら、代理扱いされる方は堪ったものじゃないだろうな」
「ええ。ですから彼らの折り合いは非常に悪く、それがまた綾取家を分断させる一因なんです」
なんだか気の遠くなるような話だ。
何もかも面倒になって家出した若宮さんの気持ちに、少しばかり同情してしまう。
「それで、家出したようなはみ出し者が、なんで九尾の狐の後処理なんかさせられてるんだ?」
「綾取さんに九尾退治の依頼をした者たちは、恐らく九尾の狐が零落したと思ったのでしょう」
「零落?」
耳慣れない単語を訊き返すと、「神として信仰を集めていたものが、邪なものに落ちぶれてしまうことです。祟り神、なんて言葉を聞いたことがあるでしょう」と説明してくれる。
「零落は厄介です。神々としての力を保ちながら、言葉が通じず、倫理が通じず、常識が通じない。基本的に神々とは戦う相手ではなく、あくまで交渉する相手。酒や奏楽を振る舞い、お願いして悪事をやめていただけないかお伺いを立てるのです」
それが通じないとなれば、それはもはや天災と同じ。
誰も大地震や台風に向かって「やめてくれ!」なんて言わないでしょう? と雛遊先生が困ったように微笑む。
「綾取さんは、零落した神々を専門に請け負う祓い屋なんです。専門、なんていうと聞こえはいいですが、彼以外に神を祓えるほどの力を持つ者も、神を祓えるほどの気概がある者もいないだけ。ゆえに最後の砦なんです」
「でもあいつ、旧校舎の見回りなんて安っぽい仕事もしてたぞ」
「あの校舎の霊障と怪異の数は異常です。君たちも知っているでしょう? 祓おうが封印しようが、次から次へと新しい噂話が湧いてくる。綾取さんは、旧校舎に零落した神が巣食っているのではないかと疑っているのでしょうね」
「あのノーコンへっぽこ宮司、そんな大したやつには見えなかったけどな。あの距離なら狐の目を射抜けただろうに」
「あの距離って?」
そういえば、僕は結局あの時彼らがどこにいたのか知らないままだ。
はぐれてからかなり時間も経っていたし、離れた場所にいたのかと思っていたけれど、そうでもなかったのだろうか。
「さあ、半里程度じゃないか? 今でいうと……」
「約二キロですね」
「えっ」
あの矢は二キロも先から放たれたものだったのか。
今更ながら、「僕に当たったらどうする」と怒ってくれていた星蓮に全力で味方したい。
なお、一般的にはどんなに大きな和弓でも、有効な射程距離は最高で四百メートルだ。どう頑張っても二キロ先まで飛ばせるような代物ではない。
「恐らく襲さんは、君が九尾を怒らせたのだと思ったのでしょう。神々に祟られると厄介ですから。前足に当たったというその矢は、怒りの矛先を自分に向けるためのものでしょうね」
確かに、九尾に当たった矢は、本当に「当たった」というだけで、害意はなかったように思う。
僕が祓わないで欲しいと言った時も、随分あっさりと首肯していたことを思い出す。
若宮さんは、僕にスマートフォンを渡すように言ったあの時から、九尾を祓うつもりなんて無かったのではないだろうか。
九尾の狐がまだ零落していないと知ったから。
まだ、話が通じると知ったから。
でなければ、こうして雛遊先生が呼び出されることもなかったはずだ。
「あの人が矢を外すことは、天地がひっくり返ってもありえません。祓うつもりがあったなら、一矢目で九尾は死んでいたでしょう」
「大層な自信だな」
「綾取襲の弓というのは、そういうものなんですよ。あの人が一矢外せば、その間に数人が死ぬ。二矢目も外せば全滅するかもしれない。——零落した神々の御前。彼が呼ばれる『仕事』というのは、そういう場面がほとんどなんです」
私は最後の手段なんですよ——。
今朝、カフェで笑いながら告げられた、若宮さんの言葉が蘇る。
それは本当に文字通り、最後の手段、……最後の砦。
彼が祓えなければ人が死ぬ。
誰よりも早く的確に、怪異を屠る祓い屋の先鋒。
——神殺しの、綾取襲。
「そんな最終兵器が、なんで嫌われるんだ?」
もっともな星蓮の疑問に、「祟られるからですよ」と返される。
「神と怪異のもっとも大きな違いは、神は『祟る』ということです。怪異の霊障は怪異を祓えば消え去りますが、祟りは神を殺しても残り続ける。零落した神を祓うなど、どんな祟られ方をしてもおかしくない。そばにいれば巻き添えを食らうかもしれないでしょう」
「ふん、随分と都合がいいな」
「そうですよ、人間はみんな身勝手です。襲さん一人に神殺しを押し付けて、その余波を受けたくない、自分勝手で独善的なものばかり。あの人が最前線を退けば、代わりに自分達が神々を相手にしなくてはならなくなる。だから綾取襲を当主に、と声高に叫び続ける者が後を絶たないのです。彼らは結局、彼を矢面に立たせたいだけなんですよ」
あの仰々しい隈取りと紙紐の結界は、祟りから身を守るためのもの。
人々の代わりに、乞われるまま神を祓い、祟りを引き受ける、捨て駒のような存在。
「おまえは、あいつが嫌われてるのは火事のせいだとは言わないんだな」
星蓮の言葉に、雛遊先生は小さく息を呑んだが、すぐにいつもの柔和な顔を作り直すと「君は本当に物知りですね」と当たり障りのない返答を寄越した。
「ですがそれはデリケートな話題ですので、どうか他言無用でお願いします」
「他言も何も、こんなことを喋る相手なんていないけどな。——ところで、何でおまえらは分担したんだ? あいつが封印だの使役だのの小細工が苦手な脳筋の武力行使主義者なのは分かったが、九尾の狐を封印する手伝いくらいはできるだろ」
若宮さんをあの崖に置き去りにしたことに触れられて、雛遊先生はぎくりと肩を強張らせた。
誰にともなく言い訳するように、「……猫はね、祟るんですよ」と静かに答える。
「猫は神の使いであるとも言われています。だからでしょうか。怪異の中でも、猫だけは祓うと禍根を残す。火車は元々、化け猫や猫又だったものの末路だと言われています。君たちを巻き込まないように、襲さんが一人残ったんですよ。……あの人の仕事は、そういう仕事ですから」
そうやって、生身のまま人々の盾となり、祟りを引き受けるのが、当たり前になってしまっているから。
雛遊は、単身生身で怪異と対峙することはない。
怪異を使役する雛遊の前ならば、怪異と対峙するのもまた怪異だ。
人間が祟りを受けることはない。
本当ならば、代わってやるべきだった。
火車が猫の怪異だとわかっていて、彼をあの場に残すべきではなかった。
そうでなくとも、彼は……。
「今後、猫の怪異を見かけたら、あの人には近付けないであげてもらえますか」
雛遊先生の言葉に、僕らは揃って首をひねる。
「零落した神々じゃなくて、猫の方をですか?」
「はい。猫の方をです」
若宮さんは祟りを恐れず、神々にも歯向かうのだと説いた口で、「猫からは遠ざけろ」という。
神々に比べれば、祟るとはいえ、猫の怪異など微々たるものだろう。
雛遊先生の真意をはかりかねて、僕らは黙って続きを待った。
「人には、得手不得手があるでしょう」
得手不得手。
その話は本日三度目なのだが、カフェでの会話も、その言葉から呼び出されたことも知らない雛遊先生には知る由もない。
得意なことと、不得意なこと。
できることと、できないこと。
堕ちた神々さえも相手に取る若宮さんが、不得意とすること……。
「あの人は、猫が苦手だから」
雛遊先生が踏み出した足が、泥濘を踏みにじる。
視線を合わせないまま落とされた言葉は、なぜだろうか、ひどく罪悪感のこもった声に聞こえた。